イスラーム入門シリーズ
No. 10

M・A・クルバンアリ著


三、女性解放の第一歩


 西暦七世紀、暗黒の泥沼にもがき、ありとあらゆる堕落と異常がはびこり、世界中で 女性が人間以下とされていたとき、メッカの預言者は次の神託を告げていた。


 一個の魂からあなたがたをつくり


 要するに、一個の魂からつくられた男と女は同じ人類であり、人間として同等の存在であるというのだ。二十世紀・今日の話ではなく、千四百年まえのアラビアの話であ る。イスラームという人間の道における女性解放のまさに巨大な一歩だった。


 男女は人間として同等であり、平等に扱われなければならない。だが、平等とはいっ たいなんだろう。各人各様の要求の種類とその度合いに応じて満たさなければならないものだ。そのためには、本人の過去、現在、未来におけるすべての外的・内的要素 を調べあげ、そのうえで同等の満足感を与えなければならない。こんなことは不可能 だ。すべての要素を知り尽くす能力は、人間にはない。だから人間がつくった法律や制度は個々の人々にたいして平等ではありえず、人間には必ず不満がのこる。個々の人々という大きな範囲ではなく、男女間にかぎっても、同様にすべてを知り尽くすこ とはできないから、やはり平等はありえない。ところがイスラームは、自らのシステムが人間のつくったものではないと主張している。もし人間をつくったアッラーが定めた制度なら、当然、人間性のすべてを熟知しているはずだから、完全に平等であってもいい。そこでイスラームのシステムを調べてみると、一見不平等にしかみえない奇妙な点が浮かびあがってくる。たとえば、遺産相続での女子の取り分は男子の半分にすぎないこと、あるいは証人として女性二人が男性一人に相当すること、また一定の条件の下で一夫多妻は認められているが、逆の一妻多夫は認められない。
 遺産相続が男子の半分ということは、そこだけを考えれば、たしかに不公平だ。だが、イスラ ームでは扶養の義務は男性だけのもので、夫は自分の財産で妻と家族を養わなければならない、これにたいして妻の財産は妻だけのもので、夫や家族を養うところか、自分の生活のために使う義務さえない。これもまた不公平な話で、男性側からいえば、遺産相続での女子の取り分はゼロでもいい。


 証人としての男女の違いは、その生理学的な相違からくる。一般的に、子にたいする愛情は母性の方がはるかに深い。数億の精子のどれが子に参加するかについて男性はまったく無関心だ。確率の問題にすぎない。これは男性の本能であり、この本能は男性のすべての考え方や行動を支配する。感情面の豊かさやこまやかさにおいて女性にはおよびもつかない。子にたいする愛情が根本である母性本能はすべての女性に備わっていて、その感情の豊かさが人類の流れを絶やさないための根本的な本能である。 だが、当然、愛情の豊かさやこまやかさの劣る分だけ男性は客観的になれる。証人と しては、事実を事実として客観的に述べなければならない。この観点から女性の証人 は二人必要だという。それは機能の違いにすぎず、平等か否かの問題ではない。


 公平とか平等ということは、人間の欲求をすべて満足させることではない。そうなれ ば欲求と欲求が角つきあって社会は自滅してしまう。逆に、欲求の一部を抑制し、円滑な人間関係を促すためのものだ。その概念は人生の価値基準や目的、趣味や好みに よっても大きく異なる。なにが善でなにが悪か、何のために生きているのか、人間とは何か、生と死は何を意味するのか−こういう根本的な問いに答えなければ公平とか平等という概念は定まるはずもない。


 宗教をもたない国家や民族にはその質問への答えはないから、公平や平等を計るものさしがない。考え方の角度をちょっと変えるだけで、白は黒になり、サギはカラスになってしまう。そして考え方の角度は、同じ国民であっても、一人一人異なる。それをむりやり統一してしまうのが「イズム」だろう。ナショナリズム、キャピタリズム 、コミュニズム等々。


 それらの質問に答えを与えるのが宗教だ。他のイデオロギーでも答えがあるというかもしれないが、もし答えていれば、それは宗教だ。ナショナリズムもコミュニズムも 一種の宗教になりうる。宗教には、正誤はべつとして、前記の質問に対しての答えが あり、人生には目的がある。当然、その目的に照らして、なにが善でなにが悪か、平等か否かの基準がはっきりしているはずだ。


 イスラームの教えを考えてみよう。唯一無二のアッラーを信仰し、生まれてから死ぬまで学び続け、自己の能力を最大限に発揮して、平和と調和によって地球を管理し、 健全な人類の未来を建設するために協力する。そして永遠の生命をえるための導入部分である現世において、その資格をもつために徳を積むことだ。アッラーの別名は真理、慈悲、正義、寛容、などであり、アッラーを崇拝することは、必然的にそのよう な美徳を身につけることになる。


 男女は同等の人間として、結婚の契約をむすぶ。両性の合意が不可欠であり、娘の同 意なく親がかってに嫁がせることはできない。立ち会い人や証人の列席した結婚式が挙げられ、きちんとした結婚契約が交わされる。結婚契約書には双方の条件が記載され、それは証書となり法によって護られる。その条件としては、反社会的・反宗教的でなければなにを書いてもよい。男女双方は家族や親戚などと相談し、互いの条件を検討したうえで結婚する。違反者は相手によって告訴され、法によって裁かれる。愛に盲目となる若者同志には無味乾燥なしきたりにみえるかもしれないが、あとで後悔 するよりはいい。


 結婚条件として記載されなけれぱならないもののひとつは、マフルと呼ばれる夫から妻への贈答金である。これは売買婚のように妻の父母や家族に支払うものではなく、 夫から妻への義務であるから、両人の合意によって金額と支払い方法を定めてよいが 、これを支払わなければ離婚は成立しない。夫は妻を離婚できるが、種々の待機期間が定められていて、その間、妻を親切に扶養しなければならない。また、互いの家族や親戚などによる調停を受けた方が望ましい。夫からの離婚宣言は二度まではいつでも取り消せ、その間によりがもどれば離婚は成立しない。三度目で離婚が確定し、マフルの残金が支払われる。妻が身ごもっていれば、子を産んで育てるまで、あるいは 他の男と再婚するまで、扶養義務は夫についてまわる。(クルアーン2章227節〜241 節より)


 妻も離婚できるが、夫の義務を履行させるためには、ある種の条件が満たされなければならない。たとえば、結婚契約に対する夫の違反、夫の性的不能や精神病、夫が妻 と一年間にわたり同居しないとき、夫が家族を扶養しないとき、妻を不当に扱うとき 、あるいはその他のケースで裁判官が適当とみなすときなどである。


 夫は妻を愛し尊敬し家庭を運営するための資金を提供し、妻の働きに感謝する。妻も 夫を愛し尊敬し、夫の働きに感謝する。社会の単位は個人ではなく、家庭である。通常、夫が外で働くが、必要に応じて立場をかえる場合もあるが、家庭が社会の単位と して機能することにかわりはない。


 男女が人間を構成する割り符であることを忘れ、互いに一人前の個人と考える場合、 結婚は自分たちのためであり、子をもうけることは夫婦の勝手である。もっとも、意識や理屈のおよばぬ心の奥底において、人間の本能として子をもちたいという気持ち はあるだろう。だが、それを真剣に考えるわけではなく、夫婦生活はあくまで自分たちのためだ。男女が愛情によってむすばれ、性欲を満たし生活のための便宜をえるた めには、なにも結婚で互いを束縛するまでもなく、同棲するだけでいいと考える。それでもなぜ結婚をするかといえば、相手を独占するための儀式としてであり、はた目を気にし、同棲に対して自分でも理解できないやましさを心のどこかで感じるからだ 。また、そのようなことをまったく気にせず、結婚の理念そのものを無視するものも 多い。


 男と女は人間の半分にすぎず、その半分同志がむすばれて、はじめて社会の一単位と して人類の未来の建設に加わる。結婚し、子をもち、家庭として機能し、人類存続の 大義に貢献する。結婚は子を産んで育て、子のためにはっきりとした社会的基盤を与 えるためのものであり、けっして自分たちだけのためではない。いわば、家庭は未来 への基地なのだ。


 このことを理解せず、独立した個であると思うものは、無意識のうちに人類存続の意義を否定している。当然、結婚を大切にしない。結婚どころか、異性を求める本能さえ無視するものも多い。人類の存続に価値をおかないものは、人類の未来を否定して いることになる。そして現在だけに棲み、結婚して子を産み育てることのわずらわし さだけを考える。だが、性欲だけはのこる。子をつくらないように準備し、快楽だけ を求めて、乱交を行う。あるいは、もっと徹底して、同性愛にふける。これなら確実 に子はできない。いまの世の中にはこのようなことが氾濫している。それは人類が未 来を見失っているからであり、女性も母たる立場を軽視しているからだ。


 未来を見失った人類は、当然、現在を確保しようとする。未来がないから、「今」を拡大しようとする。時間の最小限の単位に最大限の行動を詰め込み、空間の最小限の 単位に最大限の情報を盛り込もうと必死になる。時間の密度は濃くなり、秒はふくら む。しかし、それでも、今という点は時間に押し流され消え去ってゆく。人はいらだ ちをもち、現在にしがみつこうとする。そして秒針の鞭に追い散らされ、タンポポ の穂のようにふらふらと日々を漂う。未来を見失った人々は自らの実存を確定できず 、実態のない影か幽霊のような存在になる。その存在の希薄さに喪失感を覚え、なん とか自分を色こくしようとする。他人に認められれば、ひと息つける。そうでなけれ ば、実存感をえるため、刺激を求める。刺激されれば反応がおき、生きていることが 確認でき、現在を意識するからだ。


 現在を確保するため、今という「点」をつかまえるため、人々は走りに走る。暴走族 はスピードに酔う。だが時間は光以上の速さで流れさる。光陰矢のごとしというが、 今はあっというまに過去になってしまう。この速さに追いつける速度はない。時間に追いつくことに疲れたものは、逆に時間を自分のところにとどめようとする。あるいは、無視する。意識さえしなけれぱ秒針の鞭に追いまくられることもなく、いらだつこともない。そこで酒の力で意識を曇らせ、時間とその中で解決しなければならない問題を見ないようにする。だがこれは一時的なもので、醒めると過ぎ去った時間の重さがなおさら意識される。それをまた追いかけなけれぱならない。あがき、もがき 、そのうちになんでもよくなる。ショッキングなことにも、あまり驚かなくなる。刺激を求める心は高まる。読者の心理を読んで、これでもかとセンセーショナルな報道 があいつぐ。犯罪が起き、センセーショナリズムに煽られ、より大きな犯罪にエスカ レートする。現在を護るために戦争が起き、種を絶滅させる兵器がたくわえられる。


 このすべては、未来を求めず、現在に固執するからだ。未来を求めようにも、人間の姿がみえていないから、個人が社会の独立した単位であると錯覚しているから、どう しようもない。この現代の迷路から抜け出るためには人間本来のありかたを見定め、 男は男らしく女は女らしく、それぞれの本分をまっとうすることからはじめなければ ならない。そして子を産み育て、人類の健全な未来を建設しなければならない、育児 に関しての父の役割は、母のそれとは比較にならない。父は家庭と社会とのかけ橋で あり、外界で仕事をし、家族を擁護・養育する家庭という単位での代表者である。この家長としての役割をまっとうして、はじめて、父は母と同等の位置にならぶ。


 しかし現実問題として、子ができない夫婦もある。その場合は人類存続の大義に貢献できないではないか。それでも、その意図があればよい。赤子が欲しいと熱烈に願い 、他の子供たちに愛のまなざしを向けるべきだ。その熱烈な願いがアッラーに通じ、 身体のホルモンのバランスが変わり、子をもてる場合もある。また、子ができなくても、その熱情が人類の未来を求める心に昇華し、次の世代をすべてわが子と考え、世界のために大いに活躍する男女も多い。


 このすべてをイスラームは一千四百年まえに打ち出している。そこには男女の肉体的 ・生理学的な相違とそこから生じる態度、好み、生き方などすべての要素を考慮して設定したとしか思えぬ充実したシステムがある。その男女間の一断面だけをとらえてみても、イスラームの教えは七世紀の水準をはるかに超えたものであったことは確かだ。


 イスラームの教えを現代の社会制度と比べてみよう。個人をべースとし、人間の価値 を金銭的に評価する尺度からは、その教えも色あせてみえるかもしれない。だが、も っと別の角度、別の価値観をあてはめてみたらどうだろう。かりに人生は金だけでは なく、人間の自由と独立は金銭に縛られるものではない。そして社会の単位は家庭で あるとしてみよう。唯一の真理のもとに前世界が協力して地球を管理し、宇宙のすべてを活用し、人類の健全な未来を建設すべきだ、としよう。このような基準をあてはめれば、現代の諸制度の方が、太陽のまえの星々のように光を失うはずだ。


 問題は、産業革命にはじまる物質文明の奔流が過去のすべてを押し流してしまったこ とにある。科学の進歩は未来に希望の光をともした。しかしながら、その物質面の輝やかしさに目がくらみ、過去の精神的遺産を忘却してしまう人類もたいしていばれる 存在ではない。このことは今日のイスラーム圏にもあてはまる。かれらも真のイスラ ームを忘れ、西欧のあとを追おうとしているのだ。そして西欧が失敗した時点までやっとたどりついているから、なお悪い。ところどころには教えの活用がみられ、社会にそれなりの益をもたらしてはいるが、全般的には混乱にあり、真のイスラームにも とずく健全な社会を築きあげてはいない。


 真のイスラーム社会では、女性は家庭の一部として人間本来の生き方を楽しめる。外に出て稼いでくるのは男性の役割だが、これは仕事の違いにすぎない。たとえば作家は手でものを書くが、オリンピックの走者は足を使うというようなものだ。どちらが上ということはない。ここでイスラーム圏の一部にある風俗習慣をイスラームのものと混同してはならない。また一部の教徒が教えのある部分を誤解していることもある 。たとえば女性の割礼が定められているというような誤りである。


 人間本来の生き方を忘れた文明は、えせ文明である。物質文明の科学もまた、えせ科学だろう。真の文明や科学は人間とは何かという問いに答えるものでなければならな い。この点で真の科学は真の宗教と合致する。イスラームでは知識イコール科学(アラビア語のイルム)、神学者イコール科学者(アラビア語のアーリム)である。そし てイスラームそのものが真理(アッラーの別名)に近づくための教えである。教徒は生まれてから死ぬまで、揺り篭から墓場まで、知識を求めることを命じられているが 、そこには男女の別はない。


 ここで考えてみて、人間性を無視してさまざまな矛盾と危険をはらむ科学暴走社会と 、真理を目的として人間性を大切にする真のイスラーム社会とは、いずれが住みよい 社会だろうか。片方は、現在がすべてだと考え、自我と権利だけを主張とする世界。 未来を求める人間の本性を「現在」という牢獄に塗りこめてしまう。そこには未来は ない。アッラーを否定し真理を拒否するものに行く先はない。人間存在の根本から逸脱し、どん欲になり、基本的なルールからも自由になろうとアッラーを否定するものは、かえってすべての自由を失い物質の奴隷に堕ちる。真理を求めることをやめるとき、未来と希望は去り、現在という牢獄の絶望の壁が周囲をさえぎる。生きているの か死んでいるのかわからないほどの心の暗さだ。生きていることを確認するために刺激を求め、だんだん感じなくなり、より強い刺激が欲しくなる、その途中に酒とギャ ンブル、不信と犯罪、麻薬と覚せい剤があり、終点には自殺が待っている。希望の光 が消えたガラスの城、穴のあいた心、北風の吹き込む心に浴びる津波のような酒また酒。その道は一本道で、なにかのきっかけで真理を求める気持ちが起きないかぎり、 まっしぐらに終点まで駆けおりてしまう。


 結婚や家庭の必要を認めず社会の単位は個人であるというものは、人間は人間であり 、男とか女、父とか母などにこだわってはならないという。男と女といっただけで 差別だとさわぎたてるものもいる。だが、性の違いを無視して男が女のように女が男 のように生きるのは、その可能性はともかく、果たして望ましいものだろうか。性転換のすえ女性の仲間入りをする男は欠陥品にすぎない。同様に男になりたい女も本質的には持っていない機能を要求され、自己のエッセンスを切りすてることになる。人間を白人、黒人、黄色人種などにわけてはならない。アメリカ人、ドイツ人、日本人 などにわけるのもいけない。これらは差別につながる。また大人と子供、老人と若者 に分けることにも差別がある。


 しかし男であり女であることは、国籍、皮膚の色、年齢、立場や地位の違いではなく 、厳とした構造上の違いであり、人間性をつくりあげるふたつの異なる因子である。 あたかも人間という存在の割り符のように、そのふたつが合わさって一人前になる。 そこには当然、あい補う異なった機能がある。この男女の違いまで取りはらおうとする考えは、実存の影をうすくし、先ほどの一本道をつっ走る考え方だ。


 もう一本の道は、アッラーという唯一の真理を求め、アッラー以外の一切の権威を認 めず、あらゆる迷信や脅えから解放され、男は男らしく女は女らしく、本当の人間と して自由に生きるための道である。しかしこれが今日のイスラーム社会ではない。そ こには迷信に脅え、人間の権威を鵜呑みにし、知識も求めず、人間本来の生き方から外れたものも多いからだ。真のイスラーム社会なら、そうはならない。教えを誤用しているものをみて、教えそのものを捨てることはない。


 イスラームは男女の別を重視する。それぞれの特色を生かすため一部異なった種類の 制限を課している。これが差別だろうか。それとも一部異なった生き方をするからこそ、大局的にみて人間として平等になるのではなかろうか。人間存在の割り符である 半分と半分が結合して一になるからこそ、結婚が大事だ。結婚しないものは、あくま で半分のままである。だからイスラームは社会の単位を家庭とする。そして人間とは 男であり女であり、父であり母であり子であり、これらは人間性の中に融合した切りはなすことのできない崇高な部分であるとしている。









ホームページへ戻る