2、クフルの本質
 以上に述べたような人とは反対に生来のムスリムでありながらまた死ぬまて無意識的にムスリムでありながら理性、知性、直覚の機能を彼の真の主、即ち創造主を認めるために働かせず選択の自由を誤用して神を否定する人がいる。このような人は不信仰者‐-イスラームでは「カーフィル」‐-と呼ぶ。「クフル」は文字道りには「覆う」とか「隠蔽する」という意味である。神を否定する人は不信仰により彼の本質の中に潜在し魂の中に秘されているものを隠蔽するのであるから、--何故ならぱ、人間には本能的に「イスラーム」が浸透しているのであるから−‐カーフイル(隠す人)と呼ばれる。人間の全肉体、あらゆる筋肉や内臓は、その本能に従って働く。ありとあらゆる存在構成要素は活動しているものもそうでないものも‐‐イスラームに従って働きおのおのに割当られた義務を果しているのである。しかし視覚が曇り知性が混惑しているならばその証拠を見ることはできない。自分自身の本質さえも自分の眼から隠蔽せられ、本質を全く忘れて考え且つ行動する。そうなると真理にはおよそ疎遠になり暗索するようになる。これがクフルの性質である。
 クフルは純枠かつ単純な無知というよりは、無知の一型式てある。神即ち創造・宇宙の主に就て無知である以上に大きな無知があるだろうか!、我々は自然の広大なパノラマ、休みなく動いている壮麗なメカニズム、創造のあらゆる局面に現われている素晴しい配慮を見る‐‐我々はこの厖大な機構は見るがそれを誰が作り誰が支配しているのか知らないのてある!人は自分自身の身体この清巧に働く素晴しい器官には気を配り、目的を遂行するために働かせる。しかしながらこの身体を生んだ「原動力」、この精巧な機械を設計し誕生させた「製作者」、炭素、カルシウム、ナトリウムその他の生命のない物質から唯一無類な生き物を作られた「創造者」のことを理解することは出来ないのである。人は宇宙の素晴しい計画は見る‐-しかしその背後にいる「設計者」のことは考えない。宇宙の働きの偉大な美と調和を見る--しかし万物の創造者を見ない。自然の素晴しい景観は見る‐‐しかしその「設計者」を知らない。我々が往む世界に於いて我々は科学と知識、数学と技術、計画と目的が結合せる完全体、眩いいばかりの一大壮観を眼にするが、この無限で広大無辺の宇宙を誰が存在せしめたのかには我々は全く盲目である。この重大な事実を知らずして人間はとうして知識の真の姿に近づけようか。このような人にどうして真理と知恵の裏が開かれようか。出発点に誤りがある人は、どうして正しい目的地に到達することができようか。こういう人は真理を把握し得られないであろう。「正しい道」は彼に隠蔽され、どんなに科学や学問に専心勉励してみても、真理と知恵の栄光は決して彼に輝やかないであろう。彼は渦に巻かれ、無知の暗闇の中に彷徨して模索するのである。
 ただそれのみではない。クフルはまた悪徳、否、極悪非道な専横である。「専横」とは何か、それは権力と威力を残虐かつ不正に行使することである。もし物事を不正に行使させたり、その持つ真の本性、意志、先天的性向に反して強制させたりするならばそれは徹頭徹尾暴虐である。我々は宇宙のすべてのものが、神、創造主に従っているということを知った。神の意志、神の法に従順しそれに従って生きるこ‐‐もっと明瞭にいえぱ、イスラームであることは‐‐天地万物の真性に、はじめから具わっている定めである。神は人間に物事を処理する能力を授け給もうが、この能カは神の意志を成就するために使うべきてあって、その他の目的に断じて使うぺきではない。しかし神に従順でなくクフルに堕する人間は、非常な不正非道を犯す人である。何故なら、彼は神から授けられた肉体と精神のもろもろの能力を生来の真性に反して用い、いやいやながら不従順のドラマの道具になっていくからである。彼は唯一神以外のもろもろの神々に頭を垂れ、心の奥底からの本能的呼び声を全く無視して、他の「権威」に愛着、崇拝、恐怖の念を抱く。彼は、自分に与えられた能力と彼の思どうりになるあらゆる物事を動員して、神の明らかな意志に反抗し、かくして「暴虐の世代」を作るのである。この世のあらゆるものを奪取し誤用し事もあろうにそれを自然と正義に反する方向に強用するほど此の世に大きな不正非道、暴虐、残忍なものがまたとあろうか。
 クフルは単なる暴虐だけではない。少くともそれは全く反逆、忘恩、裏切の行為である。いったい人間の実在どは何であろうか。人間のカと権威とは何であろうか。人間は己れ自身の精神、心、魂やその他の身体諸器官の創造者だろうか。それとも、それらは神によって創造されたのだろうか。一体誰があらゆるカとエネルギーを人間に役立たせるようにしたのだろうか。--人間か神か。もしあらゆる物が神のみによって創造されたのであれば、一体、万物は誰に属するだろうか。誰が万物の真の所有者であろうか。誰が万物の正しい支配者てあろうか。明らかにそれは神であり、神以外のなにものでもない。神が創造者、主人、支配者であるならば神の掟を犯して神から与えられたものを使う人間‐‐神に背を向けた邪悪の考えをおこし、神への不信の念を抱き、もろもろの能力を支配者の意志に反して使う人‐−ほど罪深い反逆者はないだろう。もし召使いがその主人を裏切るならぱ、人はその召使いを不忠実だと非難する。もし役人が国家に不忠義ならぱ、人は彼を売国奴と呼ぶ。もし恩人を欺く者があれば、人は彼を恩知らずといって槍玉に上けるだろう。しかしこれらの裏切、忘恩、反逆も、不信の徒がクフルによって犯すそれに比ぺたらものの数ではない。一体誰があらゆるカと権威の真の源泉であろうか。誰が人間に自然を支配するカを授けたのだろうか。誰が人間を高い権威とカを持つ地位にまで高めたのだろうか。人間が他人の為に持ち、かつ使う一切の物は神から贈られたものである。人間がこの世で負う最大の感謝は両親に対してである。しかし誰が子供の愛を両親の心に植えつけたのだろうか。誰が母親に子供を養育し成長させる意志とカを授けたのだろうか。誰が両親に子供の幸福の為には持てるすぺての物を惜しみなく与えようという気持にさせるのだろうか。少しでも沈思熟慮して見れば、人間の最も偉大な恩人は神であることがわかる。神は人間の真の王、支配者であるとともに人間の創造者、主人、養育者、支持者である。これが神の人間に対する立場であるから、人間がその真の主人、支配者を否定し従願しないクフルほど罪深い裏切、忘恩、反逆、背信はあるであろうか。クフルを犯すことにより人間ほ全能の神に損害をかけることができるとでも思うのか。笑止千万。無限の宇宙の一点に立つとるにたらぬ極徴粉のような人間が、最高級の望遠鏡の助けを借りてもその境界を見い出せないほど無限に遠大な領域を統べ給う宇宙の主にどんな損害を与えることがてきようか、神のカは地球、月、太陽、星などの数えきれないほど多くの天体が言いつけられた通りに小さなボールのようになってその周りを回転するほと偉大である。神の富は全宇宙の唯一の主であるほどに計りしれない。万物の為に恵みを垂れ給うは誰か、神の為に仕えないのは誰か。神に対する人間の対抗は神に何の損害をも与えることはできない。全く逆に神への不従順により目もあてられぬ破滅と没落の道を辿るのみである。
 このような神への反抗と神の実在を否定することの必然的結果は、人生窮極の理想に失敗することである。このような神への反逆は決して真の知識と洞察力をもたらさないであろう。何故なら創造主を明らかにできないような知識では真理を説き明かすことはできないからである。このような人の知性と理性は必ず迷路に陥いる。何故なら創造主を認識できないような理性は人生の道を照らすことはででないからである。このような人は人生のあらゆるできごとに失敗するであろう。道徳、市民生活と社会生活、生存競争、家庭生活等やがては彼の全生活がくつがえされる時が来るであろう。彼は地上に混乱と無秩序をまくであろう。彼は少しも良心の苛責にとがめられずに血を流さしめ他人の権利を侵略し他人に残酷に当り、そしてこの世に無秩序と破滅の種を蒔いて去って行く。彼の歪曲した考え方と野心、曇った洞察力と混乱した価値の尺度、更にその非道な行為は彼のみならず彼の周囲のすぺての人の人生を暗いものにする。このような人はこの世の人生の平静と均衡を破壊し世を損うものである。現世に於いて自分の本性、能力、才能に関して犯した罪の為に彼は未世に於て有罪の宣告を受けるであろう。身体のあらゆる器官-‐頭悩、目、鼻、手、足すらも−−は彼がそれらに加えた不正義と残虐非道に対して攻撃を加えるであろう。彼を形威しているあらゆる組織は神に向かって彼を非難するであろう。正義の源泉であらせ給う神は彼の罪にふさわしい最も大きな罰を下し給うであろう。これがクフルの不名誉な結末である。クフルは、現世に於いても来世に於いても、人を完全な破滅の袋小路に導くのである。

 

イスラムの理解へ戻る
聖クルアーンのページへ戻る
ホームページへ戻る