イスラームの生き方

イスラミックセンター編著


二、道徳の意義
1. 安定した人生


クルアーンでは、人間は純正な心ハニフを持って生まれるものとされています。ハニフは実存の根底にある創造の大方針に従うことで、それを好む姿勢であり、また根源を求める無意識の衝動ともいえます。その心は、悪に対しては良心の声として、善に対しては行動をうながす嘱きとして、常に訴えかけてきますが、瞬間に留り、表面的な出来事に一喜一憂する、心は、その声に耳を閉ざしてしまいます。心のかっとうは、意識の参加を得ぬまま、幕の背後で行なわれます。根源や未来に対して閉ざされた心は、刹那的な悦楽に酔い、一時的な安堵を得るかも知れません。し小しその状態は持続せず、瞬間から瞬間へ、点から点へと飛び移り、新しい変化を求め、新しい悦びや安堵感を追い廻すことになります。表面的な変化を追い続けるのですから、いつかは疲れ果ててしまいます。幕の背後での暗闘はそのとき表面化し、意識を襲い、人間の心を大きく揺さぶるのです。そこにいくつかの真剣な悩みが加われば、ストレスが生じ、場合によっては人格が崩壊し、あるいは生気からの逃避を試みてしまうかも知れません。



このハニフを肯定し、常に新鮮に保ち続け、聞く耳を持つことで、暗部での闘いは消滅します。心の基部と同調した意識を持つことですから、かっとうはなくなります。根源を考えるのですから、表面的な出来事に娠りまわされることもなく、ストレスも逃避もなく、持続する人生の喜びが得られます。ハニフを大切にすることで、安定した心が得られ、本来の人間性が発現され、巨大な原動力を持って人間完成の大道を歩むことが可能となります。



純正なる道、人間創造の根本へ


しっかり顔を向けよ。


(聖クルアーン第三〇章三〇節)



すなわち、アッラーが唯一であることを信じ、善行に近づくのは人間の本質なのです。



まことに


われは人間を


最善の形に創った。


(聖クルアーン第九五章四節)



この点でイスラームの人間観は、魂に「原罪」の重荷を負わせたり、肉体的欲求及び本能的欲望が精神的進歩を阻害すると見る他の宗教とは全く違っているのです。



イスラームは人間の人格を分離不能の統合的なものと見ており、全資質の合計がすなわち人間であるとしています。論議のため、あるいは何かを強調するため、人間の精神、知能、情緒、生物学的な面その他を個別的に取り上げることは可能ですが、実際上その一つ一つは互いに密接な関連を持ち、人格の内に融合されているのです。



このように、イスラームは宗教的な面と日常、神聖なものと聖俗的なもの、アッラーを意識しての行為とそれ以外の行為などの間に区分や二重性を認めておりません。人間のあらゆる行為は、そのまま人生の部分であり、最後に決算される得点や失点などです。聖クルアーンでは、礼拝、断食、喜捨、巡礼などアッラー崇拝の行為が定められていますが、それらの行為は信者に肉体、感情、知性、社会内及び物質的の面で多くの恩恵を即もたらすことにつながります。



イスラームでは現世的な事柄−たとえば商業、司法行政、金の貸し借り、結婚と離婚、飲食など−について一定の法令を定めでありますが、そこには精神的な面が十分考慮されているのです。



アッラーを意識し真に安定した人生とは、人間存在の種々な面における平衡状態にあり、一つの面を極端に抑え他の面を強調することではありません。礼拝、断食、聖クルアーンの朗読などの敬虔な行為は信者の生活に為いて基本的で重要なものでありますが、同時に人生における他の多くの重要かつ基本的な面と並行されねばなりません。そしてこれらすべての面でアッラーを思い、その意志に沿うように努力すべきなのです。



信者は、人間の自然な欲望を捨て去ることを要求されてはいません。ただ、あらゆる欲望と好みを定められた範囲内にて求めることを期待されているだけです。



イスラームには、牧師など特殊階級の人しか行えないような神聖な儀式など存在しないので、そこには信者の精神的活動を統轄する聖職者階級も存在いたしません。個人は、アッラーと直結しています。人間に関するあらゆる事柄はすべての人びとの連帯責任にあり、個人は、自分自身がアッラーの定めた制限を越えぬよう十分注意するべきなのです。



またなんじらのうち一団の者は


人びとを善きことに招き


正しきを命じ邪悪を禁ずるであろう、


これらは成功する者たちである。


(聖クルアーン第三章一〇四節)



この実際的な意義は、信者がアッラーの命じたこと、禁じたことを学んでそれらを守り、そのことを他人に教え、地上にアッラーの法律をうち立てるため努力すべきとの勧告にあるのです。



聖クルアーンでは、人びとが理性と理解をもってアッラーに近づき、人生を生きることが要求されています。他の人びとの行為を、ただ「みんながやっているのだから」との理由で無分別にまねることは信者に許されることではないのです。



しもべのうち


知識ある者のみ


真にアッラーをおそれる。


(聖クルアーン第三五章二八節)



ここで言っている「おそれ」とは、敵に対する恐れというような意味ではありません。たとえていえば、水や空気がなくなることへのおそれであり、生命の電源から切り離されてしまうおそれであります。アッラーを愛する、大切にするという意味であり、それを一段と強めた言い方なのです。その価値が認識できる者は、知識ある者のみであるといい、知識を得ることの大切さを説いています。この知識はもちろん、単なる平板な表面的なものではなく、人生百般に応用が利く、根源を指向する奥深い知識を指しています。



また、聖預言者ムハンマドは次のように言っています。「知識を求めることは、男女を問わず、全ムスリムの義務である」



その意味は、もし物事を理解しようとせず、深く考えもしないなら、たとえ誠実さがあったとしてもそれだけでは不充分だということなのです。誠実さは理解力を伴わなくては完全とは言えません。





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