イスラーム入門シリーズ
No. 10

M・A・クルバンアリ著


六、一妻多夫とのちがい



 もし、場合によって一夫多妻制がゆるされるなら、場合によっては一妻多夫がゆるさ れてもよいのではないか。複数の妻による家事が女性の重荷を軽減するなら、複数の夫による扶養も男性の責任を軽くするはずだ。人間として平等なら、夫にゆるされることは妻にもゆるされていいのではないかとの疑問が生じる。



 この場合どのようなことが起きるか考えてみよう。妻が妊娠したとする。子は母のものにまちがいない。だが父親はだれなのか。精密な計算のもとに一定期間は一人の夫とすごし、次の期間は他の夫、というぐあいなら認定できるかもしれない。しかし順番がまわってくるまでの夫たちの性欲は否定するのか。それともその間の浮気は公認するのか。否定するのは不公平であり、公認すれば性の乱れがやはりはびこる。



 あるいは、血液型のちがう夫たちをえらべばよいかもしれない。だがその場合、子が生まれるまで父親は判定できず、夫は不安と焦燥の中で待たなければならない。男性はそれほど忍耐強くはない。自分の子かどうか早く知りたがる。知ることができなければ、去っていくだろう。もっとも、途中で母親の腹部に針を刺して大きくなった 胎児の血液をとることは可能かもしれないが、それは危険であり、残酷でさえある。 そして一人の夫の子を妊娠したときは、他の夫の子はその十ヵ月後にしか受胎できない。



 よほどの美女か桁ちがいの財産や収入のある女性でなけれぱこのようなケースは成立 しないだろうが、ま、それでも男性側の忍耐があって一妻多夫の家庭が運営されたと しよう。子が何人かいる。父親がやってくる。「今度はぼくのパパ?」、「おねえち ゃんのよ」、「ふうーん」というぐあいになり、子は違和感をかみしめて育つ。母は自分のものでも、父は姉と弟ではちがう。当然、自分の父の方が優れていると喧嘩に なる。



 結婚とは人類の流れを絶やさぬためのもので、家庭は、子が育つために社会的に認められた健全な基盤を与えるためのものである。一夫一婦制や一夫多妻制では、母は自分のものであり、父も自分の父である。両親は、はっきりしている。一妻多夫では、 そうはいかない。母親ははっきりしているが、子の父親がだれなのか、父親自身さえわからない。もちろん、そのような疑問は一夫一婦制や一夫多妻制でも生じ得る。それは妻への不信である。愛情と信頼があれば、よほどのことがないかぎり、そのよう な不信に陥ることはない。だが、一妻多夫では疑惑と不信をわざわざかきたてる方式 になっている。男と女を同等の人間とし、かれらのためだけを考えるなら、好みの生 き方を採ればよいのかもしれない。結婚さえ不要かも。人類の流れを考えず、子を否定し、人間性の断片である個と個の独立させる方式なら、このようなことも考えられる。だがその考えかたは、この問題にかぎらず、多くの矛盾と歪みを社会にもたらし ている。



 男性の精子と女性の卵子が結合して、子ができる。この神秘的な作用を調べると、卵子は膜の中にいて、ある精子は拒否し、ある精子は受けいれることがわかる。つまり 、億という精子の中から好みのひとつを選び出しているのだ。もし卵子が女性の凝縮されたエッセンスなら、そのレベルにおいて女性は一人の夫しかいらないのだ。



 男性に受精能力がなければ、はなしはべつだ。母性本能を絶たれ、一生子がもてず、 人類の流れに貢献できないまま死んでいくわけにはいかない。それが確実なら、離婚できる。もちろん、双方がまったく正常であっても子をもてない場合もあるだろう。 また不可能とされても子が生まれる場合もある。現代医学も絶対ではない。夫婦は希望をもちつづけるべきだ。まえにも述べたように、奇跡がおきるかもしれないし、その肯定的な姿勢は世のため人のために有益であり、そして自分のためにも大きな充実 をもたらす。



 人類の健全な未来を建設するため、その未来を担う次の世代に家庭という健全な基盤を与えるため、イスラームは女性が複数の夫をもつことはゆるさない。それは女性の特質に反するという。そして一夫多妻制は問題解決のための一策として提示されているにすぎず、その方策を採用するかどうかは当事者にまかされている。









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