イスラームの政治理論

イスラミックセンター編著


四、イスラーム国家、その本質と特色

前述のように、イスラームは政治哲学の観点から、世俗的な西欧民主主義のまさに正 反対の性格であることが明らかである。西欧的民主主義が哲学的根拠としているのは 、人民が主権を持つということである。そこでは絶対的立法権−価値を決定、行為を 規定−は人民の手にある。立法は彼らの特権であり、法律は彼らの好む意見と一致し なければならない。もしある特別法を人々が望めば、宗教的倫理的観点からみれば誤 まっていても、法律全書に載せられるような手続きがとられる。人々がある法律を嫌 い、その廃止を要求すれば、それが正義に基づく法であったとしても、ただちに削除 されてしまう。人間の決議を至高のものとする、このような考え方は、イスラームに はない。イスラームはすでに説明したように、人間に主権があるという哲学を完全に 廃棄し、その政治形態を神に主権があり人間は代理職(ヒラーファ)にあるというこ とに基づいて構築するのである。(註三)


イスラームの政治形態に最もふさわしい名称といえば、「神権政治」と言い表わされ 得る「神の国」であろう。しかしヨーロッパの司祭階級が思いのまま、神の名の下に 彼らが作った法を施行し、かくて事実上それ自身の神格と神性を一般大衆に押しつけ た西欧的神権政治とは全く異なるものである。(註四)かような政治機構は聖という よりも悪魔的である。これに対しイスラームによって構築された神権政治は何らの特 殊な宗教的階級によって支配されるのではなく、身分の高いものも低いものも含めた ムスリムの全共同体によって運営されている。全ムスリムは経典と使徒の慣行に基づ いて国家を運営する。もし新しい用語を許されるなら、この統治機構は「神権民主主 義」=神の民主政体の名称で呼び得る。というのも、そこではムスリムは神の主権の 下に限られた人間的主権を与えられているからである。行政部はムスリムの全体意志 によって設置、廃止され、シャリーアに明らかな指図がみられない行政上の事柄や問 題は、ムスリム間の意見の同意によって解決される。イスラーム法について正しい意 見を与えることができ、またその資格のあるすべてのムスリムは、必要な時に神の法 を説明することができる。この意味でイスラーム的政治形態は民主主義である。しか しすでに説明したように、神あるいはその使徒の明確な命令がすでに存在する場合、 ムスリムの指導者、政令発布者、宗教学者にせよ、独自の判断を下すことができず、 一人一人が平等である世界のムスリムの全体意志でも、変更する権利はないという意 味で、「神権政治」であると言い得る。


さて、イスラームでは民主主義がなぜ制限され、その制限され抑制された本質は何か 、について一言説明しておく。神は与える保護の代償として、人間の精神や知性の自 由を奪ったと一般には言われている。しかし、神は人間の自由を奪うためではなく、 まさにその自由を保護するために彼自体に立法権を保持しているのだ。神の目的は人 間が迷ったり、自ら滅亡を招くのを救うことなのである。


いわゆる西欧的世俗的民主主義を少し分析してみれば、この点はたやすくわかるであ ろう。この民主主義は人民の主権に基づいていると言われる。しかし周知のように国 家の構成員すべてが立法や行政に携わるのではない。彼らは自ら選出した代表者に自 らの主権を委任せねばならず、後者は彼らに代って法律を制定し施行する。このため に選挙制度が作られた。しかし政治と宗教が分離され世俗化した結果、社会、特にそ の政治的部分は道徳や倫理にはそれほど重きをおかなくなった。これはまた富、権力 、人を欺く宣伝によって、大衆を騙ことができる人々だけが最高位に立つということ でもある。代表者は一般大衆の投票により権威を装い、主権(イラーフ)の地位を獲 得する。彼らはしばしば法を制定するが、それは彼らを選んでくれた人民の最大の利 害のためでなく、自らの党派的・階級的利害を伸張させんがためである。彼らは支配 している人々から委任された権威の力で、人々に自らの意志を押しつける。これは英 国やアメリカ、世俗的民主主義の安息所であると主張する国すべてにおいて、人々を 取り巻いている状況なのである。


たとえこの側面を大目に見、それらの国の法は人民大衆の希望に従って制定されるこ とを認めたとしても、人民大衆の大部分には自らの真の利害を知ることができないこ とは経験的にわかりきっている。生活に関する事柄の大部分で、現実の一側面のみを 考慮に入れ、他の側面を見失なうのは人間の自然の弱さである。人間の判断は通常一 方に偏り、重要な事柄を公平に科学的理性の客観性をもって判断することは稀であり 、情緒や欲望によって左右させられている。おうおうにして人間は理性の申し立てを 、単にそれが感情や欲望と相容れないというだけで拒否する。冗長を避けるために一 例だけ、アメリカの禁酒法をあげる。飲酒は健康に害があり、精神的知的能力に有害 な影響を及ぼし、そして人間の社会に無秩序をもたらすことが理性的に論理的に立証 されている。アメリカ人はこれらの事実を認め、禁酒法の制定に同意しな。従って法 は投票で大多数の支持を得て承認された。しかし実施されると、賛成投票したまさに その人々がそれにそむいた。悪質の酒が非合法に製造消費され、それらの利用と消費 量は以前にもまして増大した。犯罪数も増加した。そして結果的に、飲酒は以前その 禁止に賛成投票した人々の支持を得て合法化された。大衆の考えがこのように急激に 変化したのはいかなる新しい科学的発見でも、禁止の利点をくつがえすような証拠を 提供する新事実発見の結果でもなく、人々は完全に自らの習慣のとりこになっており 怠惰にふけるのをやめられなかったからである。自らの主権を自らの中にある邪悪な 精神に委ね、欲望と情熱を自らのイラーフ一神一とし、その呼び声に応じて、皆その 合理性と正当性を確信したうえで章認した法律を廃止することに賛成したのである。 他に人間が絶対的立法者たる任にたえないことを証明する同様な例はたくさんある、 たとえ彼が他のイラーフに任えることは完全に逃れるとしても、彼は自らの下級の感 情の奴隷となり、自身の中にある悪魔を主権者の地位に昇格させるのである。人間の 自由を制限することはそれが適切であり、また人間からすべての選択権を奪わないと いう条件ならば、人間自体の利害関係の中では絶対に必要なのである。(註五)


神は、イスラーム的術語で神の制限(フドゥードッラー)とよばれる制限を制定した のであり、これらの制限は一定の原則、抑制均衡、日々の生活や行動の異なる分野で の特別の規制からなり、人間が調和ある平穏な生活が送れるよう規定された広い枠組 の設定である。その枠の中で人間は自由に規則をつくり、自らの問題を決定したり、 行動の補助的な法律や規定の枠をつくることができる。この制限を超えることは人間 には許されず、超えれば、人生の設計は失敗に終ることになろう。


人間の経済生活を例にとれば、この分野でも、神は人間の自由に一定の制限を設けて いる。私的所有権は認められるが、ザカート(喜捨)の支払い義務と利息の取り立て 、賭け事、投機の禁止を条件としている。財産所有者が死んだ場合、親戚縁者間での 相続法が規定されている。又、富の獲得、蓄積、および消費のうちある形態は非合法 とされている。人々が制限枠内で、正当な制限を遵守し人事を統制すれば、一方で個 人的自由は適切に保護され、他方で資本家の抑圧と共に始まり、労働者階級独裁で終 わるという階級闘争、特定の階級が他の階級を支配するといった可能性が取り除かれ るのである。


同様に家庭生活の分野において、無制限な性の交合を禁じ、適性ある男が婦人を保護 すること(フルダ)を規定し、さらに夫、妻そして子供の権利をはっきり定めた。条 件付き複婚は認められるが、離婚、別居の法ははっきり定められ、密通姦淫の密告に 対する罰則が規定された。神は、人間が守れば、家庭生活を安定、平和と幸福の安息 所とする制限を規定した。家庭生活を暴虐圧制の地獄と化す男が女を専制支配するこ とはなく、人類文明を破壊する倶れのある女性解放とその地位を認める西欧での悪魔 的な運動もないだろう。


同様に、人間文化や社会の保存のために、神はキサース(報復)の法を制定し、強盗 にはその手を切断することを命じ、飲酒を禁止し、裸体を露わにするのを制限し、他 の若干の同様な規則や法律を規定することにより、社会的無秩序の芽をたち切った。 細部については割愛するが、一連の指図を通じて、神は人間に対して行為の永久不変 の規範を供給したのだ。それは、本質的な自由をいささかも奪うものでなく、精神的 能力の刃を鈍らせるものでもない。人間の前途に明確な道を示し、その結果、人間生 来の無知や弱さのために破滅の迷路の中で自らを見失うことなく、また能力を邪悪な 目的追求に浪費するかわりに、この世と来世での成功と進歩に向う道を行くことがで きるのである。


この規範は神によって制定されたゆえに変更できぬものである。あるムスリム諸国が した如く、それに違反することはできるが、変更はできない。最後の審判の日まで不 変のままであろう。それ自身の成長や発達の道をもち、人間には変更を加える権利は 少しもない。イスラーム国家が成立する時はいつでも、この規範が基本的法体系を構 成し、立法の第一の源となる。ムスリムであり続けたい者は誰でも、イスラーム国家 の基本法を構成するクルアーンやスンナに従う義務を有するのである。



●イスラーム国家の目的


クルアーンやスンナに基づき形成された国家の目的もまた、神によって規定されてい る。実にわれは明証を授けて使徒たちを遣わし、またかれらと一緒に、啓典と(正邪 )の秤(はかり)を下した。それは人びとを正義のために立ち上らせるためである。 またわれは鉄を下した。それには棒大な力があり、また人間のために種々の便益を供 する。(第五七章 二五節)


この節においては、鉄は政治権力を象徴しており、また預言者の任務は、健全な生き 方を明確に示す経典の中の神の基準に従って、「社会正義が保証される状態」をつく りだすことを明らかにしている。経典の他の便所で神はいう、(かれに協力する者と は)もしわれの取り計いで地上に(支配ねを)確立すると礼拝の務めを守り、定めの 喜捨をなし、(人びとに)正義を命じ、邪悪を禁ずる者である。(第二に章 四一節)


あなたがたは、人類にむされた最良の共同体である。あなたがたは正しいことを命じ 、邪悪なことを禁じ、アッラーを信奉する。(第三草 一一〇節)


クルアーンによって視覚化された国家の目的は否定的でなく、積極的であることはこ れらの節を熟考してみれば明らかであろう。国家の目的は、単に人々が互いに搾取し 合うのを防いだり、彼らの自由を保護したり、国民を外国の侵入から守ったりするこ とばかりではなく、クルアーンの中で示された社会正義のための調和のとれた機構を 積極的に展開させ、発展させることを目的としている。忍のあらゆる形態を根絶し、 神によって明白に言及されたあらゆる徳や善行を奨励することである。このために政 治権力は、必要のある時、いつも利用され、宣伝や平和的説得のためのあらゆる手段 を探らねばならない。道徳教育についても、社会の影響力、世論の力を利用してゆか ねばならない。


イスラーム国家は普遍的であり、かつ包括的である。こういう国家は、活動範囲をは っきりと限定することはできない。その活動範囲は人間生活全体と同一の広がりをも つ。生活や活動のすべての相を、その道徳規範と社会改革のための計画に沿って形づ くろうとする。このような国家ではどんな領域の問題でも、個人的なあるいは私的な ものとなすことはない。この側面から考えると、イスラーム国家はファシスト共産主 義者の国家と似かよっているように見える。しかしその包括性にもかかわらず、現代 の全体主義や独裁主義の国家とは根本的に異なったものである。そこでは個人の自由 は圧迫されないし、また独裁主義の形跡もない。それは中庸の道を示し、人間社会の 発展の最高段階を現わす。イスラーム的統治機構を特徴づける調和と節度およびその 中での正と悪の正確な区別は、このような均衡ある機構は全智全能の神以外では誰に も案出しえないことは順を追って説明してゆけば理解し得るであろう。



●イスラーム国家はイデオロギー国家である


イスラーム国家のもう一つの特徴は、それがイデオロギー国家であるということであ る。イスラームにおける国家とはイデオロギーに基づき、その目的はイデオロギーを 達成することであるということはクルアーンやスンナを注意深く考察してみれば明ら かである。国家は改革のための手段であり、そのように行動しなければならない。こ の国家は、基づくイデオロギーと型法を信ずる人々によってのみ執行運営されるべき だということをまさにこの本質が規定している。イスラーム国家の支配者は、その全 生活がこの型法の遵守と施行に向けられ、その革新的プログラムに賛同し信じ、なお かつ完全にその精神を理解し、細部に精通している人々でなければならない。イスラ ームは、この点において地域的、言語的あるいは口の色の制限をもうけず、すべての 人々の前に、その規範や改革のための計画を示す。このプログラムを受け入れる人は 誰でも、属する人種、民族、国家が何であれ、イスラーム国家を運営する組織に参加 することができる。しかしそれを受けいれない人々は国家の根本的政策を作成するこ とに口をだす資格はない。彼らは非ムスリム市民(ズィンミー)として国家の内部に 住むことはでき、イスラーム法によって特定な権利をえ与えられている。ズィンミー の生命、財産、名誉は充分に保護され、もし何らかの社会奉仕をすることができるな らば、それは受け入れられる。しかし、このイデオロギー国家の根本政策に影響を及 ぼすのは許されない。なぜなら、前述の如くイスラーム国家は特別なイデオロギーに 基づいており、そのイデオロギーを信ずる共同体である。ここでイスラーム国家と共 産主義国家の間にある種の類似に気づく人もあろう。しかし共産主義国家が反体制の 綱領やイデオロギーをもつ人々を扱う姿勢はイスラーム国家の姿勢とはまったく異な る。共産主義国家と違い、イスラームはその社会的原理を強制的に他人に押しつけな い。財産の没収、大量処刑、シベリアの奴隷キャンプへ追放などによって恐怖政治を 招くことはない。イスラームはその少数を根絶などはせず、その保護を望み、彼らが 自由に自己の文化に従って生きるように計らう。


イスラームがイスラーム国家の中で、非ムスリムに与えた寛容で正義の処遇、正と邪 、善と悪にイスラームが設けた明確な区別はイスラームに偏見をもたないすべての人 々に、神によって派遣された預言者は歴史の舞台のここそこに気どって歩く虚偽の改 革者とは著しく異なった方法で任務を達成しようとしたと確信させるであろう。(註六)









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