イスラームと社会的責任

T・B・イルビング


四、イスラーム文明の精神


アッラーから聖預言者に啓示された聖コラーンの第九六凝血章(アラク)は次の言葉 で書き始められている。


読め、創造したまえる方なんじの主のみ名によって。……


この章には簡潔なタイトルがつけられていて、イスラーム社会の初期の規範を形成し ている。このようにイスラームはその誕生の始めから、充分その教養的伝統をもって いたのである。


文明が充分にその機能を果たすためには、人類成長の記録が保存されなければならな い。われわれはこの記録を統計と呼んでいるが、それは経済学、社会学、とくに課税 と企画のための基本をなしている。われわれイスラーム教徒としての、偉大な先見性 はそのような文化的生き方の対象または実体の把握にあった。それによってイスラー ム教徒は精神と知識の両方の価値を身にそなえ、社会の内部で充分にその機能を発揮 するのである。


文明とは一体なんであろうか。イスラームは文化の停滞した地域、すなわち文化的真 空のなかから出発した。しかしその誕生と同時に、また聖預言者の死去から十年の間 に文明世界における文化的エネルギーを生み出す中心地となったのである。


このような価値と規範に対するイスラームの考え方は、他の宗教のものとは異なって いる。イスラームの見解は第一に、創造と存在に対しての神の意志と、世界について の明確な洞察力に基づいている。アラビア語で「宗教」に相当する言葉は「ディン」 であるが、これは「神のおかげをこうむっている何かあるもの」の意味で、ラテン語 の「われわれを神に結びつける何かあるもの」という


意味の「リリジオ」に非常によく似ている。


同じように「規範」に当るアラビア語の「フルクァーン」は聖コラーン第二五章(識 別)の名前ととなっている。われわれイスラーム教徒にとって基本的または絶対的な 罪悪は、唯一神に対する純粋な崇拝を行うかどうかにかかっていて、その最も重大な ものは次の三つである。


(一)「クフール」これは「不信心」とか「忘恩」の意味であり、また同じ語源から 出ている現在形「カフィール」は、神がその創造物に対して何らかの役割を持つとい う事実を、認めることを拒否する忘恩の異教徒や無神論者のことを意味する。


(二)「シルク」これは神に何らかの協同者(パートナー)を認めるという意味で、 これによって神の唯一性を信じないということである。キリスト教徒の聖コラーン翻 訳者は、この「シルク」を「名神論」とか「偶像崇拝者」と訳し、キリスト教の三位 一体が、偶像信仰の未熟な形体である古代ペルシアの二神論と同じように、このシル クの一つの変形であるにもかかわらず、このような訳し方によってキリスト教への非 難をかわしている。


(三)「トゥーグヤン」(越権)これは神を信頼することを拒み、越権的に傲慢に行 動する罪でのことである。このような反イスラーム的考え方に対し、イスラームの道 を歩む者は、実践行動や、礼拝、宗教上の慣習を守り、自ら強く自立しなくてはなら ない。イスラームでは、信仰保持のための実践を「イスラームの五つの柱」と呼んで いる。すなわちそれは次に述べるものである、


(1)信仰の告白。

(2)礼拝−日々の勤め支えるもの。

(3)断食(斎戒)。

(4)ザカート(喜捨)−社会への利益還元。

(5)メッカヘの巡礼−自力で行う能力をもち、留守中の家族の生活を保証できる場 合にのみかぎる。


以上の宗教的実践は、誕生以来、されてきている。聖コラーン「み光り章(ヌール) 」に要約されており、これはイスラーム今日に到るまでの十四世紀にもおよぷ長い間 、数多くのイスラーム教徒たちに深く支持


アッラーは、天と地の光であられる。

かれの光をたとえれば、

ともし火を置いた壁龕(へきがん)のようなものである。

ともし火はガラスの中にある。

ガラスは輝く星のよう、

祝福されたオリーブの木からさす、

東の産でもなく、西の産でもないこの油は、

火がほとんどそれに触れぬのに、

光を放つ。

光の上に光をそえる。

アッラーは人びとのために、

比ゆをあげたまう。

まことにアッラーはよろずのことを知りたもう。

このともし火はアッラーの許しによって、建てられた家の中にあり、

かれのみ名がそこで唱えられ、

朝な夕な、

そこでかれの栄光をたたえて唱念しまつる。

人々は交易や商品に惑わされることなく。

アッラーを念じ、

礼拝の務めを守り、

定めの喜捨をなすことに怠りなく、

かれらの恐れは、

心臓も目も転倒する日である。

アッラーはかれらの行った、

最善のものに報いたまい、

かつ恵みにより報奨をつけ加えたもう。

アッラーはみ心にかなう者に、

際限なく賜う。

しかし信仰のない者は、

そのすることなすこと、

砂漠の中の蜃気楼のようなものである。

渇ききった者には、

そこへ着くまでは水だと思っていても、

着いてみればそこには何もない。

そこはアッラーのみ前であり、

人びとはそこで、

自分の過去の清算をしなくてはならない。

アッラーは清算に神速であられる。

また(不信者の状態は)、

深海の暗黒のようなもので、

波がかれをおおい、

その上にまた波があり、

その上をさらに雲がおおっている。

暗黒の上に暗黒が重なる。

かれが手をさし伸べてもほとんどそれは見えない。

アッラーが光を与えたまわぬ者には、

光はないのである。

(第二四み光り章 第三五−四〇節)


このように、イスラームでは神の意志を明確に思索し、神を真撃に畏敬する必要性に ついての価値体系を、はっきりと設定している。


われわれは、以上の基本的実践を果たし、神への純粋な畏敬の念を築いて始めて、社 会や隣人との関係、すなわち罪や犯罪、たとえば殺人、窃盗、虚言、中傷、姦通など について考えることができる。


罪については、前述の三つのなかの二つ「シルク」および「トゥーグヤン」は特に重 大である。なぜならば、これらの罪は、イスラームの基本的信仰と、神の唯一性に対 する人びとの明確な洞察力を破壊するものだからである。









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