イスラーム入門シリーズ
聖預言者ムハンマド

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一、序論
 イスラームは、アラビア語で「アッラー」と呼ばれる唯一神に絶対的に服従することを、その根本教義としています。アッラーは、万物を創造し、全宇宙と地上の森羅万象を超越した神なのです。そしてアッラーに類似し、アッラーと同等に比較できるものは、何一つとして存在しないのです。アッラーは、我々人間を愛し、我々を導き恵むものとしかれが選んだ預言者を通じ、戒律と規則を人間に与えたのです。この地上に人類が現われて以来、アッラーは多くの人間の中から、ノア、イブラーヒーム、モーゼ、イエスなど多くの預言者を選ばれ、かれらにかれのメッセージを送られてきましたが、これら最後の預言者としてムハンマドを選ばれたのです。イスラームは、決して新しく生まれた宗教ではありません。イスラームの教えの中には、神がすべての正しい宗教に下された基本的なお告げが含まれており、ムハンマド以前のすべての預言者達が、人間の導きとして、まったく同じ教えを伝えてきたのです。最後の預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)は、自分の言動とアッラーから啓示された啓典(聖クルアーン)を通して、イスラームの意義、すなわちアッラーへの帰依について布教したのです。我々が預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)を最後の預言者であると信ずる者であることは、きわめて幸運なことです。なぜなら、ムハンマドこそ人間にアッラーへの帰依と平安のお告げをもたらしてくれた預言者だからです。
二、預言者ムハンマドの誕生
 預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)はアラビア半島のメッカに生まれましたが、それはイスラーム暦紀元前五十四年三月十二日であり、西暦にして紀元五七〇年八月二〇日月曜日の早朝のことでした。聖クルアーンには、これについて次のように述べられています。「そして言え、真実が到来し、虚偽は、消え去った。まことに虚偽こそは、とこしえに消え去るものぞ。」この言葉はムハンマド自身の生涯についてもあてはまり、ムハンマド誕生の日こそ、全人類の祝福と歓喜の日として記念できるのです。預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)の生涯はきわめて重要な意義をもっていますが、それは、彼の言葉、彼の性格が、みならうべき最高のものだからです。同時にまたムハンマドの生涯は、たゆまない努力と偉大な成功の歴史でもありました。彼の生涯は、歴史の中で正確に記録されていますから、その努力と成功について疑いをさしはさむ余地はありません。
 これから各章にわたって、預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)の生涯を年代を追ってつづってみることにします。
三、ムハンマドの幼年期
 ムハンマドの父アブドゥッラーは彼の生まれる六ケ月前に死亡し、彼の母親アミーナも彼がやっと六才になった時にこの世を去っています。こうしてムハンマドは、幼少にして既に両親の愛情を失ったわけですが、しかし一方では、全生涯を通じアッラーの愛を受け続けてきました。彼は、メッカのクライシュ族の一支族で由緒あるバヌー・ハーシム家の出身でしたが、母親の死後祖父アブドゥル・ムッタリブにまず養育されました。しかし、この祖父も母の死後わずか二年でこの世を去ったのです。その後若いムハンマドは、貧しい叔父のアブー・ターリブにひきとられました。かくして、この広いアラビアの砂漠の中で、父親の保護、母の愛情、そして兄弟姉妹もない一人の孤児がとり残されることになったのです。しかし、アッラーはすべての人類の中からかれムハンマドを選び、悪と破滅から人間を守るために、アッラーの使徒とされたのです。
四、ムハンマドの青年期
 ムハンマドは、隊商で各地に商品を運んでいた叔父のアブー・ターリブを手伝って、商人としてその青年期を過ごしました。ムハンマドは、これらの隊商についてシリアに二度商売の旅に出かけました。彼は常に何事によらず正直な仕事をするように心がけ、時としては羊の放牧の仕事さえしたのです。たとえどんな卑しい仕事についても彼は決してそれを恥じることはありませんでした。自分の衣服や靴も自分で繕い、このようにしてムハンマドは正しい労働の尊さを人々に身をもって示したのです。
五、預言者の布教前の社会状況
 ムハンマドは、その幼年期からすでにアラビアの腐敗した社会に強い苛立ちをおぼえていました。 当時の人々はいつも飲酒と賭博にその時間を費していました。当時アラビア社会は千々に分裂しており、多くの家系や部族が自分達の利害のみを考え、。わずかな理由だけで闘争をくり返していました。ムハンマドは、人々はすべて一つの家族のようにお互いに兄弟同志として交際すべきであると考えていたので、当時のこのような部族間の抗争については非常に心を痛めていました。西暦七世紀頃の世界の常として、アラビア人達も婦人を尊敬せず、また自分達の娘を愛することを知りませんでした。。女の子の誕生はあまり喜ばれなかったので、時としては生まれると同時に生き埋めにされ間引きされることもありました。預言者アブラハムが最初に建立したアッラーへの礼拝の聖地であるカァバ神殿にさえ、三六〇体もの偶像が入り込んでいたのです。これは例えてみれば、一年のうち一日につき一体の割り合いで偶像があったことになり、聖地がこのように乱用されているのを見てムハンマドは、非常に心を痛めていました。当時は、人間の歴史を通して最も暗黒の時代であり、キリスト教やユダヤ教でさえもその影響力を失い、人々の心はまったくすさみきっていました。ムハンマドはこのような状況をひどく悲しみ、何とかこれを改善したいものだと願っていました。
六、預言者の人格
 世界がアッラーの慈愛と導きを再び必要とし、最良の人ムハンマドが選ばれて、人間性を失った人々にアッラーの教えを伝えることになりました。荒廃した社会の中で、清廉潔白にして慈悲深く、寛容にして正道を歩み、唯一神アッラーを崇めていたただ一人の男ムハンマド。アッラーは彼を自らの使徒として選んだのです。ムハンマドは、いつも行っていたメッカ近くの丘にあるヒーラの洞穴の中で、アッラーについて瞑想にふけっていました。どんな美しい行為でもほめたたえられることのないすさみきった当時の社会の中でさえ、ムハンマドは非常に高い道徳心の持ち主であり、まわりの人たち皆は彼を心から尊敬し、彼のことを「アル・アミーン」、即ち「信頼できる人」とか「正直者」とか呼んでいました。
七、ムハンマドの結婚
 商品運搬のための隊商の責任者としてムハンマドを雇っていた多くの商人の中に、ハディージャという名の女性がいました。ハディージャは、二度夫を失い息子二人と娘一人がありましたが、その当時は夫から相続した事業を経営してうまく成功していました。彼女は、ムハンマドにくらべてはるかに金持ちであった上に、年は四十に達しており、一方ムハンマドは。二十五才の若さでした。ムハンマドは貧しい上に無学だったので、ハディージャのような金持ちで名門の女性の夫として選ばれるなどとはとても考えられないことだったのですが、ハディージャは、ムハンマドと共に事業をやっている間に、彼が正直で親切ですべての面で責任感のあるまれにみるすぐれた人物であることを見抜いたのです。ハディージャは、ムハンマドの金銭ではあがない得ない偉大な素質を認めて、自ら身を低くしてムハンマドに結婚してくれるよう申し込みました。
 あらゆるものの将来についてすべてを知りたもうアッラーは、その時すでに将来ムハンマドの身にふりかかる多くの困難についても、またハディージャが最初にイスラームに入信し、これから先の苦しい時代にムハンマドを勇気づけ、その力になることもご存じだったのです。
 ムハンマドとハディージャは、それから二十五年間ハディージャがこの世を去るまで円満で幸福な結婚生活を送りました。
 二人の間にできた三人の男の子はすべて若くして死にましたが、四人の娘は皆長生きでした。ハディージャは、その生存中ずっとムハンマドの唯一の妻でした。彼女は、ムハンマドが五十才の時、すなわち彼がイスラームの布教を始めてから十年目にこの世を去ったのです。ハディージャは、自分の夫ムハンマドを彼の布教の最も苦しい時期に全力をあげて援助したのです。ムハンマドは、彼女の愛と献身を決して忘れることなく、自分の妻を「最も祝福されるべき婦人」と呼んで、彼女の死後も自分の生涯を通じてその愛情を心に留めていました。
ハディージャの死後何年かたってからムハンマドは数人の女性と結婚しましたが、そのうちアーイシャ以外はすべて未亡人か離婚した女性でした。これは、ムハンマドがこれらの女性を必要としていたというより彼女らこそムハンマドを必要としていたというべきでしょう。なぜならこれらの結婚は、他の部族との親睦をかためるための政略結婚であり、また死亡した教友達の未亡人の生活を支えるためのものであったからです。
 しかし、結婚の理由がたとえ政略的なものであれまた慈善的なものであれ、ムハンマドはすべての妻に愛情、尊敬、公正、親切をもって接しました。こうしてムハンマドは、女を動物に毛のはえたものくらいにしか扱っていなかった当時の人々に、貧富、老若、学識、離婚等の有無にかかわらず、すべての女性達を愛し尊敬することを身をもって教えたのです。
 ムハンマドは、人々に対し「天国は、母の足下にある」と告げました。
八、預言者としてのムハンマド
 ムハンマドがメッカ郊外のヒーラの洞穴に時々こもるようになってから、彼は、人間、宇宙、万物の創造者、そして人間と創造者との関係について、それらの根本的な問題を考えるようになりました。
 彼は、この世界の人間生活の各部分をつかさどる多くの神々が存在したり、人間の手で木や土から作られた偶像が、人間の諸活動に影響力があるなどとは決して信じませんでした。至高の神アッラーに対してのみ、ムハンマドは、自己の瞑想と信仰を捧げたのです。

 イスラーム暦の九月であるラマダーン月のある夜(アラビア語の「ライラドゥル・カドル」即ち「力と崇高の夜」)、当時四十才のムハンマドは、ヒーラの洞穴で瞑想していた時、「読め(アラビア語の〈イクラア〉」という力強い声を二度も耳にしました。ムハンマドは、驚いて平伏し、「私は読むことが、できないのです」とその声に答えました。しかし、ムハンマドが最後に「私は何を読んだら、よいのでしょうか」と震えながらたずねるまで、その「読め」という命令はくり返されました。
 すると、その質問には次の答えが返ってきたのです。
 「読め、創造したまえる方、なんじの主のみ名によって。一凝血から、人間をつくりたもうた。読め、なんじの主は、こよなく尊貴であられ、筆によって教えたもうた方、何も知らなかった人間に、教えたもう方であられる。」(クルアーン第九六章 第一−五節)
 これは、天使ガブリエルによって伝えられたクルアーン最初の啓示だったのです。
 ムハンマドは恐れおののいてすぐ家に帰り、妻のハディージャにその日の出来事を話しました。妻は、優しく彼をいたわりながら、「あなたは、これまで真直ぐに生きてきた正直な人ですから、神様はきっとあなたを守って下さるはずです。何も心配することはありません。」と慰めました。
 その後まもなく彼の妻ハディージャは、イスラームに帰依した最初の人になったのです。この最初の啓示があってから、アッラーは天使ガブリエルを通してムハンマドに啓示を与え、彼がアッラーの教えを広め、誤った人々に正道を伝えるためにアッラーの使徒として選ばれたことを告げられたのです。
 この時からムハンマドはイスラームの布教活動をはじめ、神の唯一性、アッラーへの帰依、偶像崇拝のおろかさ、及び現世での行為がアッラーの前で裁かれる最後の審判の日の到来を人々に説きはじめました。その当時の宗教はただ単に信心だけでしたが、イスラームは、行動を伴わない単なる信心は全く無意味で人間生活には無益なものであることを人々に強く説いたのです。
 クルアーンは、神の唯一性について次のように宣言しています。
 「言え、かれはアッラー、唯一者であられる。アッラーは、自存者であられ、かれは産みたまわず、また産まれたまわぬ、かれに比べ得る何ものもない。」(クルアーン第一−二章 第一−四節)

 アッラーからのお告げはきわめて簡単で基本的なものだったのですが、メッカの多くの偶像崇拝者たちには、きわめて危険な挑戦と脅威に感じられたのです。
 彼等はこれまでの自分達の生活様式変えたくはなく、また偶像をすててしまっては自分達の力も失われるものと心配して、ついにきわめて残酷で執拗なやり方でムハンマドを迫害しはじめたのです。しかし、アッラーに守られている人を実際に傷つけることは誰もできませんでした。
九、布教と妨害
 ムハンマドは、まず友人と家族からイスラームの布教を始めました。
 このような布教は三年間続き、この時期にイスラームに入信した者はわずか三十人にもなりませんでした。これらの入信者の中には、ムハンマドの妻ハディージャ、アリー(ムハンマドの従弟で被保護者)ザイド(ムハンマドに解放された元奴隷。一般に奴隷の身分では対等に協力してゆくことは不可能なので、ムハンマドは彼を解放してイスラームに入信させたのです)、アブー・バクル、ウスマーンおよびタルハ(三人ともムハンマドの親友で、彼の生涯の随行者)などがいます。
 三年後、アッラーは、イスラームの布教を公開して行なうようムハンマドに啓示されました。
 ムハンマドはメッカ近郊のサファーの丘に行き、そこで神の唯一性、即ち神はアッラーのみであることを人々の前で宣言し、アッラーの最後の審判について強い警告を与えたのです。ムハンマドは、人々にイスラームへの入信をすすめ、アッラーの教えに従って行動し、正しい道を歩むよう説きました。しかし、この事はメッカの人々をひどく激怒させることになりました。なぜならこのような教えは、メッカ市民のあらゆる権力と、今までカアバ神殿の偶像に投資してきたすべての権益を放棄することになるからです。
 彼等は、このような公開布教を中止しない限り、どんな目にあわされるかわからないと言ってムハンマドを脅迫しました。しかし、彼等の脅迫に対する返事として、ムハンマドは、数日後にカアバ神殿におもむき、「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドは、アッラーの預言者である。」と高らかに宣言しました。これはアラビア語で「ラー、イラーハ、イッラッラーフ、ムハンマドゥン、ラスールッラー」といいイスラームの教義の最も重要な部分として、今日まで伝えられているものです。
 非イスラーム信者たちはムハンマドヘの脅迫が失敗したことを知って驚き、今度は彼を買収しようと考え、金、名誉、女そして王位さえも彼に与えることを申し出たのですが、これに対するムハンマドの回答は次のように簡単なものでした。
 「たとえ彼等が、私の右手に太陽を、左手に月を載せてくれても、私はこの聖なる使命の遂行を決して思いとどまらないであろう」と。買収と脅迫が二つとも失敗したことを知ったメッカの人々は、ムハンマドとその弟子達に対して更に残酷な迫害を加えはじめました。メッカ市民のいうムハンマドとその弟子達の「罪」とは、ただアッラーを信じ、悪業を排し、善行、親切、正義および同胞愛を行為として実践しているということだけだったのです。

 迫害を受けたムスリムのうち、ビラール、アンマールおよびハッバブたちは、灼熱の太陽に焼かれた熱砂の砂漠へ投げ出され、胸の上に重い石をのせられるといった拷問を受けました。
 また他の信者達は、綱のはしにしばりつけられて街の中をひきまわされたりもしました。またひどくなぐられて死ぬことさえある程でした。
 しかし、非イスラーム信者のクライシュ族は、ムハンマドにはこのような拷問を直接加えることはしませんでした。それはムハンマドが名門バヌー・ハーシム家の出身であり、もしこのようなことをすれば終りのない内戦に激化するかもしれないと考えたからです。当時は、四十年間にわたる戦争がようやく終結し、彼等はすぐに次の戦いを始める余裕はなかったのです。しかし、ムハンマドにむかって汚物を投げつけたり通り道に針をまき散らしたりするのは、メッカ市民にとっては日常茶飯事のようになっていました。
 ある日ムハンマドが、メッカ郊外のターイフに行ってアッラーの教えを広めていた時に、ムハンマドは群衆から石でひどくなぐられて重傷をおい、ほとんど意識不明になったことさえありました。
 このようなひどい仕打ちに耐えながらも、ムハンマドは「アッラーよ、彼等に正しい道を示したまえ、彼等は何もわからないのですから」と言い続けました。
 こうしてムハンマドは、全人類への平和と愛の伝導者としての道を歩み続けたのです。五年もの間ムスリムの苦しみは日に日に増していきましたが、このような厳しい試練にもかかわらず多くの人々が嘉日のようにイスラームへ入信してきました。
 またクライシュ族の迫害を逃れて、およそ八十人のムスリムがアビシニヤ(今のエチオピア)に脱出したことがありましたが、クライシュ族の追手は執拗に彼等を追及しました。しかしムスリムたちは、どうにか無事にアビシニヤの地にのがれることができたのです。
 ところで、預言者ムハンマドが布教をはじめてからの六年間のうちに、非常に重要な人物がイスラームに入信してきます。これはハムザとウマルの二人ですが、ウマルのイスラームへの改宗は、イスラーム史上画期的な事件とされています。
 ウマルは、イスラーム入信と同時に当時偶像崇拝者たちの本拠とみなされていたカアバ神殿でアッラーへの礼拝を始めたのです。これはクライシュ族に対する重大な挑戦であり、これによってクライシュ族を激怒させ、彼等に一大警告を与えたわけです。その後、クライシュ族はイスラーム信者に対する迫害をさらに強めてきましたが、それにもかかわらず、多くの人々がイスラームに入信してきました。
十、排斥
 クライシュ族は、ムスリムに数多くの脅迫、買収、拷問を試みましたが、それらはことごとく失敗に終りました。そこで彼等は、ムハンマド自身に対して行動をおこそうと思い、バヌー・ハーシム一族にムハンマドを引き渡すように要求しました。しかし、バヌー・ハーシム家の人達はムハンマドをクライシュ族に引き渡すのを拒否しました。その結果、バヌー・ハーシム家の人々は、シュアーブ・アブー・ターリブの庄として知られている場所に逃亡しなければならなくなり、そこで三年間生活したのです。このようにクライシュ族は、バヌー・ハーシム家の人々を完全に村八分にして、彼等との交渉をボイコットしてしまったのです。そのためバヌー・ハーシム家の人々は、時としては食べるものはなく、しばしば木の根や葉までも食べるほど困窮してしまいました。預言者や弟子達も空腹を満たすのに靴の革まで食べたほどです。さらに彼等は、食べる物だけではなく着る物もなく、まったくみすぼらしい物を身にまとって空腹に耐えていたのです。
 このようなみじめな生活の直後、ムハンマドの強力な支援者であった叔父と最愛の妻ハディージャが相ついで世を去りました。ムハンマドがこの二人の強力な支援者に死なれて、ただひとりとり残されたのを見たクライシュ族は、ムハンマドへの迫害をさらに強めてきました。
十一、希望
 この時期、マディーナの市民は毎年メッカへやってきて預言者ムハンマドのイスラーム布教の事をよく耳にしていました。マディーナの多くの人がイスラームに入信し、ムハンマドにマディーナへ来てくれるよう頼みこんで、もし必要ならば自分達の命さえも提供することをムハンマドの前に誓ったのです。マディーナ市民のこの誓約はムハンマドにとって、この暗い時代にアッラーの慈悲による一筋の光明であると受けとれました。
十二、ミアラージュ(ムハンマドの昇天)
 この時期にムハンマドは、アッラーから天国と宇宙のすべてを一望のもとに見せられました。彼はそこですべての預言者に会い、彼等と礼拝を共にしました。彼はまた、アッラーがこれまで人間に対して与えた恩恵の中で最もすばらしい恩恵を授かりました。預言者は、いかなる罪人ももしその罪を悔い改め善行を行なうならば、必ず許されることをアッラーより教えられたのです。一日五回の礼拝とラマダーン月の断食は、この時ムハンマドがアッラーより啓示されました。ムハンマドの精神的なものはもちろん肉体的なこのすばらしい透視力は、「ミアラージュ」として知られていますが、このアラビア語は「最高の場所に到達した」とか「昇天の栄光」という意味です。このことは、アッラーの力を最も必要としている時でもあり、彼の布教活動の最悪の時にあたっていたため、預言者を大いに力づけることになりました。
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