イスラームの生き方






イスラームの生き方

イスラミックセンター編著


一、道徳の意義

法律が社会の安全を護るルールであるのに対して、道徳は人間の在り方に関する正邪 の基準といえそうです。そこでは、行為の善悪を人間性の完成に照らして把えるわけ ですから、その基準が社会一般に承認されたものであっても、法律のような外面的な 強制力は持たず、あくまでも個人の内面に係わる問題なのでしょう。


とはいえ、個人が過去・現在・未来を通じて独自に存在することはあり得ないはずで すから、個人の内面とはいっても、そこには他人の存在が大きく係わってくるのです 。当然、他人の反応に照らして自らの在り方を確認していく作業がもと求められます 。

地球が広く、コミュニケーションの手段が限定されていた時代は、地域 社会での共通の価値観は得やすかったのでしょう。同じものを食べ、同じ言葉を使い 、同じ景色と眺め、同じように生きていたのですから、話さずとも判る前程や不文律 があり、共通の道徳観が存在しました。変革はあっても、いわばコップの中の嵐にす ぎず、全体の枠組を破壊するまでには至らなかったのです。


おそらく最初のころから、人間は環境の支配を夢みていたのでしょうが、潜在能力の 発現に応じて、その希望は叶えられていきました。あらゆる敵と闘い、非凡な能力を 駆使してこれを屈服せしめ、生存を確保し、大地に満ち溢れました。


しかしヒトの生存能力は、人口爆発につながり、豊かさとは反比例する様相を描き出 したのです。種の保存本能は薄れ、個の豊かさを追求しはじめ、富や宝を追って血眼 となって大地を賭けめぐりました。全体の明日を考えることは止め、今日の富を追い ました。それはいつからのことだったのでしょう。その兆が見えたときから、他人は 敵となったのです。個人は隣人を、集団は他の集団を、国家は他の国家を、敵とし、 競争相手として、限定された富を奪い合うようになりました。そして人間の思考は、 その方角に突っ走り、共食い闘争に奉仕してきたのです。地球は狭くなり、隔離され た地域社会は存在できなくなり、前程や不文律や道徳は砕き散りました。その代わり に、不信と不安が支配しています。一見平和や安穏があるように見えても、それは力 の均衡によって齎されたものです。あえていえば、恐怖のバランス、それが今日の世 界かも知れません。愛や共感を基盤とした社会ではなく、法律の強制力だけで必死に 秩序を保とうとしている現状です。不信や不安に揺れ動く人間存在を、単なる力関係 でおさえこもうというのですから、絶望的なあがきにすぎません。


このような不信と不安から人間を救うためには、人類共通の価値観を持たねばなりま せん。それは、現在偏重主義と決別し、人類の未来に思考を向けなければ、得られな いでしょう。それも、来年や再来年、十年や二十年後の未来ではなく、百年先、千年 先の人類まで想定したものであるべきでしょう。


言語や食生活、皮膚の色、民族や国家、宗教やイデオロギー、ともすれば違いばかり が強調される今日、人類共通の価値を求めることは、抽象概念としては可能であって も、実際感覚としては容易ではありません。それは、時間の速度に対しての情報の密 度が濃くなればなるほど困難になっていきます。現在という瞬間の重みが増すからで す。そして時間の長さと空間の広さは人間の無意識の部分で合致していて、瞬間を考 えることと、個を考えることが連動するからです。


間違いが強調され、不信と不安が増幅される、現在偏重という牢獄から脱けて未来を 考えるとき、個は初めて種の共感を得られるものと思います。そのとき初めて、人間 存在の意義について考えられるのです。


単に、世界平和や思いやりを説いても、これは空念仏にすぎません。生命の尊貴を説 いても、なぜという疑問が残ります。なぜ人間が存在しなければならないのか、とい う質問です。これに答えられなければ、にんげんとしての価値観や道徳は存在し得ま せん。過去の道徳が、形式のみの、絵に書いたモチになってしまったのは、現代人の 論理に対して、納得のいく答えが出なかったからです。神を持ち出しても、その神が 宇宙のどこかに居る人格神ならば、納得できるわけもありません。その彼(または彼 女)を愛し求めるにせよ、畏怖して遠ざけるにせよ、自分とは時空間的に離れた場所 に置いてしまうからです。このような観念を抱くから、神の否定や、盲信に陥るので す。「信仰とは、信じ難きを信じることなり」というのは、西欧思想のため息でしょ う。


イスラームの神は、そのような架空の存在ではありません。それは、宇宙を成立させ た根本の真実であり、秩序を支える根本の力、あるいは意志なのです。物質の究極の 「単一不可分」の要素とされたアトムの延長にある物質のみならず、光やエネルギー 、重力や時間や空間、人間の思考までに共通する「単一不可分」の根源(アラビア語 のアハド=神の別名)なのです。この神を否定することは、自らの存在を否定するこ とと同様であり、この神に返逆することは、自らの実在に返逆することです。この神 を畏怖することは、神の怒りを恐れることで、自らの魂を失うことを怖れることにつ ながります。単一不可分であり、宇宙全体に漲っている根本の意志、これは人間が愛 し、崇め求めるべき唯一の対象であり、敵のように恐れたりする対象ではありません 。神を怖れる、ということは、神を大切にするということであり、自らの存在の基盤 を損ねたり失ったりすることを懼れるという意味でしかありません。神に対する罪は 、こういう意味で、自らの実在を損ねるものなのです。


この神を意識し、大切にし、崇拝することによって、人間の過去・現在・未来は浄化 され、実在は確立され、人間完成への道が開けるのです。ここから現出した人間の道 徳こそ、現代を救い、世界平和をもたらすものでしょう。


この根源からの言葉を伝えたのが預言者達であり、その最後がムハンマドです。彼は 神の言葉クルアーンを伝え、それに基いた生き方を描き出しました。そこでイスラー ムは、道徳や価値判断の基準を聖クルアーンと預言者のスンナ(言行)に求めるもの です。


この書の第一章において、私は「神」という言葉を使いましたが、アラビア語の「ア ッラー」は唯一の神、あるいは人間が崇拝すべき唯一の対象という意味です。神とい う日本語、あるいはゴッドという英語には、このイスラームの説く「根本意志」また は「根本真実」という概念には合致しない解釈がつきまとうようです。そこで第二章 以降は、アッラーに統一いたしたいと思います。





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