1、いかに神を知るか
 さてここで問題が起きる。いかにして神と神の本性と神の法とその審判の日を知りそれを信ずることができるのだろうか?
 我々は既に我々の囲りと我々自身の中にある数えきれない神の啓示を述べてきたが、それは神が−−この壮大な宇宙の唯一の創造者で支配者である神が−−存在し給い、宇宙を支配し続べ給うものであるという事実を証明している。これらの証明は創造者の神聖なる本質を表わしている。即ちその緯大なる叡智と万物を知り給う知恵と全知全能と慈愛と万物を統ぺ給うカと反抗を許さない力を示している。要するに神の本性は神の御業のあらゆるところに見出すことができるのてある。だが人間の知性と能力ではそれを見出し理解することができない。この神の啓示は全く明々白々であり我々の眼は被造物の上に大きく書かれてあるものを自由に説める筈である。しかしこの点を人間は誤ってきたのである。ある者はニつの神があるのだと言いふらし、ある者は三位一体を信し始め、またある者は多神教に跪屈してきた。ある者は自然崇拝を始め、ある者は神を、雨の神、空気の神、人の神、生命の神、死の神というように多種多様に分けてきた。そのために神の啓示が全く明らかであるにも拘わらず、人間の理性はいろいろな場合に曇り、正しい位置に於て神の実在を見失なってきたのである。理性はつぎつぎと疑惑に会い、思想の混乱を招いたのみであった。我々は人間の判断の誤りを今さらここで説くまでもないであろう。
 同様に死後の生命に関しても人間は多くの誤った考え方をしてきた。たとえば人間は死んだら塵に帰し復活などはありえないとしたりあるいは人間は現実に此の世に於て絶えず生れ変わり来るべき輪廻のうねりの中で罰せられたり報いられたりするという類の考え方をしてきた。
 人の道の問題になるともっと困難になつてくる。人間の知性だけを頼りにして神のよみし給う完全な調和した人の道を規定することは非常に困難である。最高の理性と知性の働きをそなえ最高の見識と豊富な思索経験を持っている人ですら人間の生命と生き方について正しい考え方を形成する可能性は薄い。一生人生とは何かを思索し、悟ったとしても、まだ自分が本当に真理を悟り正しい道を歩んでいるのか自信がないであろう。
 人間の理性と知性と知識を最も先全に公平に試す方法は人間を外からの誘導なしで自分の持っているものだけに頼らせることである。そうするとそれぞれ正しい生さ方を求めようと苦心するが、その場合、賢明に求道し努力して真理と正義に達した者は成功と救いを得、真理と正義に達しない者は敗北し去るのてある。しかしながら神は人間をこのような過酷な試練より免れさせ給うた。人間に対する慈悲と思愛から神は人間の中から真に人間らしい人間を召し給いその人々に神の本来の真の知識を伝え給い神の法と正しい人間の道を示し給い、生きる意味と目的と死後の生命を教え給いそれに従うならば必ず戒功し永遠の喜ぴを得ることができる道を示し給うたのである。この選ばれた人々は神のメッセンジヤー−−即ち予言者たちである。神はこの人々にワーヒイ(啓示)という手段によって知識と知恵を伝達し給うた。この神の伝達を記した本は、「神の書」、または「神の言葉」と呼ばれる。人間の叡知と知性の試しは、その純一で敬神な生涯をくわしく知り精魂を傾けてその貴き全き教えを学んでから神の使者を認めるか否かにかかっている。正しい叡知と健全な良識を持つ人は「神の使者」がもたらす真理を真実と認めその教えを受けいれる。もし神の使者とその教えを拒むならばその拒否は彼が真理と正義を見出す能力がないことを表わしている。そしてこの拒否のために彼は試練に失敗したのである。このような人は決して神と神の法と死後の生命に関する真理を見出すことはできないであろう。

2、未知の信仰
 もし知らないことがあると、知っている人に尋ね、その人の言葉を信じ頼ることは、日常よく経験することである。もし病気にかかり自分で治療できないときは医者の診断を受け、問題なく医者の指示を愛けいれそれに従う。何故だろうか。それは、医者が当然医学的な助言を与える立場にあり、多数の患者を扱い治療した経騒があるからである。だからあなたがたは医者の忠告をよく守り、医者がすすめることを行い禁ずることを避ける。同様に、法律の問題に於ても法律の専問家の言を信用し、それに従って行動する。教育の場合も、教師や先生を信じその教えを真実として受け入れる。ある所へ行きたいと思っているのにたまたま道を知らない時は、その道を知っている人に尋ね、教えてくれた道を行く。要するにあなたがたの知らなかったり知ることができない物事についてあなたがたが日常生活のあらゆる面で取る正しい方法はそれを知っている人に近づき助言を仰ぎそれに従って動くことである。その物事や問題に認識不十分な場合はそれを知っている人を苦心して探し、その言をだまって受け入れる。あなたがたはその場合、これと思う人を選ぶのにあらゆる努力をする。しかしふさわしい人を選んだならぱ、問題なくその人の忠告を受け入れるだろう。このような信じかたは「未知の信仰」と呼ばれる。あなたがたの知らない物事を知っている人に頼るからである。このように以前に知らなかったことを信じたり信仰したりすることは「未知の信仰」(イマーン・ビル・カイブ)と呼ばれろ。
 それ故、イマーン・ピル・ガイプとは知らなかった物事についての知識を、それを知っている人から得るということである。あなたがたは神と神の本性を知らないとする。あなたがたは、神の天使たちが神の命に従って全宇宙の機構を統ベ、四方八方あなたがたをとりかこんているということに気づかない。あなたがたは創造者の嘉し給うことを求めるにはどういう人生の道を追らねぱならないか正しく知らない。来世の生命についてもまた全く盲目である。これらすべての事柄に関する知識は、至高者と直接に接触を持ち正しい知識を授かっている預言者によってあなたがたに与えられるのである。預言者とはその誠実、清廉、真実、神聖さらに絶体的に純潔な生活がその知識を持っていると公言している真実さを明白に証明する人である、そして何よりも先ず、預言者の叡知と警告のカそのものが聞く者をして、彼等が真理を説きその説教は信頼しかつ従うに値すると思わせる。このような改宗がイマーン・ビル・ガイブである。このような真理を判断し真理を認める態度(イマーン・ピル・ガイブ)は神に順従するためにまた神の嘉し給うことと一致して行動するために非常に大切である。何故ならばあなたがたは真の知識を得るために神の使者以外に仲介者を持たないし、また正確でただし知識がなければ、あなた方はイスラームの道を正しく進むことは出来ないからである。

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