第3章予言
四、予言の最終決定
 ここで我々はムハンマド(彼の上に平安あれ!)の予言のこの面を考察しよう。
 我々は予言の性質を既に論じたが、この論述で予言者の出現は普通の出来事ではないことが明らかになった。予言者の肉体の現存もまたあらゆる土地、民族、時代に必要欠くぺからざることでもない。予言者の生命と教えは人々を正しい道に導く照明灯であり、そして予言者の教えと導きが生きているかぎり、いわば、予言者自身も生きていることになる。予言者の本当の死は肉体的な死にあるのではなく、彼の教えが弱まり、彼の導きが勝手に変えられることにあるのである。以前の予言者達は、彼等を信奉する人々が彼等の教えに卑しくへつらい、教訓を勝手に作り変え、偽りの出来事をつけ加えて聖伝をけがしたから、死んでしまったのである。以前の聖典−−Torah Zafur(ダビデの詩篇)、Injeel(イエスの福音書)−−は一つも今日原典が残っていないし、それらの聖典を信ずる人々も、原典を持っていないことを告白している。以前の予言者達の生涯の記録にはフィクションが非常に多くまじっているので、彼等の生涯を正確に信頼できるように記述することは不可能である。彼等の生涯は物語や伝説となってしまい、信頼すべき記録は何処にも見当らない。記録が失われ、存命中の垂訓が忘れられているばかりではなく、いつどこでその予言者が生まれ成長したか、いかに彼が生き、どんな規範を人類に与えたかも確実に言えないのである。まことに、予言者の真の死は彼の教えの死滅にあるのである。
 この点から事実を判断するならば、何人もムハンマド(彼の上に平安あれ!)と彼の教えが生きていることを否定することはできない。彼の教えは偽作されずにあるし、偽作することもできないのである。コーラン−−彼が人類に与えた経典−−言葉やつづりや句読点や題が少しも違いなく、原典のままに存在している。彼の生涯のあらゆる出来事−−彼の言った事、訓示したこと、行動したこと、など−−は完壁な正確さで保存されている。それ故、十三世紀後の今日でさえ、その歴史の叙述は、我々がすぐ真近に自分の眼で彼を見ているように思うほど明瞭で完全である。どんな人間の伝記もイスラームの予言者、ムハンマド(彼の上に平安あれ!)の伝記ほどによく保存されているものはない。我々の生涯のあらゆる場合に、我々はムハンマド(被の上に平安あれ!)の導きを求めることができるし、彼の聖伝から教訓を得ることができる。それが最後の予言者、ムハンマド(彼の上に平安あれ!)の以後に他のいかなる予言者も要求されない理由である。 また新しい予言者の出現を必要とする三つのことがある。予言者の死去だけでは、もう一人の予言者の出現を招くことにはならない。新しい予言者を要望する事態は次のように要約される。

 一、以前の予言者の教えが勝手に作り変えられたり。偽作されたり、または教えが死滅しその復活が望まれている場合。このような場合には、人々の生活から穢れを取除き、彼等の宗教を元の形態と純枠に再生するために、新しい予言者が送られる。
 二、既に亡くなった予言者の教えが不完全であり、その教えを修正し、改善し、またその教えにいくらかつけ加えることが必要な場合。その時は、それらの改善進歩を遂すために、新しい予言者が遣わされる。
 三、以前の予言者がある特定の国民や地域にのみ現れた場合は、他の国民や民族や国家のための予言者が派遣され得る。

 以上が新しい予言者の出現を必要とする三つの根本的条件である。だが注意してみると、これらの条件がどれ一つとして今日存在しないことがわかる。最後の予言者ムハンマド(彼の上に平安あれ!)の教えは完全に保存されてきて不朽なものとなり、生きている。彼が人類に示し給うた導きは完全で欠点がなく、聖なるコーランの中に大切に保存されている。イスラームのあらゆる典拠は、完全にそのまま残っており、聖なる予言者のあらゆる教訓と行為は、少しも疑惑を持たないで、確めることができる。このように、彼の教えは完全にもとのままであるから、この点に関し新しい予言者の必要はないのである。

(原著者註)−−もう一つの場合は、他の予言者を助けるために、予言者が現れる場合である。だがそのような場合の例は極めて稀である−−コーランにはその例が二回あるにすぎない−−このような予言は極めて例外てあり一般的でないから、我々はこれを第四番目として取上げなかったのてある。

 第二は、神は予言者ムハンマド(彼の上に平安あれ!)を通じて、神の啓示された導きを完成され給うたのであるから、イスラームは人類の完全な宗教である。彼は「今日、汝らの為に、汝らの信仰−−宗教を完成したり。汝らに与えるわが恵みを完成したり。」と言い給うた。人生の完全なる道として、イスラームを徹底的に研究するならば、このコーランの言葉の真理が分る。イスラームは現世と来世の生き方の導きを与え、そして人間の導きに必要欠くべからざることは決して漏れていない。宗教は今や完成された。未完成という理由で、新しい予言を求める理由はない
 最後に、ムハンマド(彼の上に平安あれ!)の教えは、特定の民族、土地、時代にのみ与えられたのではない。彼は”世界の予言者”として−−全人類に対する真理の御使いとして現れたのであった。コラーンに於てはムハンマド(彼の上に平安あれ!)に「おお人類よ。我は汝らすぺてへの神の使いである」と宣言せしめている。彼は「世界の(あらゆる民族への)祝福」であると記されている。彼の教えの説き方は普遍的で人間的であった。それが彼以後に新しい予言者の出る必要がなく、彼がコラーンにハータム・ウン・ナピィイーン(Khatam-un-Nabiyyin)(最後の予言者)と記されている理由である。
 それ故、神と神の道を知るための唯一の源泉はムハンマド(彼の上に平安あれ!)である。我々は、後世永久に人間を導くことができるほど完全で総括的な彼の教えを通じてのみ、イスラームについて知ることができるのである。今や世界は新しい予言者を少しも必要としない。ムハンマド(彼の上に平安あれ!)を心から信じる人々、彼の神託の伝導者となり、それを全世界に布教し、ムハンマド(彼の上に平安あれ!)が人類に与えた文化の建設に努める人々のみを世界は必要とする。彼の教えを実行に移し、ムハンマド(彼の上に平安あれ!)が建設するために現われた、神の法に支配された社会を建設することができる人々を世界は必要としている。これがムハンマド(彼の上に平安あれ!)の使命であり、その成否に人間の成否がかかっている。

 

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