第4章信仰箇条
3、聖典を信ずること

  ムハンマドが我々に信ずるように命じた第三番目の信仰箇条は、聖典(神の書)−−代々の予言者達を通じて人類に下し給うた経典−−を信ずることである。神はムハンマドより以前の予言者達に神の書(経典)を下し給うたが、この経典は、神がムハンマド(御栄ありますように)にクルアーンを下し給うたのと同じ方法で、下ったのである。我々はこの経典のいくつかの名前は知っている−−アブラハムの書、モーゼのトウラ、ダビデの詩編、イエスキリストの福音書など、しかし我々は過去に於いて神から贈られたあらゆる経典は真実であることを、暗黙のうちに信じている。
 経典として伝えられている諸書のうちで、「アブラハムの書」は散逸し現存する世界の文学遺産の中に形をとどめていない。「ダピテの詩篇」「トウラ」、「インジール」はユダヤ教徒やキリスト教徒と共に存在しているが、クルアーンは、人々がそれらの諸経典を勝手に作り変え、神の言葉が人間の作った言葉と混同されていると、我々に教えている。この経典の作り変えと改作の仕事があまりに大きく、あまりに明白であるから、ユダヤ教徒やキリスト教徒自身ですら『自分達は経典の「原典」を持たない。自分達の持っているのは、何世紀にも亘り多くの変化がつけ加えられ、また今だにつけ加えられている経典の翻訳書にすぎない』ということを認めている。それらの諸書を研究すると、我々は明らかに神から下される筈のない、多くの章句と記述を見出す。神の言葉と人間の言葉は、これらの諸書の中ては、ごっちゃに混同し、どの部分が神が啓示され給うた部分で、どの部分が人間がつけ加えた部分か、我々は識別することができないのである。クルアーンの以前に、神予言者達を通じて幾多の経典を示し給いそれらの経典はすべて唯一の神−−クルアーンを下し給うた神と同じ神から啓示されたのであり、しかも「神の書」としてのクルアーンの啓示は目新しく変った出来事てはなく、人々がとっくの昔に忘却してしまった神の教えを確認し、再述し完成することにすぎないという意味でクルアーン以前に啓示された諸書を信ずるように命ぜられているのである。
 クルアーンは神によって啓示された最後の経典であって、クルアーンとそれ以前の経典の間には非常な相違がある。その相違点を要約して言えぱ次の如くである。

 1、 以前の経典は大部分その原典を全く失ない、その翻訳のみが今日、存在している。これに対して、クルアーンは予言者に啓示された一字一句そのままの姿で現存している。一つの言葉も−否、文字の一点一画さえも−変っていない。クルアーンは原典のまま生きており、神の言葉ほ永遠に保存されているのである。
 2、 以前の経典に於いては、人間が神の言葉と人間の言葉を混合したが、クルアーンに於ては、わずかの変化もつけ加えられていない。この事実はイスラームに反対する者にさえ認られている。
 3、 さまぎまの民族の間で経典とされているあらゆる「神聖なる書」のどの一つについても、精密な歴史的証明に基づいて、その書がほんとうに啓示された予言者のものであると言うことはできない。それらの諸書のあるものに関しては、それらがいかなる時代に、いかなる予言者に啓示されたかということさえ、わかっていないものがある。しかしクルアーンに関しては、それがムハンマドに啓示された証拠が非常に数多く、しかも納得せざるを得ぬ強い確信を与えるような証拠であるから、イスラームを攻撃する論者さえもクルアーンを疑うことはできない。この点に関する証拠は多くの文句や教えが、いつどこで啓示されたかはっきり知ることができるほどに豊富且詳細である。
 4、 以前の経典は、ずっと昔に既に死語となった言葉で啓示されたものが多い。現代では、いかなる国民も集団もその言葉を話さず、その言葉を理解することができると主張する人は極めて稀れにしかいない。それ故、たとえそれらの経典が、混ぜ物の入らない原典の形で、今日存在していても、その教えを正しく理解し解釈し、要求される形で、その教えを実行に移すことは、現代で事実上、不可能である。これに対して、クルアーンの言葉は現在生きている言葉である。無数の人がそれを話し且書きその言葉を知り理解できる人は更に厖大な数となる。その言葉は世界のほとんどあらゆる大学で教えられ、学ばれている。あらゆる人がそれを学ぶことができ、又それを学ぷ時間のない人は、その言葉を知り、クルアーンの意味を自分に説明してくれる人々を、あらゆるところに見出すことが出来る。
 5、 世界のさまざまの民族の間に存在する聖典はいずれも、ある特定の民族に対して呼びかけてきた。それらのいずれの聖典も、特定の歴史の時代にのみ意義があり、その時代の要求だけを満たしたように思える教義を含んでいる。それらは今日己に必要もないし、また今日でほ円滑適切に実行に移すこともできない。又これらの諸書はある一定の民族だけに特に意味があるものであって、そのどれ一つとして全世界に対して通用するものはない。その上それらの諸書は、それらが下された民族でさえも、永遠に従うことができないようなものもある。それらはある一定の時代にのみ効果を発揮するだけである。これに反して、クルアーンは全人類に対して呼びかけられている。クルアーンの中である特定の民族だけ呼びかけられていると思われる教えはひとつもない。クルアーンの中のあらゆる掟と教えは、あらゆる所、あらゆる時代に、全く同じように適合する性格のものである。この事実は、クルアーンが全世界に呼びかけられたものであり、人間生活の永遠の規範であることを証明している。
 6、 以前の経典も薄と徳を包含し、道徳と真理の原理を教え、神の嘉みし給うところにかなった生き方を示していたが、それらのうちで、善き人間生活に必要なあらゆることを−−−過剰も、不足もなく −−− 包含するほど総括的なものは一つもなかった。それらのうちであるものは、一つの面で勝れていたが、あるものは他の面で勝れていた。以前の経典の中の善なるものをすべて包摂し、アッラーの道を完成し、アッラーの道をあますところなく示し、この世の人間に必要なあらゆることを総括した人生の規範を提示しているのはクルアーンであり、クルアーンの他にない。
 7、 人間の勝手な手入と書き変えの為に、真理に反し、理性に背き、正義に絶対に合わないような多くの事柄がこれらの諸書の中に差入れられた。その中には残酷で、不正で、人間の信仰と行動を不純にさせるものもある。更には、不幸にも、淫らで、下品で、不道徳的なものさえも差入れられている。クルアーンはこれらの一切の愚劣なことを超越している。クルアーンは理性に反するもの、誤感と認められるものは一切含んでいない。その教えは不正なものは一つもない。その中には疑惑を起させるようなところは一つもない。淫猥と不道徳の跡はその中には決して見出すことはできない。終始一貫この「万人の書」は叡智と真理に満ち満ちている。クルアーンは人間の文明の為に最善の哲学と最高の規範を持っている。クルアーンは正しい道を指示し、成功と救済に人間を導く。
 全世界のあらゆる人々がクルアーンを信ずるようになり、クルアーン以外の諸書を断念し、クルアーンのみに従うようになったのは、以上のようなクルアーンの特徴の為である。何故ならば、クルアーンは神の嘉みし給うことに一致した生き方に不可欠な一切なことを含み、それ以外に他の経典を必要とされることは絶対にないからである。
 クルアーンとその他の経典の相違を研究をすると、クルアーンを信仰するのと以前の経典を信仰するのとは性質が同一ではないことを、我々は容易に理解できる。
 以前の経典への信仰は、それらの諸書が全て神から下されたものであり、真理であり、その為にクルアーンが下された同じ目的を成就する為に下されたものであるということの確認に制限されるベきである。これに反して、クルアーンの信仰は、それは純粋にかつ絶対的に神御自身の御言葉であり、それは完全に真理であり、そのあらゆる言葉が保存されており、その中で述べられているあらゆることが正しく、そのあらゆる掟を実行することが人間の責任をもってなすぺき義務であり、それに反逆するものは全て反撃せねばならない等々の性格を持たねばならない。

 

 

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