3、イスラームの祝福
 さてクフルの罪悪とその不利益なことはこの辺でとどめ、次にイスラームの祝福に目を転じよう。あなた方は、あなた方の周囲の世界にもまれたあなた方自身の小さな王国の中にも神の神秘なカの啓示を数限りなく見る。永恒不変の法則に従って比類なき秩序を以って滞みなく動く、この素晴らしい宇宙自身がその設計者、創造者、支配者は全能であり、無限な万物を包括する。そして計り知れない能力と知識と資源を持った万能な「存在者」であり、またその知恵は最も完全でその「存在者」には宇宙に生きとし生けるもので従わないものは一つもないという事実を証している。この宇宙に在るありとあらゆるものと同様に神に服従するのが人間たるものの本性である。実際のところ人間は毎日毎日無意識的に神の法に従っていくのである。何故ならぱ神の法を逸脱するやいなや、人間は死と破滅に曝されるからである。これが我々が日常遵守している自然の法則である。
 しかしながら神は人間に知識を得る能力と思考熟慮するセンス、善と悪を識別する機能を授けようと思し召され人間にかなりの意志と行動の自由を与え給うたのである。この自由の中に人間の真の試練が存する。人間の知識、知恵、識別力、意志と行動の自由等はすべて試めされ実験されているのである。この試練と実験に於いては、人間はある一定の道を取ることを強制されていない。強制されれば試練の目的そのものが失なわれる。もし試練の際質問用紙にきまった一定の答を書くように強いられるならぱ答は受験者の自由意志に基づく真の答案ではなくその試験は無益無効てあることは明らかである。本当の価値は自分自身の知識と理解に応じて質問に自由に答えることができる場合にのみ正当に評価されうる。答が正しければ成功するてあろうし、将来の発展への道を開くであろう。答が連っていれば失敗するであろうしその失敢は将来の発展への障害となるであろう。同じことが人間がいかに世に処するかということについてもいえる。神は人間が好きなように人生の能度を選びまたイスラームになるかクフルになるか、自分自身で自由に決め得るように人間に意志と行動の自由を与え給うたのである。
 ところで一方には自分の本性をも宇宙の本質をも理解しない人がいる。その人は彼の真の主を認めることもてきず神の賦与され給うているものをも知ることはできないのである。このような人は、知識、知性、義務感の試練に落第したのである。彼は一定標準にまで達し得ず上に述ぺた運命より好ましい運命は望みえないのである。また他方にはこの試練を見事にパスする人がいる。知識と知性を正しく用いて彼は創造主を認識しかつ信仰し、強制されていないのにも拘わらず創造主に対する従順の道を選ぶ。彼は間違わず、悪と善とを識別し邪道に陥る性向を持ちながら、正義に従うことを選ぶ。彼は自分の本性を理解し、自然の法則と実在を実現しいかなる道をも選ぴうる能力と自由を持ちながら神、創造者への従順と忠実の道を選ぶのである。彼は自分の知性とその他あらゆる機能を正しく使うから試練に成巧する。彼は、眼は実在を見るために、耳は真理を聴くために、精神は正しい意見を作るために用い、心と魂はすぺて彼がそのように選んだ正しい道を辿るように働かせる。彼は真理を選び、実在を見、自発的に喜こんで彼の主人と支配者に従う。彼は思意深く、真実且つ義務感の強い人となる。何故なら、彼は闇の上に立つ光を選んだのであり実在の光明を見てからはその光の呼ぴ声に勇んで熱烈に応えたからである。かくして彼はその行為によって、真理の深求者だけではなく、また真理を知れる者、真理を崇拝する者であることを証明するのである。彼は正道に立っているのであり、かかる人が現世にも於いても成功することは明らかである。
 このような人は知識と行動のあらゆる分野に於いて常に正しい道を運ぶであろう。神と神の賦与し給うあらゆる恵みを知る者ほ、実在の出発点と共に窮極の目的をも知っている。彼は正しい道に立ち人生航路の方向と終着点を確信しているから決して迷路に陥ることはない。哲学に於いて彼は宇宙の秘密を考察し自然の神秘を探ろうとはするが、不信心な哲学者とちがい、彼は疑惑と懐疑の迷路に陥ることはないであろう。彼の道は神の啓示によつて照らされいるから彼の足はすぺて正しい方向に向くのである。科学に於いて彼は自然の法則を知り地球の隠された宝物を見い出し今だに知らざる精神と物質のあらゆるカを管埋しようと努めるがそれはすぺて人間性の向上の為である。彼は知識と能力に至るあらゆる道を開発し、人類の幸福のために地上と天上にあるあらゆるものを制御しようと全力を尽す。その探究の全段階を通して、彼は神を意識しているので、科学と科学的方法を邪悪且つ破壊的に使うことの非を犯さないのである。彼は自分を万物の支配者と宣言したり神の領域と至高のカを我物顔にしたり世界を顛覆しようという野心を抱いたり不正不義の手段により人類を屈服させ全世界を制御しようと企てたりして自分自身を欺くことを決してしないであろう。このような神に対する反抗と戦の態度をムスリムの学者は取る事はありえない。ただカーフィルの科学者だけがこのような幻影の餌食となりこの妄想のとりこなって人類を全面破壊と絶滅の危機に曝らすのである。ムスリムの科学者はこれに反して全く違った態度で振舞うであろう。
 彼の科学の世界への洞察が深ければ深いほどますます神への信仰は強くなるであろう。喜こんで神の前に頭を垂れるであろう。彼の主人が偉大なカと知識を恵み給もうたように自分もまた己自身の為と人類の幸福の為に努力せねぱならないと思うようになるであろう。傲慢の代りに謙遜が来るであろう。力に酔い痴れる代りに人類に奉仕しようという実観が強く湧くであろう。彼の自由は放縦ではなくなる。彼は道徳の律法と神の黙示に指導されるであろう。かくして科学は彼に掌握されて破壊の道具となる代りに人類の福祉と道徳の再生の発動力となる。そしてこれが我等の主が人類に授け給もうた贈物と祝福に対して人類がその主に感謝をあらわす仕方なのである。

※注 現代人に直面する事態についても同じことがいえる。ジョード博士はかく言う。「科学は我々にも神にも等しいカを与えた。しかし我々はそれを小児のように使う。」また著名な哲学者バートランド・フッセルはかく語る。『…大巾に言って我々は手段に関しては高い技術を持つが結果に関しては愚劣極まる処置を執る。目的達成のための技術の進歩が結局悪い結果に終る場合が多い。』

 同様に歴史学、経済学、政治学、法津学その他、芸術及科学のあらゆる分野にわたってムスリムは研究と究明の面に於いてカーフィルに決しておくれを取らないが彼等の物の見方に従って運用は非常に異るであろう。ムスリムは正しい観点から学問のあらゆる分野を研究し正しい目的のために努力し正しい結論に達する。歴史学に於いては人類の過去の経験から正しい教訓を扱み取り文明の栄枯盛哀の正しい結末を究明する。ムスリムは過去に於いて善であり正義てあったあらゆるものを活かし諸国家を衰亡と没落に導いた一切のものを賢明に回避しようと努めるのである。政治学に於てはムリスムの唯一の目的は、人間すべて兄弟てあって個々の人格を尊重しいかなる搾取も奴隷制も許されない、又個人の権利が確く擁護され国家の権力は神からの神聖な委託と見なされ万人の共通の福祉の為に行使されるような平和と正義と友愛と慈善が支配する国家の樹立に邁進することである。法学の分野に於いてはムスリムの努力することは法律を真の正義の具現化とし、万人の権利--特に弱き者--の真の擁護者とすることてある。あらゆる人が各々正当な分け前を持ち、不正と圧迫が誰にも加わらないように配慮するのである。更には法律を尊重し、他の人々にも尊重させて法律が正しく立派に公平に行使されるように配慮するのてある。
 ムスリムの道徳生活は常に敬神と敬虔と正義と真実の念に溢れている。神のみが万物の主で彼自身も他の人々も持っているすべてのものは神から与えられ彼が行使するカは神からの委託にすぎず、彼に授け給うた自由は無分別に使うべきではなくて神の意志に従って使うのが我が身にも幸いであるという信念を以ってムスリムはこの世に生ぎるのである。ムスリムは常にいつの日が神の許に帰り彼の全生涯の決算報告をせねばならないことを念頭において生きている。この責任感を常にしっかりと心中に持っているからムスリムは決して放縦、無責任な行動は取れないのである。
 このような精神の態度で生きる人間の高い道徳性を思って見るならば彼の人生は純潔と敬虔と愛と利他主義そのものであることがわかる。彼こそは人類への祝福である。彼の思考は、邪悪な考え方や歪曲した野心でけがれることがない。彼は悪事を見ることも聞くことも為すことも慎しむ。口舌を慎しみ、決して虚偽を語らない。公明正当な手段で生活の糧を得、搾取や非道虚偽によって不正に得た食物よりむしろ飢餓を選ぶ、その理由の如何を問わず人間の生命と名誉を弾圧し蹂躙することには決して興しない。そのためにどのような高価な犠牲を払うとも彼は決して悪には屈しない。彼は善良と高責の具現者であり、その生命を犠牲にしても正義と真実を高く掲揚するであろう。彼はあらゆる種類の不正不義を憎み、逆境の嵐もものかわ強く真理を擁護する。このような人は一つの権力である。彼は必ずや成功するであろう。何物も決して彼を妨害し得ず又彼の行手をさえぎるこどはてきないのである。
 彼は最も名誉ある最も尊敬すべき人である。この点では何人も匹敵することはできない。宇宙の支配者たる万能の神以外の何物かに恩恵を求めて頭を垂れたり又それに手を伸ばすことを絶対にしない人に如何なる恥辱が訪れることがあろうか。彼は最も権威があり最大の効果を収める人である。何人も彼以上に強くなることはできない−−何故ならば、神の他何物をも恐れず神の他何物からも祝福を求めないからである。いかなる圧力をかければ彼を正道から逸脱させることができるだろうか。如何ほど巨大な富を以ってせば、彼の迎合を買うことはできるだろうか。いかなる権力を以ってせば彼の良心を変えることができるであろうか。どんな圧力をかけても彼の信仰と行動を弾圧することはできないであろう。
 彼は最も富めるものである。この世の何人も彼以上に富みかつ独立していることはできない−−何故なら彼は簡潔ながら満足と安定の生活をしているからである。彼は好色家でもなければ道楽者でもないし貧欲でもない。彼は公明に正直に稼いだもので満足し、たとえ不正の手段で得られた富を前に差し出されたとしても、それを受けないことは言うまでもなく、見向きすらしないだろう。彼は心の平和と安定を保っているのである−−これ以上の大きな富がありえようか。
 彼は最も尊敬され愛され親しまれる人である。何人も彼以上に愛されることはない−−何故ならば彼は慈愛と恩恵の生活を送るからである。彼はすべての人に正義を以って接し義務を正直に果し他人の幸福のために誠実に働く。人々の心は自然と彼に惹きつけられ、彼を好き、愛し、尊敬するようになる。
 彼は最も信頼される立派な人である。何人も彼以上に信頼されることはない−−何故なら彼は信頼を裏切らずまた正義をふみはずすことはないからである。彼はその言に忠実で、その行いは一直線で真直ぐであるからである。彼は自分の関係するあらゆる出来事に明瞭且つ公正である。何故ならば彼は神が如何なる時にも如何なるところに於いてもすべてを見通しておられることを確信しているからである。このような人の信用と善意が如何に大きいかは筆舌に尽しがたい。彼を信頼しない人はいるだろうか…。ムスリム(イスラム信奉者)の人生と品格は大体以上のようなものである。
 もしあなたがムスリムの本当の特性を理解するならば、ムスリムは屈辱と卑下と征服の下に生きることはできないということを発見するであろう。ムスリムは究極に於いては必ず勝つであろうし、地上のいかなるカも彼を圧迫したり征服したりすることはできないのである。何故ならば、イスラームはいかなる魅力や幻影を以ってしても曇らすことができない品性を彼に植えつけるからである。かくてムスリムはこの世で尊重すべきまた光栄ある人生を終えた後、創造主の許に帰るのである。
  創造主は最も豊かな祝福を彼に施し給うであろう--何故ならば彼は義務を有効に果したからである。彼の使命を立派に遂行し試練を見事に克服したからである。彼は己れの人生を現世と来世に亘り成功を収め、永遠に平和歓喜と幸福の中に生きるであろう。
 これが人間の自然の宗教即ちいかなる個人、民族、時代及び場所に関連性のない宗教イスラーム教である。イスラーム教は自然の道であリ、人類の真の宗教である。あらゆる時代、あらゆる国家、またあらゆる民族の中で神を知リ真理を愛する人々はイスラームを信奉し、この宗教の戒律の下に生きてきた。彼等が「イスラーム」と呼ばれようがその他の名で呼ばれようがそんなことは関係なく、彼等はすべてムスリムである。呼ぴ名はどのようなものであれ、それはイスラームを意味し、イスラーム以外の何ものでもない。 

 

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