第4章信仰箇条
1、タウヒードの人間生活に及ぼす影響

 さて、”ラー、イラーハ、イッラッラーハ””アッラーのほかに神なし”を信ずることが人間生活にいかなる影響をもたらすかを調ぺ、どうしてそれを信ずる人は終局に於て現世においても必ず人生の成功者となり、信じない人は人生の失敗者となるのか見ることにしょう。
 (イ) このカリマを信ずる人は決して狭隘ない縮した見識に陥る心配はない。彼は天と地の創造者、過去と現世と未来の主、全宇宙の支配者であられる神を信ずる。この信仰を待っているから、彼は世界の何物をも自分には無緑なものとは思わない。彼は宇宙のありとあらゆるものを、彼自身が属する同じ主なる神に属していると考える。彼は自分勝手な考え方と行動を固執しない。彼の同情、愛情、奉仕はある特定な範囲や集団に限られていない。彼の視野は大きく、彼の短的眼界は広く、彼の見識は、神の王国のように、自由闊達で果しない。無神論者や多神教徒や、人間のように限られた不完全なカを持つと想像されている神を信ずる者などは、とうしてこのような広い見識、寛大な精神を持つことができようか。
 (ロ) この信心は人間に最高の自尊心と自重心を植えつける。信ずる人は、アッラーのみがあらゆるカの所有者であり、アッラーのほかに人間に恵みを与えたりまた危害を与えたり、人間の要望を満たしたり、生命を与えたり、また生命を奪ったり、いかなる権威や影響を与えたりするものはありえないことを知っている。この確信は彼をして、神のカのほかはあらゆるカに対して、平然とし恐れさせないようにする。彼は神のいかなる被造物をも礼拝することは決してしないし、また神のほかは誰にも助けを求めるようなことはしない。彼はほかの何ものにも畏服圧倒されることはない。このような毅然とした心がまえと態度は神以外のものへの信仰からは決して生れない。何故ならば、ほかの存在を神と一緒にする者や、神を認めない者は代りにほかの被造物を崇拝せねばならず、それらが自分に恵みまたは危害を与えるかもしれないと考え、それらを恐れ、それらのものにあらゆる希望を託さなけれぱならないからてある。
 (ハ) 自尊心とともに、この確信はまた人間に謀虚な慎しみ深い心を植えつける。この確信は人間を素朴且卒直にする。これを信ずる人は決して横柄、高慢にはならない。彼が持っているすぺてのものは神から与えられ、神が与えることができるとともに神が彼のすぺてのものを奪うこともできると彼は知っているから、権力や富やぞの他の世俗的価値を騒々しく誇示することなどは、およそ彼には愚につかぬことてある。これと反対に、信じない者はなにか世俗的に価値あるものを得ると、彼の得た価値あるものは自分自身の価値によるものだと考えるから、彼は高慢になりうぬばれる。同様に、高慢と自惚はシルク(神の神性をほかのものと混名すること)の必然的結果であり、随伴物である。何故ならば、ムシュリクは神々と他の人々の間には存在しない特殊な関係を彼が神々と持っていると信じているからである。
 (ニ) この信心は人間を高潔にまた公明正大にする。信ずる人は、魂の純潔と行動の正直さ以外に彼を成功と救いに導く手段は他にないという確信を抱いている。彼は神を−−何ものにもまして必要とされ、何ものとも縁がなく、絶対的に正しく、神性のカに何ものも影響も容喙もはさむことができない神を心から信仰している。この信心は、彼が正しく生き、正しく行動しなけれぱ、彼は成功することはできないという意識を彼に与える。またいかなる影響力も秘密活動も彼を破滅から救うことはできないという意識をも与える。これに反して、カーフィルやムシュリクは常に虚偽の希望を持って生きている。彼等のある者は神の子が彼等の罪を償ったと信じている。ある者は自分達は神に愛される者であるから、罰せられないだろうと考えている。ある者は彼等の聖人が信仰については神にうまく取りなしてくれるだろうと信じている。ある者は神々にささげ物をし、そのように神々を買取すれば、あらゆる不面目なことや不道徳なことをしてもよいという免許状を神々から貰うことができ、好き勝手に振舞ってもよいと信じている。このような誤った確信は彼等を常に罪と悪行のわなに陥れ入れ、彼等の神々にすがっているうちに、彼等は魂の純化を怠り、純潔な善良な生き方をしなくなるのである。無神論者はどうかというと、彼等を支配するカを持つ神が存在するとは信じない。それ故、彼等は、この世ではどんなことをしようが全く自由であると考える。彼等の想像が彼等の神になり、彼等は欲望と願望の奴隷になって生きる。
 (ホ) 信ずる人はいかなるみじめな環境にわかれても、失望落胆しない。彼は地上と天上のすぺての宝の持主であり給う、限りなき慈悲と恵みを与え給う、はかりしれないカを持ち給う神を固く信ずる。この信仰が彼の心の確かな支えとなり、心は幸福に溢れ希望に胸をふくらませる。この世において彼は四方八方から反撃に会い、この世の何ものも彼の目的に役立たず、あらゆる手段が次から次と彼を見放すかもしれない。しかし彼の神への信頼と帰依は決して彼から去らないで、彼はそのカに頼って雄々しく斗いを続ける。このような強い確信は唯一の神への信仰からだけ生れ、それ以外の信仰からは決して生れない。ムシュリクやカーフィルや無神論者は狭少な心しか持たない。彼等は限られたカにしか頼らない。それ故、困難な事態に陥ると、彼等は絶望感におそわれ、自殺さえすることも少くない。
 (ヘ) この信心は人間に強い決意と辛抱強い忍耐と神への信頼感を植えつける。神の喜ぴを得るために、全力をつくして神の命令を実践しようと決意する時は自分が宇宙の主の援助と支持を受けているのだという確信を持っている。これが彼を山のような強く不動な人間にならせ、いかなる困難、障害、敵意を持った反対に会っても遅疑、逡巡がなく決意は不変である。シリクやクフルや無神論者はこのようなわけには行かない。
 (ト)この信心の表明は人間に勇気を鼓吹する。人間を憶病にさせるものが二つある。即ち、第一は、死を恐れ、安全を願うことである。第二は、神のほかに生命を奪うことができる何者が存在し、人間は何か工夫工作すれば、死を避けることができると考えることである。”ラー、イラーハ、イッラッラーハ(アッラーのほかに神なし)”の信心は、これら二つの考えを、心から追放する。これを信ずる人は、自分の生命、財産、その他一切のものは本当に神に属するものであることを知り、彼のすべてを神の嘉みし給うところに喜んで献ずるから、この第一の考えは心から消え失せる。彼はいかなる武器、いかなる人間や動物も彼の生命を奪うカを持たず神のみがそのカを持ち給うことを知っているから、彼は第二の考えも追払う。現世で寿命の尽きる時は生物に定まっている。この世のあらゆる力を結合しても、その定まった時が来る前に何人の生命も無くなることはない。神を信ずる人よりも勇気がある人がいないのはこの理由のためである。何ものも彼を恐れさすことはできない。苦難の峠、反対の嵐、最強の軍隊でヘえ、彼を威服させることはできない。彼が神のために出陣するとき彼よりも何十倍も強いカさえ畏服させる。それにひきかえ、ムシュリクやカーフィルや無神論者は、これほど偉大な決意と威力を持つことができるだろうか。彼等は生命をこの世で最も愛すべきものと考え、死は敵によってもたらされるもの、敵から逃れれば死を免れることができると信じている!!
 (チ) ”ラー・イラーハ・イッラッラーハ(アラーのほかに神なし)”の信心は平和と満足の態度を創り出し、嫉妬や羨望や貪欲にかられて動揺する心を追払い、成功を得るために卑怯な不正な手段を取ろうとする考え方を近寄らせない。これを信ずる人は富は神の御手にあり、神はそれを御心のままに施し給うということ、名誉や椎力や名声や権威のあるあらゆるものは神の御意志に従い、神はそれらを御心のままに与え給うこと、そして人間の義務はただ正しく努力し奮斗することであるということを知っている。。(彼は)成功や失敗は神の慈悲いかんであり、もし神が与えようと思し沼しになれば、神がそうなされ給うことをこの世のいかなる力も妨げることはできないし神が与えようと思し召しにならなければ、それを妨げることができないことを彼は知っている。これに反して、ムシュリクやカーフィルや無神論者は、成功と失敗は自分達の努力一つであり、また世俗的権力の援助と反対いかんで決ると考えている。それ故、彼等は常に貪欲と羨望の奴隷となる。何故ならぱ、成果を得るためには、買収、ヘつらい、陰謀、その他あらゆる卑怯で不正な手段に訴えることをも辞さない、他人の成功への嫉妬と羨望は彼等を食荒し、成功したライバルを没落させるためにあらゆることを試み、最悪の手段にすら訴えかねない。
 (リ) ”ラー、イラーハ、イッラッラーハ(アッラーのほかに神なし)”の最も重要な効果は、人間を神の法に従わせ遵守させることである。それを信ずる人は、神は隠れていることもあらわれていることもあらゆることを知り給い、頚動脈よりも自分に近いということを確信している。もし深夜に誰も見ていない所で罪を犯しても、神はそれを知り給う。神は良いものであれ悪いものであれ我々の考えや意図も知り給うう。我々はあらゆる人々から隠すことができるが、しかし神からは何ごとも隠すことはてきない。我々はあらゆる人々を避けることはできるが、しかし神の統御力から逃れることはできない。この点を人間は固く信ずれぱ信ずるほど、人間は神の命令にますます従順になるであろう。信仰のある人間は神の禁じ給うたことを避け、真暗闇に一人でいる時でさえも、神の命令を実行する。何故ならば神の”警察”が決して彼を一人にしておかないということを知っているし、絶対に回避することがでぎない裸の審判を恐れるからである。ムスリムたるべき最初の最も重要な条件は「ラーイラーハ、イッラッラーハ」(アッラーのほかに神なし)を信ずることだというのは以上の理由からてある。「ムスリム」は既にあなたがたは御承知のように、「神に従順なる人」という意味であるが、イラーなしアッラーのほかに礼拝するに値するものなしということを我々は明らかに信じなければ神に従うことは不可能である。ムハンマド(彼の上に平安あれ)の教えの中で、唯一の神を信ずることが最も重要である。それがイスラームの根源であり、イスラームの力の源泉である。イスラームのあらゆる信仰、命令、規範は、この原理に強く基いている。あらゆるものはこの源泉から力を取る。それなくしてはイスラームには何も段らない。

 

 

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