第五章 尊崇と礼拝
4、ザカート(喜捨)

 第三の義務はザカートである。ムスリムは誰でも財政状態が或る特定の最少額以上の余裕があれば毎年その現金の残高の2.5パーセントを貧困者、新入信音、旅行者に施すのである。これは最低線でありこれ以上に喜捨することはアッラーよりの果報が更に増大される。
 ザカートとして支払われる金銭はアッラーが必要とするものでなく又取るものでもない。神は何の不足も要求もなく唯その慈悲の御心より我々の善行に対し各種の報いを約され居られる。ザカートを出すときはアッラーの御名に於て行われ決して受取人に何事をも何物をも期待又は要求してはならない。又自己の宣伝を目的としてもいけない。
 ザカートはイバーダード、礼拝、斎戒と同じくイスラームの基本的な義務の行為である。ザカートの重要性は我々の犠牲観念を助長させ無慈悲と利己心より遠ざける事にある。自分で苦労して作り上げた富の一部を神の道に進んで快く喜捨しそれに依る直接の反響や恩恵を考えない純粋のものでなければならない。これは私欲家には出来ない、真のムスリムは一旦神の思し召し(死)があれば喜んで全部の所有物を己れの手より離して去ることに徹している。ザカートによって充分に訓練されているから何の未練もない。ムスリムの社会はザカートの制度のため莫大な恩恵を受けている。それは裕福なムスリムが己れより貧しき困れるものに対する一種の援助であり社会全体の福祉と平安に貢献する。富者の富は総てその快楽と賛沢のためにのみ消費されるべきではない。彼の富に対しては多くの正統な権利主張者のいるのを忘れてはならぬ即ち寡婦、孤児、病者、不具者、働くに職なき失業者、学資金のないために進学出来ない学生等々枚挙にいとまない。
 当事者が自分の所属する社会の中にいるこれらの人達の救済を実行しないならその社会の健全化は望み得られず神の繁栄と平安の道に沿うものでない。多数の人々が飢えに泣き失業の悲しみに苦悩する自分のふところへ溜めることのみ考えているのは残酷なことである。そんな利己的で貪欲で強欲なものはイスラームの不具戴天の敵である。不信の輩や博愛心の欠けたものは大金を貯めることに汲々として利子を取って他に貸すことさえする。イスラームの教えはこれの正反対である。ここでは自己の富を他人に分けてやり独り立ちを助け早く社会の有用な一員となれるよう助けてやる。
                             

 

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