イスラームと社会的責任

T・B・イルビング


四、社会的責任


われわれ人間は社会的責任を負っている。すべての人が自分の家族に対し多くの責務 をもっているように、また社会に対しても義務を負っている。


個人への責任はここでは、はっきりしている。というのは、唯一神の厳然とした存在 が、各人に対してそれぞれの務めを鋭く警告しているからである。貧者や生活困窮者 に富を再分配する、社会福祉的税金であるザカートにより社会は正常に運営されてゆ く。預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)は孤児であったから、ある種の社会的 救済がいかに必要であるかを、身をもって心得ていた。親としての務めは一つの重要 な義務であり、この務めは責任ある態度で果されなくてはならない。様々な道徳的行 為も、同じく責任ある態度で行なわれなくてはならない。個人的にも社会的にも、正 しいマナーがきわめて重要である。しかし、どのような責任を果たすにしても、行き すぎは許されない。


アッラーは何人にも、

その能力以上のものを負わせたまわぬ。

その行ったことで己れを益し、

その行ったことで己れをそこなう。

(第二雌牛章 第二八六節)


人びとがイスラームの主たる戒律または責務と呼んでいるものは、聖コラーンに次の ように説かれている。


言え、「さてわたしは、主があなたがたに対し禁じたまうことを、復唱しょう」


一、かれに何ものでも同位者を配してはならぬ、

二、両親に孝行であれ。

三、困窮することを恐れて、なんじらの子女を殺してはならぬ。

四、公けでも隠れても、醜事に近づいてはならぬ。

五、アッラーが神聖化された生命を正義のため以外に殺してはならぬ。

六、孤児が成人に達するまでは、最善の管理のためのほか、なんじらはその財産に近 づいてはならぬ。

七、十分に計算して正しくはかれ。われは何人にもその能力以上の事を負わせぬ。

八、なんじらが発言するときは、たとえ近親の間でも公正であれ。

九、アッラーの約束を全うせよ。このようにかれは命じたもう。おそらくなんじらは 留意するであろう。

一〇、まことにこれはわれの正しい道である、それに従え。なんじらをかれの道から 離れ去らせるような他の道に従ってはならぬ。


このようにかれは命じたもう。おそらくなんじらは主を畏れるであろう。(第六家畜 章 第一五一−一五三節)


同様、経済生活も、倫理的な方法に基づいて行なわれなければならない。とくに、悪 用や濫用に直接つながる高利貸や利息稼ぎなどの逸脱行為は厳重に規制さるべきであ る。国家やその法律は、このようにすべて、人のための正義を基本として、その機能 を発揮できるようになるのである。


古代のサームッドの民は、渇いたものは路駄でさえ水を飲む権利があると警告されて いる。(第五四日章 第二三−三〇節)。

すべての国民は自分のやることに責任を持ったのである。(第二雌牛章 一三四節)

人間の、総合的な責任を伴った行為について、コラーンでは次のように述べられてい る。アッラーは、ひとりの者に与えたまえる恩恵を、かれらが自分で変えば、い限り 、決してこれを変えたまわぬ方であらせられる。(第八戦利品章 第五三節および第 十三雷電車 第十一節)


共同防禦の原則は、かつてイスラーム社会を攻撃してきた人々を当惑させた。すなわ ち、イスラームは「右頬を打たれたとき、左頬をさし出せ」というような、非現実的 な教えを説いているのではなく、他人への思いやりと、協調性を伴った自衛の行動を 重んでいるのである。


聖クラーン第四一識別章、第三三−三六節に次のように説かれている。


アッラーに人びとを呼び、善い行いをなし、「まことにわたしは、ムスリムでありま す」と、いう者ほど美しい言葉の者があろうか。善と悪とは同じではない。(人が悪 をしかけても)いっそう善いことで悪を追い払え、そうすれば、互いの間に敵意のあ る者でも、親しい友のようになるであろう。だが堅忍の者たちのほか、それはなしと げられまい。また格別に幸運の者たちのほかは、それをなしとげ得ないであろう。そ れからもし、悪魔の扇動が、なんじらをそそのかしたならば、(どんな場合でも)ア ッラーの加護を祈れ。


まことにかれは、

全聴者・全知者であられる。


個人のレベルにおいては、責任ある行為が強く求められている。すなわち肯定的な態 度が否定的または破壊的行動よりも優先するのである。


善いことをなす者は、

そのような十倍の報奨を受ける。

だが悪いことをなす者には、

それとひとしい応報をされるのみで、

かれらは不当に遇されることはないであろう。

(第六家畜章 第一六〇節)


このようにわれわれは自分の身内をまず第一とし、次に女性、子供、とくに孤児、貧 者と精神異常者および旅行者に対する行動は、充分な注意と思いやりをもって、建設 的に当るよう教えられている。イスラーム教国での人のもてなし方は、素晴らしいと 人命に言われるようになってきている。


またかれらは、

かれを敬愛しまつるために、

貧者・孤児および捕虜に食物を与える。

(そして言う)「わたしたちはアッラーのお喜びを願って、

あなたがたを養い、

あなたがたに報酬も感謝も求めない」

(第七六時章 第八−九節)


この姿勢の多くは、聖預言者の実践されたこと、すなわちアラビア語の「スンナ」に 従って細かく作り上げられたものである。ハディース(聖預言者言行録)の学問は、 この目的のために作成されたものであり、ハディースを厳格に実践することこそ、過 去の事象を確認するために、イスラームの学者たちが労を惜しまずに編さんした、歴 史的力作を讃美する心のあらわれの一つである。


ハディースに納められているすべての事を自ら行うことによって、その根幹となって いる真面目で、強烈な聖預言者の、行動と人となりを知ることができる。イスラーム のハディース(聖預言者言行録)は、西はモロッコからアフリカ、東はインドネシア に到るアジア全域にわたる多くの国々を、その文化的主体と共に強く結びつけている 、誇るべき伝承である。


西欧勢力による、これまでの永年の侵略にもかかわらず、イスラーム世界は現代世界 という舞台に「中道社会」として、再び躍り出ようとしている。かってスペインは、 グラナダとバレンシアで、その地の社会・文化のすべてを破壊しつくしてしまったが 、芸術と社会面でのイスラームの倫理観や表現形式は、苛酷な植民地政策で悪名高い フランスでさえ、かつて北アフリカでこれを破壊することができなかったほどの威厳 を、その地に与えたのである。


西欧世界が、自らの価値観を模索している今世紀。イスラームの教えは、それを正し い道に甦らせ、人々が畏敬し、価値を認める神のお告げがそこにはある。今やイスラ ームは、新しく甦った社会的責任に向って、人びとを導く、明確な価値観をもって前進している。








ホームページへ戻る