イスラーム入門シリーズ
No. 10

M・A・クルバンアリ著


五、一夫多妻制



 人間の尊厳を基盤とした豊かで実際的な生き方がイスラームである。あらゆる極端は悪であり、それには善とされていることの延長も含まれる。たとえば人助けに没頭し て家庭をかえりみなければ、情状酌量の余地はあっても、悪になる。山の中にこもって隠者になり、アッラーのことばかり考えて家庭的・社会的責任を回避すれば、これも悪である。もっとも、悪しか選べなければ、より小さな悪を選ぶべきだ。イスラー ムはすべての問題に現実的な解決を与える。対人関係においてその角をとり、はじき合いをなくし、暖かく充実した隣人関係をもたらす。これは個人だけでなく、民族や国家のありかたにまで作用する。この健全な人類社会のありかたを示す教えをみると き、真理を求めるものなら好感をもたざるを得ず、より高度な次元からの教えである ことを直観するはずだ。その理想的な社会には真摯な温和さがただよい、真剣なうちにも殺伐さはない。個人の焦燥とかっとう、人間同志のいがみあい、社会制度のゆがみ、沸騰点に達する不安と不満の爆発などへの、いわば安全弁の設けられた、バランスのとれた教えである。



 その安全弁のひとつが限定された一夫多妻制である。イスラーム以前の無制限のものではなく、また隠れた陰湿な関係でもない。それは家庭を護り、男女の権利を明確にし、子の存在基盤を確定する制度だ。



 現代の他の法制度は個人の自由を認め女権の回復につとめているが、男女間の自由意志による恋愛と性交を肯定し、乱交も特殊な場合を除き罪にはならない。浮気のひと つもできない男は一人前ではないという観念がまかり通り、女性もその風潮に同化し ようとする。これは人間性の中の個という断片にライトを当てて強調した異様な制度であり、人類の流れを否定し社会の根本を破壊するものだ。たしかに個人の自由は尊重されるべきだが、それには他人に迷惑をおよぼしたり犯罪行為につながらないとい う前提がある。現代法においてもそれは定められているが、こと人類の未来におよぼ す影響に関しては、人間には未来を断定する能力がないという点で、法の管轄外であ るとする。個という断片だけをとりあげて過大に評価し、家庭を破壊する自由を与え、子の権利を否定し、人類の未来に混乱を投じる自由を授ける今日の歪んだ社会制度がありとあらゆる異様な現象を生み出している。その思想こそ、一見人間の自由をみとめているようでいて、かえって人間性を牢獄に閉じ込め未来を失わせ、刹那的な生 き方を強要する、諸悪の根源である。



 人間は他のすべての生命体と同じく進化の体質をもつが、他の動植物と違って人間の進化は文化を通してのものだろう。現代の人間が進化の最上位にあるわけではない。 それは今日の社会をみてもわかる。いまの世界は試行錯誤の混乱期にあり、それは交通の便やコミュニケーションの発達によって人々が狭くなった地球の中であっというまに引き寄せられてしまい、そのくせ人類共通の文明をもつ努力をほとんどしなかっ たからだ。異なる人種や民族などへのいわれのない恐れや嫌悪は人間の、心にひそむ 原始的な衝動によるもので、そこから抜け出すには、教育と経験と理解に頼るしかない。最初に西洋人を見た日本の村人は鬼だとおもったそうだが、日本人にかぎらず、 いまでも民族、国家、人種としてのアイデンティティを無上のものとし、外国人にた いして違和感をおぼえるものは世界中に多い。



 やっと近ごろ、これではならないという機運が盛り上がってきたが、人類共同体への進化の道ははるかに遠い。何世代もかけて歩まなければならない道だ。そのためには人類の流れを大切にし、子を大切に育て、人類の未来を大切にしなければならない。 これは人間が無意識のうちに待っている種としての本能だ。



 その本能は男性と女性ではあらわれかたがちがう。生理学的なちがいから、精子と卵子の数のちがいから、妊娠、授乳などの機能の相違から、一般的にいって男性は子に たいして女性ほどの愛情はもてない。男性の子にたいする愛情は、もっと薄められ、広められ、次の世代全体を包含するものとなるはずだ。これは、個としての子供が必要とする世話の密度から考えて、あまりにも希薄すぎる。そこで人類の流れを絶やさ ないための直接の主役は女性であり、男性はよい社会を建設するなどというまえに、 この主役を大切にしなければならない。さもなくば、男性のすべての夢は砂上の楼閣のように崩れおちる。



 動物の場合は環境が支配する。ある種は年に一回しか性欲をもたない。ある種は年に数回。人間は人生の始めと終わりの一定期間性欲をもたないだけで、あとは自由に発 揮できる。そのかわり理性で制御する。性欲にかぎらず本能を制限しなければ、それは動物の世界だ。自我が強大であるだけ、動物よりは始末が悪い。野獣のジャングル、野獣の都市が出現する。温和な市民はたまったものではない。野獣より数百倍も凶悪だ。このような都市現象は世界のところどころにあらわれている。



 本能の抑圧も欲求不満をこうじさせ、度合いに応じて理性を吹きとばすまでにたかまる。アッラーに仕え煩悩を超越するはずの聖職者でさえ禁欲主義をまっとうできるものがすくないのは、それが人間の本性に反しているからだ。ましてや一般大衆に抑圧 を加えることは、社会の自滅につながる。



 すでに述べたように、性本能のあらわれは男女によって異なる。「人類の未来への歩 みにおいて男性の性的能力は一夫一婦制を大きく超えている。一夫一婦制に固定され ることは男性にとって能力のはなはだしい制限になる。むろん社会生活において本能の制限は必要であり、ある種の社会においては一夫一婦制が最高の形態であるかも しれない。たとえば男女がまったく同数で、すべての男性が健全な性的能力と扶養能力をもち、すべての女性が健全な母性的機能をもち、そのうえ男女が互いの相手にしか魅力を感じないという場合だ。そのようなへんてこりんな社会が存在するはずもないが、かりに存在したとしても、人間のものではなく、ロボットの世界だろう。



 個々の場合、互いに相手だけを愛しつづける幸せな夫婦もあるだろう。その場合は一 夫一婦制が最善かもしれない。だが社会の全体にたいして一夫一婦制が強制され、そ れが法の名のもとで制度化されるとき、社会のシステムは硬化し、社会は崩壊の危険にさらされる。いろいろな事情から男性の本能は他の女性を求めはじめる。抑圧が大きければ、反発も強い。需要は供給を呼び、男性に性的な快楽を与える女性の職業ができる。ある種のうしろめたさをおぼえながら、男性はそこに金を投ずる。その金にむらがる男女によって、反社会的な組織ができる。もちろん法など無視する連中だから、麻薬や覚せい剤、あるいは他の犯罪にも手をそめる。縄張りをめぐって組織同志の争いが起きる。そこから収入をえて生活するのだから、必死になり、殺人も辞さない。



 人間の欲求は社会生活においてあるていど規制されなければならないが、なにがなん でも一夫一婦制にかぎるというのでは男性にとって酷だ。もし妻が病身で性交も子育 ても家事もできなかったらどうなる。夫は性欲を抑圧し、妻の看病に徹し、仕事をやめて家事に専念すべきだろうか。たしかに病気なら病院に入れれば看病してくれる。 だがそれは妻として、主婦として、母親としての立場を剥奪され、家庭から切り離さ れ、患者として病院の壁の中に隔離されることだ。それがどうしても必要ならしかたがない。だがそれほどでもなけれぱ、家庭にいて家族の好意と暖かいはげましを受けたほうが回復は早い。



 家事ができなければ、家政婦を雇ってもいい。だが家政婦は働いて収入を得るためにくる。そこは自分の家庭ではなく、職場にすぎない。互いに主張と遠慮があり、すべてを打ち明けて話し合う家族の一員ではない。中世の貴族の家庭には何十年もつとめる家族同様の使用人もいた。現代の大金持ちの家庭にもいるかもしれない。その場合、使用人が夫婦で同居しているなら、長年のつきあいで子供もなつくだろう。だが使用人の立場は、双方が忘れることはあっても、どこかにあらわれ、家族の完全な一員 にはなれない。



 「男性側の性欲の問題も無視できない。」夫は家庭を修道院として、禁欲主義に徹するべきなのか。病身の妻を離婚してひとりぼっちでほうりだすのは非人道的だ。隠れた愛人関係をもつのは陰湿であり、家庭にひびがはいる。妻と家族の同意をえても、 愛人は社会的に妻としての立場をもてないから家族の一員にはなれず、家庭のまとま りはうすれてくる。



 そこで、家族の一員として、このすべてを解決できる助っ人を招いたらどうだろう。 そのひとは家事も育児も看病もし、家庭を運営する。そのひとは同格の妻として社会に認められ、その立場は法によって護られる。もちろん、自分も子を産んで育てるが、家族の間でわけへだてはしない。このようなひとを迎える場合、男性の好みだけで決めてはならず、妻や子供や家族の間で検討し、みんながなかよくやっていけるひとをえらぶべきだ。



 この夫と妻の立場が逆になったらどうか。夫が病身で性的能力もなく、仕事ができず家族を扶養することもできなければ、妻は夫を離婚できる。妻は自分の財産や収入で夫を養う義務はない。離婚したときは結婚契約書に書き込まれている条件にしたがっ て離婚慰謝料を受け取る。夫に支払い能力がなければ、国家がそれを保証する。そして病身で生活力のない夫は社会共同体がめんどうをみる。



 特殊な例だけでなく平均的な家庭においても、夫が外で仕事をして帰ってくると、家庭はいこいの場だが、妻にとって家事は幼児がいるような場合、重労働になる。夫は 一週間に一日ないし二日の休みがあり、年間の有給休暇などもあるが、妻が週に二日の休みをとって夫も家庭も赤子もほったらかしてどこかに行ってしまったら大変だ。 あるいは年に数週間の休暇をとって、幼児を夫にあずけて出ていったらどうなる。こ のような角度から考えると、二人以上の妻がなかよく家事に当たることができれば、女性にとってもずっと楽になる。



 イスラームの限定された一夫多妻制は、このような観点からみて社会の安全弁である 。妻は四人まで認められるが、夫は妻たちを同格・同等に扱わなければならない。こ れは親切、恩いやりなどの精神面と衣食住、贈り物などの物質面でまったく平等に扱うことである。これは夫にとって大変なことであり、もし平等に扱う自信がなければ一人だけにせよ、とイスラームはいう。それどころか聖クルアーンでアッラーは「な んじらは、いくら望んでも、女たちを公正・平等に扱うことは困難である」と断言し ている。



 明らかに、イスラームは一夫多妻制を強制しているわけではない。公正・平等に扱うことができない場合は、一夫一婦制の方が望ましいといっているのだ。それでもある種の状況のもとで一夫多妻制がよい結果をもたらす場合を認めて、家庭不和と社会的混乱への安全弁としている。ここで、法によって絶対的に禁止してしまい種々の弊害 をもたらす社会と、場合に応じて許容する社会の、いずれが柔軟性にとんだ現実的な社会だろうか。







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