第3章予言
K、最終の証明

 アラピアのような未開な地方に、一四○○年前の無明時代に、とうして無学なアラピアの一商人で羊飼いであった人間がこのような光、このような知識、このような偉力、このような能力、このような素晴しく発達した道徳を持つようになったのか。我々はこのことを熟慮沈思しなければならない。彼の宣託には特別変ったところは何もない、それは彼自身の心からの心からの産物であると人々は言うかもしれない。もしそうであるならば彼は自分は神であると宣言したにちがいない。そしてもし彼が当時そのような宣言をしたならば、ただ想像からクリシュナンや仏佗を神と呼ぴ、イエスを神の子と呼ぴ、また平気で人や水や空気などの自然のカさえ崇拝していた当時の人々のことなどから、このような素晴しい人間を主なる神自身であると直ちに認めたであろう。

 しかし見よ!彼の宣言は全く反対であった。彼は次のように言った。「私はあなたがたと同じく人間である。私は自分では何物もあなたがたに与えることはででない。すぺては神から私に啓示されたものである。私が持っているあらゆるものは神のものである。同じものを全人類が作ることがででないこの宣託は神の宣託である。私の心の中から作られたものではない。その一つ一つの言葉はすぺて神から告げられたもので、あなたがたの眼には私の功績であるように映っている。あらゆる素晴らしい偉業、私が授けたあらゆる規範、私が説き教えたあらゆる原理−−これらのうち私から出ているものは一つもない。これらのことを私個人の能力と才能から作り出すことは私には全く不可能である。私をあらゆる物事を為すのに神の御導きにすがる。神が欲し給うことを私は行い、神が命じ給うことを私は宣ぺるのである。」

 ああ、何と素購しい感激であろうか。何という正直と誠実と名誉の模範であろうか!嘘つきや偽善者は、他人の名誉を自分のものに横取りしても、ばけの皮がはがれても、少しも良心のとがめを感じない。しかしこの偉大な人間は、彼のインスピレーションの源を見出す方法がないので、誰も彼に否認することができないほど明らかなことでもこれらの偉業のどれ一つとして自分の名誉にはしない。
 目的の完全な正直、性格の卒直、魂の崇高をこれ以上に証明するものがどこにあるだろうか。これほどの多芸多才と能力を秘密の経路から得ているのに、自分を啓発し激励したあらゆるものの源泉を明らか指摘した彼ほど真実な人間が他に誰かいるだろうか。これらのあらゆる要因は、このような人間こそ神の真のみ便いであったという結論に必然的に導くのである。

−−この人こそ我々の神聖なる予言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)であった。彼は驚嘆すぺぎ価値を持った人であり、美徳と善良の典型であり、真実と正直の象徴であり、神の偉大な使徒であり、かつ全世界への神のみ使いであった。彼の生活と思想、彼の真実と正直、彼の信心と親切、彼の性格と道徳、彼のイデオロギーと業績−−これらはすぺて彼の予言の非難の余地のない証明である。偏見を持たないで彼の生涯と教えを研究する人は誰でも明らかに彼が神の真の予言者でありそしてコーラン−‐彼を通じて人類に与えた経典−−は神の聖典であったことを証明するであろう。偏見を持たない真面目な真理の探究者はこの事実を見逃すことはない。
 更に、ムハンマド(彼の上に平安あれ!)を通じてのみ、我々はイスラームの道を正しく知ることができるということをはっきり理解しなくてはならない。コーランとムハンマド(彼の上に平安あれ!)の聖伝だけが、人間が神の意志をことごとく知るために役にたつ信頼できる典拠である。ムハンマド(彼の上に平安あれ!)は全人類に対する神の御使いであり、往古から、次から次へと続いてきた予言者達の輪は彼のところで止った。彼は最後の予言者であり、直接の啓示を通じて人類に伝えるのが神の御意志であったあらゆる教えは、ムハンマド(彼の上に平安あれ!)を通じて神がら授けられ、コーランと聖伝の中に大切に秘められている。それ故、真理の探究者は、また正直なムスリム、神の道の誠実な信者にならんと願う人は誰でも、神の最後の予言者を信じ、彼の教えを受け入れ、彼が人類に示した道を進まねばならない。これが成功と救いへの真の道である。

 

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