第4章信仰箇条
二、カリマの意味

 アラピア語でイラーハilahという言葉は−−拝される人間、たとえば、偉大であり権威があるために崇拝したり威服されて謙虚に頭を垂れる値があると思われる人間のことである。人間には理解ができないような偉大なカを持ついかなるものいかなる存在もまたイラーハと呼ばれる。またイラーハの概念は無限のカ、驚嘆すぺきカを持つという意味も含んでいる。イラーハはまた、他のものが”イラーハ”に依存しているが、自らは何者にも依存しないという意味も持っている。さらにイラーハという言葉は秘密とか神秘という意味にも使う。つまりイラーハは見えもしなければ五官て知覚することもできない存在である。ペルシヤ語の”ホダー”、ヒンディー語の”デヴァ”、英語の”ゴッド”という語が、多少はイラーハと少々似た意味を持っている。その他の外国語にも回じような意味を持つ語がある。

註−−たとえばギリシヤ語のOEOS、ラテン語のDeus、古代ゴード語のGuth、デンマーグ語のGut、ドイツ語のGott、など。
Encyclopedia Britanica Vol 10, P460を参照されたい。−−編者

 一方、アッラーという言葉は神の根本的な名前である。”ラ・イラーハ・イッラッラーハ”は文字通りには”アッラー”という名で知られている最大唯一の存在の他にイラーハはない”という意味である。全宇宙にアラーの他に礼拝に値するものは絶対にない。アラーのみを畏服し讃美して、頭を下げるべきである。アラーはあらゆるカを持ち給う唯一のお方である、万物はアラーの恵みを必要とする、万物はアラーの助けを懇願しなくてはならないということを意味する。アラーは我々の感覚では認識でぎず、我々の知性ではアラーがどんなお方であるか知ることはできない。勿論見ることも聞くことも触れることも出来ない。
 我々はこれらの言葉の意味を知ったから、ここでその言葉の真の意義を探究しよう。
 知られている最も古い人間の歴史から、また我々が手に入れることができた最も古い古代の遺蹟から、人間はあらゆる時代に神または神々を認め、礼拝していたことがわかる。現代でも世界のあらゆる民族は−−最も原始的な民族から最も進歩せる民族にいたるまで−−神を信し礼拝している。この事実は、神を持ち、神を礼拝しようという考えが人間の本性に入りこんでいることを明らかにしている。人間にそういう気持を抱かせる何物かが人間の魂の中にあるのである。
 しかし、それは何であり、何故人間はそうせざるをえないような気になるのかということが問題である。この問題に対する答えは我々が広大無辺の宇宙にわける人間の位置を考えてみるならぱ、見出されるだろう。この観点から人間の本性を考察すれば、人間は全能でないことは明らかになる。人間は自給自足や単独で存在することもでさないし、またその能力も無限ではない。まことに人間は弱く、もろく、貧しく、乏しいものである。人間は多種多様な力に依存し、それらの助けがなければ、生きて行くことができない。人間の生存を支えるのに必要なものは数えきれないほどある。だが、それらのすベてが人間の能力の全く手の届かないところにある。時にけそれらを簡単に自然に人間は持つが、時にはそれらを失ってしまう。人間が得ようと努める垂要で価値あるものが沢山ある。時にはそれらを得るのに成功し、時には失敗する−−何故なら、それらを得ることは全く人間の能力の範囲外のことだからである。人間に有害なものも沢山ある。不慮の事故は彼のライフワークを一瞬の間に破壊する。悪運は彼の希望を突如として失わせる。疾病、苦労、災害、不幸などはたえず人間をおびやかし、幸福への道を妨げる。人間はそれらを無くそうと努めるが、成功もするし失敗もする。偉大さと素晴しさで人間を威怖させる多くのものがある。例えば、山岳、河川、巨大な動物、野獣など。人間は地震や嵐やその他の自然の災害を経験する。頭上にある黒雲がたちまち厚くなり暗くなり、雷鳴がとどろき、稲妻がひらめき、どしゃぶりになるのを見る。太陽や月や星が永劫不変の動きをしているのを見る人間はそれらの天体が何と偉大でカがあり素晴しいものであるか、それに反して人間自身は何と弱く価値のないものであるか、ということをしみじみ考える。太陽や月や星の驚嘆すべき現象と自分自身の虚弱さの意識が人間は弱く、卑少で、無力であることを深く印象づけるのである。神に対する予備的な考えがこのような意識と合致するのは極めて当然である。人間はこれらの畏るぺき不可抗的なカを持つもろもろの存在物を考える。そしてそれらが偉大で不可抗的なものであるという意識は人間をして謙虚に頭を垂れさせる。それらが素晴らしいドエライカを持つという意識が人間をしてそれらの助けを求めさせる。人間はそれらが恵みを与えてくれるように、気嫌を取結ばうとする。また人間はそれらを恐れ、それらから破壊されないようにそれらの怒りを逃れようとする。
 無知の最も始めの段階に於ては『偉大さや素晴しさが眼に見えたり、人間に危害を加えたり思恵を与えたりしそうに思える自然の存在物それ自身の中に、真のカと権威を具有している。』と人間は考えた。それで人間は、樹木、動物、河川、山岳、火、雨、空気、天体、雷電その他数えきれないほど多くの有体牲を崇拝する。これは無知の最も初歩形である。
 人間の無知がいくらか少くなり、光りと知識の微光が多少現れ知性の視野が広まると、人間はこれらの偉大な張力なものはそれ自身は全く無力で、他に依存しており、決して人間以上ではないと−−人間よリももっと無力であるということを知るようになる。最も巨大で強い動物も微少な細菌のように死に、あらゆる力を失う。大きな川も満されたり欠けたリして、遂に水が涸れる。高い山も人間によって爆破され粉砕される。地上の作物が豊かであるがどうかも、地球自体が決定するのではなく、実は水が豊作にさせるのであり、水の不足は凶作をたらす、水でさえ何ものの支配もうけないのではなく、実は雲をもたらす空気に依存している。空気自体は力のないものであるが、空気を有効に利用させるのは他の原因てある。月や太陽や星もまたある強力な法則に支配されており、その法則の指令がなければ、少しも運動すろことは出来ない。以上のようなことを考えると、目に見えるあらゆるものを支配し、あらゆる力の宝庫であるかもしれない、神とおぼしき偉大な神秘的な力を持っているものの在在の可能性に、人間の心惹かれる。このようにして自然現象の奥にある神秘的なカヘの信仰が発生し、多くの神々か空気、光、水などのように自然のさまざまな面を支配していると想像され、その神々を表現するために暗示的な形や象徴が作られる。そして人間はこの像や象徴を礼拝し始める。これもまた無印の一形式にほかならず、知性的文化的のこの段階においてさえも、真理はまだ人間の眼には隠されたままである。
 人間の知議と学問が更に進歩し、生命や存在の根本的問題を更に深く考えるようになると、人間は宇宙における全能の法則と万物の支配を発見する。日の出や日没、風や雨、星の運動や四季の変化などに何と完全な秩序が見られることだろう!数え切れないほどのさまざまなカが何と調和して共々に働いているのだろうか!宇宙のあらゆる原因がそれに従って共同して働き、一定の時間に一定の結果を生ませる、何と強力な「いとも賢き法」てあろうか!「自然」のあらゆる面の中にあるこの秩序、調和、法則への完全な従順を考察するならば、多神教者でさえ、「至高の権威を持ち給う、他の神々より偉大な神があらせ給うにちがいない」と信じざるを得まい。何故なら別々な独立した神々がいるとするならぱ、宇宙の全機構は群雄割拠の戦国時代の如く大混乱するからである。人間はこの最も偉大な神を”アラー”とか”ペルメシュワル”とか”ゴッド”とか”ホダーイ・ホーダアイガン”などいろんな名前で呼ぶ。しかし無知の暗闇が依然続いているので、人間は「至高者」と並んでその他の神々をも礼拝することを続ける。人間は神の国が地上の国とさがわないと想像している。地上の支配者が多くの大臣、知事、その他の責任のある役人を持つように、一段格の下る神々は「至高き神」のいわば責任ある役人のようなものである。神の役人を喜ばせ、気嫌を取らなくては「至高き神」に近づくことはできない。だから神々をも礼拝し、助けを求めまた決して怒らせてはならない。このようなわけで、神々は「至高き神」の御許に行く際に通らねばならぬ代理人のように考えらている。
 人間の知識が増せぱ増すほど、人間は多数の神々に満足できなくなる。神々の数は減りはじめるもっと人間が進歩すると神々の正体を一つ一つ厳密に研究し遂にはこれら人間が作りあげた神々はどれ一つとして神性を待っていないことを発見する。その神々と見なされているもの自身が、実は人間と同じく、否人間よりももっと無力な人間の手で作った被造物である。それ故、その神々は一つ一つ脱落し、最後に「唯一の神」のみが残る。しかし唯一の神に対する人間の考え方は、依然、無知の要素の残滓が含まれている。ある者は神は人間のように身体を持ち給い、ある特定な所に住み給うと想像している。ある者は神は地上に人間の形をしで下りて来られ給うと信じている。ある者は神は宇宙の仕事を完成されたので、今は休息中てあると考えたりする。ある者は神に近づくには或種の仲介が必要であり、その仲介がなければ何物も得ることができないと信じている。またある者は神はある姿と形を持ってわられると想像し、礼拝するためにその神の像を自分の前に置かねばならないと思っている。このような歪曲した神の考え方はまだ去らないで根強く続いており、それらの大半は現代ですらいろんな民族の間にまだ残っている。
 タウヒードは神の最高の考え方であり、神があらゆる時代に予言者を通して人類に伝え給うた知識である。最初にアダムが地上に遣わされた時、持って来たのはこの知識であった。ノア、アブラハム、モーゼ、イエス(彼等すべてに神の平安あれ!)に啓示されたのと同じ知識であった。ムハンマド(彼の上に平安あれ!)が人類にもたらしたのはこの知識そのものであった。それは純粋で絶対的で、少しも無知の影のない知識であった。予言者の教えから逸脱し、自分の誤った推理や偽りの認識や偏った解釈に頼るだけでも、人間はシルク(神に他のものを添付する者)、偶像崇拝、クフラの罪がある。タウヒードはあらゆる無知の雲を追い払い、地上を真理の光で照らす。このタウヒード−−”ラ・イラーハ、イッラッラーハ”という短い言葉が、どんなに重要な真理を示しているか−−それがどんな真理を伝え、どんな信仰を育てたかを調べることにしよう。以下の点を熟慮すると、我々はそれを理解することが出来る。
 先ず第一に、我々は神性の問題に取組んで見る。我々は壮大な無限の宇宙と向い合っている。人間は宇宙の始まりを知ることもできなければ、その終りを心に描くこともできない。宇宙は悠久の昔がら定められた道を動き続け果しない未来に向かってその旅をしつづけている。数えきれないほど被造物が宇宙に現れた−−そして毎日毎日現れつづけている。宇宙の現象はただただ驚嘆極まりないものであるから、これを考える人は度胆を抜かれ茫然自失する。誰の助けもかりず、自分のヴイジョンで宇宙の実体をつかみ、理解することは人間には不可能である。宇宙のすべてのものが、たんに運や遇然だけて現われたとは信じられない。宇宙は物質の偶然の集団ではない。宇宙は関係ない雑然とした物を寄集めててきているのではない。宇宙は渾沌とした無秩序な意味のないものの集塊ではない。宇宙のすべては、創造者、設計者、管理者、支配者がいなけれぱありえないのである。しかし誰がこの巨大な宇宙を創造し、管理することができるのだろうか。万物の主であらせ給う神のみが、宇宙の創造者でありうるのである。神は無限で永遠である。神は全知全能である。神はすべてを知り給い、すべてを見給う。神は宇宙に存在するすぺてのものの上に最高の権威を持ち給う。神は無限の力を持ち給い、宇宙と宇宙に存在するすべてのものの主である。神には欠陥や弱点は微塵もなく、神の御業を妨げるカを持っている者は全然いない。このようなお方のみが宇宙の創造者、管理者支配者となることができるのである。
 第二に、これらの神牲とカはすべて唯一の神にのみ与えられていることが必要である。二つまたはそれ以上のがあらゆる性質と能力を夫々待ちつつ、共存することは実際不可能である。彼等は衝突するにちがいない。他のあらゆるものの上に立って、それを統べる唯一の、ただ一つの最も勝れた支配者がいなければならない。あなたがたは同じ州に二人又はそれ以上の知事、同し軍隊に二人以上の最高司令官がいると考えることができるだろうか!!仮りにこれらのカをさまざまの神々に平等に分配しぞれぞれの神が独立した分野を持ち、ある神は知恵の神、ある神は摂理の神、ある神は生命の神であると考えたとしても、宇宙は分離することができない全体をなしているから、そのような神々のおのおのが、自らの御業を果す時には、他の神々のおのおのが、自らの御業を果す時には、他の神々に依存するであろう。神々が独立対等の時は神々の間で調整がとれない場合も起るであろう。そしてもしこの不調整が起れば、世界はこなごなになってしまう運命になる。これらの特性は移すことはできないものである。ある特性がある時にはある神に存し、また別な時には、それを別な神に見出すことは混乱てある。何故ならば自らが生きていることができない神は他のものに生命を与えることができないし、自らの神性力を保つことが出来ない神は、結局、無限に広大な宇宙を支配することはできないからである。このように問題を深く考察すればするほど、神のあらゆるこれらのカと本性は一人の唯一な神のみに存しなけれぱならないという確信をあなたがたはますます強く持つであろう。多神教は無知から出たものであって、合理的な綿密な研究に耐えることはできない。多神教は実際不可能である。人生と自然の事実から多神教の説明の材料がでてこない。人生と自然の事実はおのずから、神が唯一であるということが真理であることを人間に教えているのである。
 さて、このように神を考えることが正しくて完全であることを念頭におきながら、この広大な宇宙を考察しよう。胸に手をあてて考えてもごらんなさい。あなたがたがみるすぺての物の中に、あなたがたが感知するすぺてのものの中に、あなたがたが考え、感じ、想像するすぺてのものの中に−−あなたがたが知っているありとあらゆるものの中に−−これらの神の象徴を持っているものが何かあるだろうか、太陽、月、星、動物、鳥、魚、鉱物、金属、機械、それに人間−−これらすぺての中で神の象徴を持つ機能が一つでもあるだろうか。勿論、ないに決っている!何故ならば、宇宙の中にあるすべてのものは創造され支配せられ、規定せられ、他のものに依存しており、不滅性はなく、自由勝手な行動がでぎず、自ら推進できないからである。−−ほんのかすかに動くときでも厳格な法則に支配せられ、その法則から外れることはできない。この無力な状態は、それらのものが神を疑うことができないことを証明する。それらのものは神らしい顕われは少しもない。それらのものは神性を持たないばかりかそれらのものを神と同列に論じることは真理を冒とくするものである。これが"ラー・イラーハ Lailah ”の意味即ち、神はいない−−いかなる人間も物体も礼拝し順従するに値する神性と権威を持たない−−という意味である。
 しかしこれで我々の問題が終ったのではない。神性は宇宙のいかなる物質的また人間的要素の中にも存在せず、それらは神性のかけらさえ持っていないということを我々は理解したのであるが、このことはとりもなおさず我々のふし穴だらけの眼が宇宙の中に見るあらゆるもののはるか上に「至高き御方(存在)」が在ることを我々に教える。その存在は神の本性を持ち、あらゆる現象の背後に働く「意志」であり、この壮大な宇宙の創造者であり、すぱらしい法則の管理者であり、厳粛な調和の支配者であり、あらゆる行為の執行者であられる。その存在こそ、宇宙の主、現世、来世の主アッラーである。そしてアッラーは唯一無二の神である。これが”イッラッラーハ”(アラーの以外に……)の意味である。
 これを知り信ずることが、それ以外のあらゆることよりも重要であり、これを知るように努めるほど、あなたがたは、これがあらゆる知識の出発点であるという確信をますます深めるであろう。あらゆる科学の研究分野において−−物理学、化学、天文学、地質学、生物学、動物学、経済学、政治学、社会学、人文科学などの研究であろうとも−−問題を深く研究すればするほど、あらゆる学問と研究の分野にわいて、”ラー、イラーハ、イッラッラーハ”の真理がますます明らかになってくることがわかるであろう。研究と調査の窓を開き、真理の光りで真の知識にいたる道を照らすのは、この”ラー、イラーハ、イッラッラーハ”である。もしこの真理を拒否したり無視したりすれば、あなたがたはいたるところで幻滅に会うであろう。何故ならばこの根本的な真理を否定することは、宇宙にあるありりあらゆるものから、その真の意義を奪うことに外ならないからである。そうなれば、宇宙は無意味なものとなり、進歩への展望はかすみ混乱を招来するのみであろう。
 

 

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