イスラームの政治理論

イスラミックセンター編著


五、カリフ職の理論とイスラームにおける
民生主義の本質


ここでイスラーム国家の構成と構造について簡単に説明しておく。イスラームにおい ては神のみが真の主権者であることはすでに述べた。この基本的原理に留意し、神法 を地上で実現する人々の立場について考察すれば、彼らは主権者の代理者とみなされ るのは当然である。イスラームはこの代理者という立場を彼らに与えた。クルアーン はいう。


アッラーは、なんじらのうち信仰して善い行いにいそしむ者には、なんじら以前の者 に継がせたように、この地を継がせることを約束したもうた。


この節は、イスラーム国家理論を説明する。そこから二つの基本的問題が現われる。 一、第一にイスラームは主権者のかわりに代理職(ヒラーファ)という言葉を使うこ とである。主権は神だけに属し、従って神法に則って権力をもち支配する者は主権者 の代理人であり、彼に委任されたもの以上の力を行使する権力を与えられてはいない。 二、第二の点は、地上を支配する権力は信徒の共同体全体に与えられたということで ある。特定の個人や階級が、その地位に就くなどとは述べられていない。したがって 信仰者がカリフたりうる。カリフ職は一般の人々のものであり、限られたものでも、 特定の家系、階級、人種のためのものでもない。


すべての信仰者はその個人の資格において、神の代理人である。この地位のために、 個人的に神に責任を負う。ムハンマドはいう「汝のうち誰もが支配者であり、誰もが その臣下に責任がある」と。このように、あるカリフが他のカリフに劣るということ はない。


これがイスラームにおけるデモクラシーの真の基礎である。以下の問題点は、一般の 人々が行なう代理職の概念を分析してみた結果である。


(A) 誰もが神のカリフであり、このカリフ位に平等に参加する資格がある社会では、家柄 や社会的地位の相違に基づく階級分裂はあり得ない。この社会では、すべての人が平 等な地位と身分を享受し、優れていることを判断する唯一の基準は個人の資質と人格 であると、繰り返し主張されたことである。

メッカ征服以後、全アラビアがイスラーム国家の支配下に入った時、古代インドのバ ラモンのような地位をアラビアで享受していたクライシュ族の成員に、ムハンマドは いった。

クライシュの人々よ、アッラーは汝らが無明時代に傲慢であったことおよび祖先を尊 崇することを根絶した。人々よ、汝らは皆アダムの子孫であり、アダムは粘土からつ くられた。祖先の中には誇りにするものは何もない。アラブが非アラブに対してとり えがあるとか、非アラブがアラブに対してとりえがあるということはない。神の目か らみれば、汝らのうちで最も賞賛に値するのは最も敬虔な者である。


(B) 個人であれ、集団であれ、個人の資質の成長をさまたげ、個性の発展を遅らせがちな 家柄、社会的地位、職業の故の差別はない。

すべての人が平等に進歩の機会を享受し、生まれつきの資質と個人的長所に応じて、 他人にも同様の権利を認めつつ、できるだけ進歩するための道はひらかれている。こ うして個人の未来に無制限に眺望がひらけている。奴隷やその子孫が軍事官吏や地方 の総督として任命され、最も高い家系に属する高貴な人が、恥を感じることなく彼ら に仕えたのである。靴を縫い修縫していた人たちが、その社会的地位が上昇し、最も 高い階層のリーダー(イマーム)に、織工や布地売りが裁判官(カーディ)や法律学 者になるなど、今日では彼らはイスラームの英雄として認められている。これはハデ ィースにも明文化されている。

「たとえ黒人が汝らの支配者として任命されても従え」と。


(C) すべての人が神の代理人であり個人あるいは集団が独裁者になる余地はない。個人で あれ集団であれ、大衆から彼らのカリフになる権利を奪い、絶対的支配者になる資格 はない。国事を遂行するために選出された者の立場はこれ以上のものはない。すべて のムスリム一学術的に言えば神のすべての代理人たち一は行政的目的のために彼らの カリフ位を選出者に委任しているのである。彼は一方では神に責任があり、他方では 彼らに自らの権威を委任した同胞たちにも責任がある。今もし彼が無責任な絶対的支 配者、すなわち独裁者になれば、カリフというより強奪者の性格をもつことになる。 なぜなら独裁権は一般の人々のカリフになる権利を否定することにより生ずるからで ある。疑いなくイスラーム国家は包括的国家であり、その範囲内に生活のすべての分 野を含む。しかしこの包括性と普遍性はイスラームの支配者が遵守し施行しなければ ならない型法の普遍性に基づいている。神により生活のすべての相について与えられ た指針は、そのまま確実に施行される。しかしイスラームの支配者はこの教示からは ずれたり、自ら統制する政策を採ることはできない。彼は人々を特定の職業に勅かせ たり、就かせなかったり、特定の技術を学ばせたり学ばせなかったり、特定の文字を 使用させたりさせなかったり、一定の衣服を着せたり着せなかったり、ある方法で彼 らの子供を教えたり教えなかったりすることはできない。

ロシア、ドイツ、そしてイタリアの独裁者が専有し、あるいはトルコでアタチュルク が行使した権力はイスラームではそのアミール(指導者)に与えられたことはなかった。

この他に重要な点は、イスラームにおいては各個人は個々に神に対し責任があるとさ れているということである。この個人的責任は他の誰とも共有しえない。個々に人は 好きな道を選び、資質にあう方面で自らの能力を発展させる自由を十分に享受する。 もし指導者が妨げたり、個性の成長を妨害すれば、指導者はこの暴政のため自ら神罰 をうける。従ってムハンマドとその後のカリフの支配においては、統制の形跡がすこ しもないのである。


(D) すべての正常で成人のムスリムには男も女も自分の意見を表わす資格がある。何故な ら、彼らは各々カリフになる資格があるのだから。また、神はこのカリフ位に条件を つける。それは富や能力を基準としたのではなく、信仰や正しい行為を条件とし、そ れ故にすべてのムスリムは平等に自らの意見を述べる自由をもっている。



●個人主義と集塵主義の間の釣り合い


イスラームは一方でこの最上の民主主義を確立しようとし、他方で国家の健全のため に、悪影響の及ぶある種の個人主義を断ち切った。個人と社会の関係は個人の人間性 が減損されたり、共産主義やファシストの社会体制におけるように腐敗させられたり することなく、また個人は西欧の民主主義で共同体に害を与えるとは異なり、その限 度を超えることを認めない程度に規定された。イスラームにおいては、個人の生活の 目的は共同体の営みのそれ、すなわち神法を実施し、執行し、そして神の満足を得る ことと同一である。個人の権利を保護し、その上で共同体に対する一定の義務を課す 。こうして個人主義と集塵主義の求めるものはよく調和し、個人はその潜在カを発展 させる機会を十分に与えられ、その発展させた資質を共同体に奉仕するために使用す ることが可能となる。要するにこれがイスラーム政治理論の根本原理であり、本質的 特徴なのである。


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