イスラーム入門シリーズ
No. 10

M・A・クルバンアリ著


四、未来への基地=家庭



 ところで、人間とはいったいなんだろう。



 何のために生き、なぜ死ぬのか。



 イスラームでは、人間はアッラーを崇拝するために存在し、アッラーの代理者として 地球を管理する役割を担い、そのために限定された範囲で能力と自由を与えられてい るという。この世は人間の永遠の生命のひと区切りであり、与えられた能力と自由によってアッラーを求め、なにものにも強制されず自発的に善悪を選択し、自分のゆくべき道を定める。そして生と死に区切られた一定期間終了後、人生におけるプラスと マイナスの総決算を経て、天国か地獄へゆく。



 アッラーの別名は真理、慈悲、正義、平和、その他もろもろの究極の善であり、それらの美徳を発する光である。これに対して人間の魂は、その光を受け、反射する鏡にたとえられる。アッラーを求めることは、その光を受けるために魂を磨くことで、ア ッラーを崇拝することは自分を高めることになる。アッラーの光を魂の鏡から反射し 、隣人によい影響をあたえ、その光りに満ちた豊かな人類社会を建設することだ。こ れらの善や美徳をそれぞれ別個のものと考えてはならない。その根本において慈悲、 正義等はひとつである。この唯一の源を求め、崇拝すべきだ。



 アッラーの代理者として地球を管理するためには何をすべきか。個人、集団、国家な どが独自の立場で遂行できる任務ではない。互いに意見を交換し世界中の合意をえて、はじめて可能となる大任だ。そのためには相手に教えるのではなく、互いに学びあい、より優れた共通の理念に到達することをむねとすべきだ。だからイスラームは宗教に強制があってはならぬという。宗教という言葉は一般に実生活から離れた理念と受け止められているが、イスラームでは人間の生き方、道、思想などのすべてを含む 。つまり、なにごとにおいても強制はいけないことになる。お互いの考え方の違いを 尊重しながら協力し、共通の未来を達成するのだ。



 世界全体が共通の目的に達するために協力することをイスラームは重視する。蟻に学べ、蜜蜂に学べ、人類平等、集団礼拝、大巡礼、慈善、断食、隣人への思いやりなど 、教えのすべてのシステムが唯一アッラー崇拝の目的のもとで全体の和合を示す。礼拝においては全員が同じメッカの方角へ顔を向け、終わりには世界中の兄弟姉妹と挨拶(サラーム)するため顔を右と左へ向ける。メッカに顔を向けるのは、そこにアッラーがいるからではない。アッラーは宇宙を創造し、宇宙を存在せしめる唯一根源のちからであるから、宇宙全体にみなぎっている。ただ、人間の合体をはかるため、世界中のどこにいても、あるいは月や他の天体にいても、同じマッカの方向へ顔を向けるのだ。人間は宇宙の根源である唯一のアッラーを意識し、同じ唯一のアッラーをゴ ールとし、そのアッラーに定められた道を歩めば、一心同体である。イスラームの預言者は「ムスリム達は一個の人間のようで、身体の一部が痛めば、体の全体が痛みを 感じる」といっている。



 数億万のパーツが寄り合ってひとつの宇宙船を構成するように、イスラームはアッラ ーの道で飛翔し世界を光りで満たすため、人類の良き部分を合体させようとする。そのはるかなる目的地は唯一の神、アッラーである。宇宙船をつくる工場においてパー ツが選別されるように、いつの日か人間も選別されよう。これが最後の審判であり、 不良品は溶鉱炉に投げられる。人間の身体は、その頭脳も含めて、先祖伝来の遺伝子 の総合体である。ということは人間の一人ひとりはすでに個々の存在ではなく、微視的レベルにおいて先祖からの遺伝子の統合国家であり、現代に送り込まれた先祖からの代表選手である。むろん人間完成の道をゆくためだ。



 人間は人生で得た経験・体験を社会のために役立て、その凝縮された部分を文化として、あるいは遺伝情報として、次の世代へ伝える。だが文化や遺伝情報は人間の未来に対処する許容力を備えるためのものであり、人間そのものの生き方を決定するものではない。一人の人生は本人が切り開いていくもので、あくまで本人だけのものであ り、本人だけの責任である。だがその切り開いた人生の本質は凝縮されて次の世代に伝わるから、次の世代に対しても責任はある。この意味で、子は親の未来への投影で あるともいえよう。



 だから子を否定することは大きな目でみて自分の未来を放棄することであり、親を否 定することは自己の存在要素と構成因子を否定することになり、同様に一種の自殺で ある。人間はこのことを本能的に理解している。それが親子の愛情としてあらわれる 。親の子にたいする愛情は、子の親にたいする愛情より強い。親は過去であり、子は未来であるからだ。ある時期において子は親の愛情の押し付けをわずらわしく思いはじめる。子が親の投影ではありながら別個の人生を歩んでいることを早くから双方が 理解しないと断絶が起き、自殺、子役し、親殺しなどがおきる。この人間性の全体的な流れを把握せず、人生の意義について解答をもたず、人類全体としてのはるかなゴールを意識しなければ、社会の混乱や不安はおさまらず、世界平和も達成できない。



 子は親から遺伝子を受け継いで顔かたちや体躯、あるいは機能など似かよった面をも って生まれてくる。親はそこに自己を再発見し、父性愛と母性愛を刺激され、子を守 り育てる。子を護るためには命まですてる場合もある。もちろん母性愛の方がくらべ ものにならないほど強いが、父性の愛も応分の役割をもつ。無力な赤子にとっては最善の安全地帯が親と一緒にいる家庭であり、赤子が対人関係の一番最初に学ぶ本能的 な安堵感である。この安堵感は成人して自立するまでは強く、その後も心の底の無意識の底流として一生を通じて存在感をささえる。遺伝のかけ橋によって惹かれ合い、共感をうながされ、親子間の愛情が増幅し、それが家族全員にまで波及するのが家庭 である。そこでは全員が豊かな存在感をもつ。



 家庭内における母親の役割は父親のそれとは比較にならない。体内に重荷に抱き、陣痛の苦しみにあえぎ、日夜神経をすり減らし、乳をふくませ、おむつを変え、子のために一喜一憂し、子を育てるために必死になる。そのために自己のすべてを投入し、 子を盲愛する。この盲愛こそ母親の本能であり、その盲愛を否定してはならない。それこそ子に人間としての存在感を与える基礎的な栄養であるからだ。父親は母親の盲愛や溺愛を修正し、子にとって家庭から社会へのかけ橋となる。保育所などは補助的 な意味はあるが、家庭のかわりにはなれない。そこにはすべてを投入して盲愛を注ぐ母親はいないからだ。家庭とは、子が社会へ巣立っていくための、そして人類の流れ を絶やさぬための、いわば未来の基地だ。



 イスラームは家族と家庭を大切にすることを命じている。イスラームの預言者は。「 皆さんの中で最高のものは、自分の家族を一番大切にするものだ。そしてこの私こそ みんなの中で家族を一番大事にしているものだ」という。



 家庭を大切にするものが人間として最高のものだ。いいかえれば家庭を大切にしな いものは最低の人間だ。このことは、なにもアッラーの言葉を託された預言者のいうことでなくとも、良識ある人々なら常識としてわきまえていることだろう。



 とはいえ、現代社会において人間が自我を強調しすぎ個人を優先させるあまり、家庭は本来の機能を失い、個人と個人が生活をいとなむための共同生活の場になっている 。そこには個人と個人が角つきあう闘技場があり、力をもたぬ子供は相手にされぬ。 親は子の人格を無視し、発言させない。親の意見を一方的におしつけ、子の行動を監視し、微にいり細にいり干渉する。あるいは逆に、親に力がない場合など、まったく 放任する。そこには子のもつべき解放感や安堵感は、もはや存在せず、壁を破る力を たくわえるまで我慢しなければならない牢獄と化している。家庭は人類の未来への基 地ではなくなり、かわりに未来を破壊する放射線を出す、いまわしい場所になっている。







ホームページへ戻る