イスラームの信仰

著者の序
慈悲遍く慈悲深きアッラーの御名において
 称えあれ、アッラー、万世の主。主を畏れる者には良き報いがあり、懲罰は不正を犯した者にのみ下される。ここに私は証言する。アッラーの他に神はなく、彼こそ比類なき明白な真の王であると。
 また私は証言する。ムハンマドはアッラーの僕、使徒、預言者の封印にして主を畏れる者の導き手であると。ムハンマドとその一統および教友たち(直弟子)、また、最後の審判の日に至るまで最善を尽くして彼らに付き従う者たちにアッラーの祝福のあらんことを。
 至高なるアッラーはその使徒ムハンマドに導きと真の教えを授け、彼を万世への慈悲、生きる者の範、人類すべてに対する(アッラーの)証しとして遣わされた。
 アッラーは、ムハンマドと彼に下されたクルアーンと英知を通じ、真の信条、正しい行為、優れた徳性、高貴な礼節など宗教的事柄と現世的事柄における人類の向上と風紀の改善に役立つすべてのことを示し給うた。
 アッラーの使徒は彼のウンマ(宗教共同体)を、夜もなお昼のように輝く真理の地平に導いて逝ったのであり、それを離れる者は、ただ滅びの道を行くのみ[i]。
 ムハンマドのウンマはこの道を歩む。それはアッラーとその使徒の呼びかけに応えた最良の人々、すなわち教友たち、彼らに倣った者たち(使徒の孫弟子たち)、そして最善を尽くして彼らに従い、使徒のシャリーア(聖法)を行い、信条、勤行、徳性、礼節のすべてにおいて使徒のスンナ(慣行)を堅く遵法した人々である。
 彼らは、至高なるアッラーの命が下る時まで、真理の上に留まり続け、勝利の宗派となり、離反する者には彼らを害することはできない[ii]。我々もまた、-アッラーにこそ称えあれ-、先人たちに従い、クルアーンとスンナに守られた彼らの生き方を範として正しく導かれているのである。アッラーの御恵みについて語り、すべての信徒の行うべきことを宣べ伝えつつ、我々はこれを宣言する。
 至高なるアッラーよ、現世でも来世でも確かな言葉で語れるよう我ら同胞ムスリムを支え、我らに慈悲を垂れ給え。まことにアッラーは惜しみなく給う御方。
 我々の信条、すなわちスンナ派の信条を纏めようと私が思い立ったのは、これに関しては主題の重要性にも拘わらず人々の間に意見の相違があったからである。
 スンナ派の信条とは、アッラーと、その天使たち、諸啓典、諸使徒、最後の審判、良運と悪運の定命の信仰をいう。
 至高なるアッラーよ、この小著をあなたの御顔だけを念じて纏めたものとし、あなたの御心に適い、人々を益するものとなし給え。

シャイフ・ムハンマド・アッ= サーリフ・アル = ウサイミーン
Ⅰ.我々の信条
 「我々の信条」とは、アッラーとその天使たち、諸啓典、使徒たち、最後の審判、良運と悪運の定命の信仰である。

1.アッラー
 至高なるアッラーの「主性」、すなわちアッラーが万象をつかさどる王、創造者にして主であることを、我々は信ずる。
 至高なるアッラーの「神性」、すなわちアッラーこそ真の神であり、他のいかなる崇拝対象も虚妄に過ぎないことを、我々は信ずる。
 我々はまた、アッラーの名称と属性、すなわちアッラーには美名と完全性を表す属性があることを信ずる。

 さらに、これら3点におけるアッラーの唯一性を、我々は信じる。至高なるアッラーの以下の御言葉にあるように、アッラーはその「主性」、「神性」、「名称と属性」のいずれにおいても無比にして比類のない御方なのである。

『(アッラーは)天と地とその間とその間にあるすべてのものの主におわします。それゆえ彼に仕え、彼の崇拝において耐え忍べ。それとも汝は彼と並び称されるものを知っているとでも言うのか。』 (クルアーン第19章〔マルヤム〕65節)

 また我々は、アッラーが以下のような御方であることを信ずる。

『アッラーは、彼の他には神はなく永遠に自存される御方。仮眠も熟睡も彼をとらえることはない。天地にあるすべてのものは彼に属する。彼の御許しなくして誰が彼の御許で執り成すことが出来ようか。彼は人々の前にあることも後にあることも知っておられる。彼の御許しがない限り、人は彼の知について何一つ窺い知ることはできない。彼の台座は天地を覆い、彼は天地を守って疲れを知られない。彼は至高にして至大におわします。』 (クルアーン第2章〔雌牛〕255節)

 また次のことを我々は信ずる。

『彼こそ、彼の他に神はなく、幽玄界のことも現象界のことも知る慈悲あまねく慈愛深いアッラーにおわします。彼こそ、彼の他に神はなく、王にして至聖者、平安と信仰の授与者、管理者、威力者、至強者、至尊者におわします。アッラーは多神教徒たちが彼に配するものを遥かに超越し給う。彼こそ創造し、形を与え給う御方アッラーにおわします。彼には美名が帰され、天地にあるものは彼を称える。彼は威力ある知悉者におわします。』 (クルアーン第59章〔集合〕23節)

 またアッラーに天地の大権が属することを我々は信ずる。

『天地の大権はアッラーに属する。彼は御望みの者に男子を授け、また御望みの者に女子を授け給う。あるいはまた男と女の組ともなされれば、御望みの者は不妊ともなされる。まことに彼は全知にして全能におわします。』 (クルアーン第42章〔相談〕49-50節)

 また次のことを我々は信ずる。

『彼に対比しうるものは何一つ存在しない。彼はすべてを見聞される御方におわします。天地のすべての鍵は彼に属する。彼は御望みの者に御恵みを拡げ、また狭め給う。まことに彼はすべてのことを知り給う。』 (クルアーン第42章〔相談〕11-12節)

 また次のことを我々は信ずる。

『天地に生きるものでアッラーの御恵みを受けていないものはない。彼はその居住所も居留地も知っておられる。すべては明白な書冊の中に書き記されているのである。』(クルアーン第11章〔フード〕6節)

 また次のことを我々は信ずる。

『幽玄界の鍵は彼の御許にあり、彼の他には誰もそれを知る者はいない。彼は陸と海にあるすべてのものを知っておられる。1枚の木の葉でさえ、彼の知らないうちに落ちることはなく、また暗闇の大地の一粒の穀粒といえども、生気あるものも枯れたものも明瞭な天の書の中に記されていないものはない。』 (クルアーン第6章〔家畜〕159節)

 また次のことを我々は信ずる。

『まことに最後の審判の時に関する知識はアッラーの御許にこそある。彼は雨を降らせ、また体内にあるものをも知っておられる。しかし人は誰も明日、自分が何を稼ぐかを知らず、誰も自分がどこで死ぬのかを知らない。まことにアッラーこそすべてに通暁される御方におわします。』 (クルアーン第31章〔ルクマーン〕34節)

 またアッラーがお望みのことを御望みのときに、御望みのままに語られることを我々は信ずる。

『アッラーはムーサーに語りかけ給うた。』 (クルアーン第4章〔婦人〕164節)

『ムーサーが我ら(アッラー)との約束の時に来て、主が彼に語りかけ給うた時…』 (クルアーン第7章〔高壁〕143節)

『我ら(アッラー)はシナイ山の右側から彼を呼び寄せ、親しく語りかけるために、近くに招き寄せた。』 (クルアーン第19章〔マルヤム〕52節)

 また次のことを我々は信ずる。

『たとえ海の水がすべて主の御言葉を書き記すためのインクであったとしても、主の御言葉が尽きる前に海水のほうが尽きてしまうであろう。』 (クルアーン第18章〔洞窟〕109節)

『たとえ地上の木がすべてペンであり、また海がインクで更に7つの海を添えたとしても、アッラーの御言葉を書き尽くすことはできない。まことにアッラーは威力者にして英知ある御方におわします。』 (クルアーン第31章 〔ルクマーン〕27節)

また、アッラーの御言葉こそ情報においては最も信頼がおけ、規範においては最も義しく、物語においては最も美しい言葉であると、我々は信ずる。

『汝の主の御言葉は真実と公正において完壁であった。』 (クルアーン第6章〔家畜〕115節)

『誰がアッラーより正しく語りえようか。』 (クルアーン第4章〔婦人〕87節)


また、聖クルアーンは文字通り至高なるアッラーの語られた御言葉であり、アッラーがそれを天使ジブリール(ガブリエル)に授け、ジブリールがそれを携えて預言者の心に下ったことを、我々は信ずる。

『言え。「聖霊(ジブリール)が真理をもって、汝の主の御許からそれ(クルアーン)をもたらした。」』 (クルアーン第16章〔蜜蜂〕102節)

『まことにこれ(クルアーン)は、万世の主からの啓示である。誠実な霊(ジブリール)がそれを携えて汝(ムハンマド)の心に下った。それは汝(ムハンマド)が明瞭なアラビア語で語る警告者となるためである。』 (クルアーン第26章〔詩人たち〕192-195節)

また、畏くも貴きアッラーが本質においても属性においても被造物の高みにあって隔絶しておられることを、我々は信ずる。至高者の次の御言葉にある通りである。

『彼はいと高く偉大なる御方。』 (クルアーン第2章〔雌牛〕255節、42章 〔相談〕4節)

『彼は僕どもの上にある至高者。彼こそは英明にして全知なる御方。』 (クルアーン第6章〔家畜〕18節)

 我々はまた、『彼は天地を6日で創造し、そののち玉座につき、万象を司り給う』(クルアーン第10章〔ユーヌス〕3節)ことを信じるが、「玉座につく」とは、アッラーがその威光と偉大さに相応しい比類なき卓越性をもって玉座を遥かに超越しておられるということであり、その具体的様態はアッラー御自身しか知り給わないことである。
 我々はまた、至高なるアッラーが被造物と共におられ、しかも玉座にあって人々の状況を知り、声を聞き、所業を見、すべてを管理しておられると信ずる。彼は貧者に恵みを垂れ、虐げられた者を助け、御望みの者に権能を授け、御望みの者から権能を取り上げ、御望みの者を高め、御望みの者を卑しめ給う。善きものは彼の御手にあり、彼にはすべてのことが可能である。そしてこのような業をなし給う御方は、被造物と共におられることが真実なら、被造物を遥かに超えた玉座の高みにおられることもまた真実なのである。

『彼に対比しうるものは何もない。彼はすべてを見聞される御方におわします。』 (クルアーン第42章〔相談〕11節)

 我々は、アッラーの受肉を説く一派[iii]やジャフム派[iv]のように、アッラーが地上にあって被造物と共におられるとは言わない。我々はそのようなことを言う者を不信仰者、あるいは道を踏み外した者とみなす。なぜなら彼らはアッラーに、相応しからざる不完全な性質を帰しているからである。
 我々は、使徒がアッラーについて告げられたこと、すなわち、「アッラーは毎夜、最下天まで降り来り、夜半の3分の1をそこに留まり、『我に祈る者に我は応えよう。我に祈願する者の願いを我は適えよう。我に赦しを乞う者を我は赦そう。』と仰せられる」[v]ことを信ずる。
 また褒むべきアッラーの次の御言葉により、アッラーが復活の日に人々を選り分けるために来臨し給うことを、我々は信ずる。

『いや決して。大地が粉々に砕かれ、汝の主が天使を従えて来臨し、地獄が姿を現すとき、そのとき人は思い起こすだろう。しかしそのときになって思い起こしたとして、それが何になろうか。』 (クルアーン第89章〔暁〕21-23節)

 また、至高なるアッラーが『意志されたことを為し給う御方』(クルアーン第85章〔星座〕16節)であることを、我々は信ずる。そして、アッラーの「意志」には2つの意味があると信ずる。
 一つは存在付与的意志であり、これによって意志が対象とする事物は生起するが、必ずしもそれはアッラーの御心に適うとは限らない。この場合の「意志」は、次の至高者の御言葉にあるように、「意図」という意味である。

『もしアッラーがお望みなら、彼らは互いに争わなかったであろう。しかしアッラーは意志されたことを遂行される。』 (クルアーン第2章〔雌牛〕253節)

『もしも(アッラーが)汝らを迷わせようと意志されたなら。彼こそは汝らの主におわします。』 (クルアーン第11章〔フード〕34節)

 もう一つは規範的意志であり、これによって意志が対象とする事物は必ずしも生起するとは限らないが、次の御言葉のように、アッラーはそれを常に嘉される。

『アッラーは彼らを赦そうと意志される。』 (クルアーン第4章〔婦人〕27節)

 存在付与的意志であれ規範的意志であれ、アッラーによって意志されたものは彼の英知に則っており、彼が「有れ」と定め給うたことも、人がアッラーを崇め行うようにシャリーア(聖法)として規定し給うことも、我々にその真意の一端を窺い知ることが出来ようと、あるいは理解不可能であろうと、すべて彼の英知によってなされ、英知に適っていることを我々は信ずる。

『アッラーこそ最善の裁決者ではないか。』 (クルアーン第95章〔無花果〕8節)

『信仰堅固な者にとって、アッラーより裁決に優れた者が他にあろうか。』 (クルアーン第5章〔食卓〕50節)

 また、至高なるアッラーは彼の友たちを愛し、彼らもまたアッラーを愛することを、我々は信ずる。

『言え。「汝がアッラーを愛するなら、私(ムハンマド)に従え。アッラーも汝を愛されよう。」 (クルアーン第3章〔イムラーン家〕31節)

『やがてアッラーは、彼が愛し、彼らもまたアッラーを愛するような民を輿されよう。』 (クルアーン第5章〔食卓〕54節)

『アッラーは耐え忍ぶ者らを愛される。』 (クルアーン第3章〔イムラーン家〕146節)

『そして公正に振る舞え。アッラーは公正な者たちを愛される。』 (クルアーン第49章〔部屋〕9節)

『最善を尽くせ。アッラーは最善を尽くす者たちを愛される。』 (クルアーン第2章〔雌牛〕195節)

 また、アッラーが、シャリーア(聖法)として定められた言動を嘉し、禁令を侵犯する言動を憎まれることを、我々は信ずる。

『たとえおまえたちが信じないとしてもアッラーはおまえたちを必要とはされない。アッラーは人間の不信仰を喜ばれず、おまえたちが感謝すれば満悦される。』 (クルアーン第39章〔集団〕7節)

『アッラーは彼らが出征することを嫌い、そこに留め置かれ、「家に残っている者と共に残っておれ。」と仰せられた。』 (クルアーン第9章〔悔悟〕46節)

 また、至高なるアッラーが、信仰し善行に勤しむ者らを愛でられることを、我々は信ずる。

『アッラーは彼らを愛でられ、彼らも彼に満ち足りる。これこそ主を畏れる者への報奨である。』 (クルアーン第98章〔明証〕8節)

 また、アッラーが彼の御怒りを蒙るに相応しい不信仰者などに対しては御怒りを向けられることを、我々は信ずる。

『アッラーについて悪い考えを持つ者にはアッラーが御怒りを向けられ、厄災が下ろう。』 (クルアーン第48章〔勝利〕6節)

『不信仰に胸を拡げた者にはアッラーの御怒りが下り、苛酷な懲罰がある。』〈クルアーン第16章〔蜜蜂〕106節〉

 また、至高なるアッラーには尊厳と栄光に満ちた御顔があることを、我々は信ずる。

『尊厳と栄光に満ちた汝の主の御顔は恒存する。』
(クルアーン第55章〔慈悲あまねく御方〕27節)

 また、至高なるアッラーには高貴で威力に満ちた御手があることを、我々は信ずる。

『いや、彼の御手は広く開かれている。彼は御心のままに惜しみなく与え給う。』 (クルアーン第5章〔食卓〕64節)

『彼らはアッラーを正しく崇拝しない。最後の審判の日、彼は大地のすべてを一握りにし、その右手に諸天を巻かれよう。彼に称えあれ。彼は彼らが配するものを遥かに高く超えておわします。』 (クルアーン第39章 〔集団〕67節)

 また、至高なるアッラーには字義通りに2つの目があることを我々は信ずる。なぜなら至高なるアッラーの御言葉に、『我らの目の前で、我らの啓示にしたがって方舟を作れ。』(クルアーン第11章〔フード〕37節)とあり、また預言者も、「光が彼の覆いであり、もし彼がその覆いを取られたら、アッラーの御顔の御威光はそれを見る被造物を焼き尽くすだろう。」[vi]と言われているからである。
 アッラーが真に2つの目を有し給うことでスンナ派は一致しており、「彼(ダッジャール)は隻眼であるが汝の主は隻眼ではない。」[vii]という、ダッジャール(アンチ・クリスト)についての預言者の言葉もそれを裏付けている。
 また、至高なるアッラーが『人の目は彼をとらえることは出来ないが、彼は人の見るものをすべて掌握される。彼は精妙にしてすべてをみそなわす御方である』(クルアーン第6章〔家畜〕103節)ことを我々は信ずる。

『その日に、主の尊顔を拝した者の顔は輝く。』 (クルアーン第75章〔復活〕22-23節)

 また、至高なるアッラーがその属性の完全性において比類がないことも、我々は信ずる。

『彼に対比されうるものは何もない。彼はすべてを見聞される御方におわします。』 (クルアーン第42章〔相談〕11節)

 また、アッラーがその生と持続の完全性により、『仮眠も熟睡も彼を捉えることはない。』(クルアーン第2章〔雌牛〕255節)こと、またその義の義の完全性により、いかなる者をも不正に扱われることはなく、監督と統括の完全性ゆえに、その僕たちの所業を見逃されることは決してないことを、我々は信ずる。
 また、その知と権能の完全さゆえ、地にあっても天にあってもアッラーに不可能なことはなく、『何かを御望みになるときには、彼はただ「有れ。」と仰せになり、するとそれは生ずるのである。』(クルアーン第36章〔ヤースィーン〕82節)こと、そしてその力の完全性により、疲労、困ばいされることはないことを我々は信ずる。

『我らは天地とその間にあるすべてのものを6日のうちに創造し、少しの疲れも覚えなかった。』 (クルアーン第50章〔カーフ〕38節)


 また、神名と属性についてアッラーが御自身について明言されたこと、および使徒がアッラーについて述べられたことがすべて確かな真実であることを我々は信ずるが、その際に次の2つの重大な誤謬に陥ることはない。
 第1は擬人化、すなわち至高なるアッラーの属性が被造物の属性と同様であると心中で考え、あるいは主張することである。
 第2は具体化、すなわち至高なるアッラーの属性はこうこうであると憶断することである。
 また、アッラーが御自身について否定し給うたこと、あるいは使徒がアッラーについて否定されたことは否定されるべきことであると我々は信ずる。そして、そうした否定はそれとは正反対の性質を(アッラーに相応しい美質として)認めることを含意している。
 そして、アッラーとその使徒がアッラーについて語らなかったことについては我々は沈黙を守るのである。
 アッラーの属性についての議論においては以上のような態度を取ることが義務であると、我々は考える。
 なぜなら至高なるアッラーが御自身について確言、あるいは否定されたことは、アッラー御自身が御自身について語られることであるが、誉むべきかなアッラーこそ御自身について最も良くご存じの御方であり、最も正しく美しく適切な表現で語られたのであり、我々その僕には彼のすべてを知ることは不可能だからである。また、使徒がアッラーについて確言、あるいは否定されたことは、人類の中で主について最も良く知り、かつ最も誠実で信頼すべき雄弁なアッラーの使徒がアッラーについて語ったことである。至高なるアッラーとその使徒の言葉は、知識の広大さ、信頼性、明瞭性のすべてにおいて最も完壁であり、それを拒んだり認めることをためらうことは許されないのである。
 至高なるアッラーの属性に関し我々が細部と原則において述べ、断言あるいは否定して来たことはすべて、我らの主から授かった書クルアーンと我らの預言者のスンナに基づいており、またウンマの先達と彼らの後に続いた導きの学匠たちの歩んだ足跡を辿っているのである。
 我々は、アッラーの属性に関してはクルアーンとスンナの明文を字義通りに伝え、畏くも貴きアッラーに相応しい正しい意味に解釈しなけれぱならないと考える。それをアッラーとその使徒が明文で意図したものとは異った意味に歪曲する者、あるいは否定する者、また擬人的に解釈したり、それに具体的様態を付与する異端者の道を我々は歩まない。
 至高なるアッラーの御言葉にも『彼らクルアーンについてよく考えてみたことはないのか。もしそれがアッラー以外のものに由来するなら、その中にたくさんの矛盾を発見したであろうに。』(クルアーン第4章〔婦人〕82節)とあるように、至高なるアッラーの書(クルアーン)とその預言者のスンナにあることはすべて真理であり、どこにも矛盾のないことを我々は確信する。なぜなら、話に相互矛盾があるとすれば、どちらかが虚偽であることになるが、そのようなことは至高なるアッラーとその使徒の言葉には起こりえないからである。それゆえ、至高なるアッラーの書、または使徒のスンナの中に矛盾がある、あるいは両者の間に矛盾がある、と言い立てる者は悪意によって語っているか、心が歪んでいるためにそう言っているのであり、そのような者は至高なるアッラーに立ち帰って罪を悔い改めさせねばならない。
 至高なるアッラーの書と使徒のスンナの中に、あるいは両者の間に矛盾があると妄想する者は、知識の不備か、理解の不足、思索の欠如からそうするのであり、真理が明らかになるまで学問を修め、思索を積まねばならない。また、理解できなければ、彼は、この問題を学者に委ね、愚かな妄想を止め、知識の堅固な者が言うように『我々はそれがすべて我らの主から齎されたものであることを信じます。』(クルアーン第3章〔イムラーン家〕7節)と言って、クルアーンにもスンナにも、また両者の間にも矛盾や相違が存在しないことを悟らねばならない。
2.天使
  アッラーの天使たちの存在と、彼らが『(アッラーの)高貴な僕であり、彼に先んじて語ることはなく、ただ彼の命令を実行するだけである。』(クルアーン第21章〔預言者〕26-27節)ことを我々は信ずる。彼らは至高なるアッラーの創造に成り、彼に帰依し崇拝し、『慢心しアッラーの崇拝に倦み怠ることはなく、夜に昼に彼を称え疲れを知らない。』(クルアーン第21章 〔預言者〕19-20節)。

 アッラーは天使を我々の目から隠されたため、我々には彼らを見ることができない。しかし時にアッラーはその僕のうちのある者に彼らの姿を明かし給い、預言者も600の翼を持ち天を覆う大天使ジブリールの姿を見られたことがある[viii]。また、ジブリールはマルヤムの許に人間の姿をとって出現し、彼女は彼に話しかけ、彼もまた彼女に言葉をかけた。また、彼は預言者が教友たちと共におられたところへ、純白の衣に黒髪をした見知らぬ、旅人とも見えない男の姿をとって現れた。そのときジブリールは預言者の許に座り、膝を預言者の膝に重ね、手を彼の腿の上に置いて話を交わされたのであるが、(彼が去った後)預言者は教友たちに向かってその男がジブリールであったと告げられた[ix]。

 また天使にはそれぞれ任務があることを我々は信ずる。ジブリールは啓示を担当し、それを携えてアッラーの選ばれた預言者や使徒たちの許に下り、ミーカーイール(ミカエル)は雨と植物の養育を司り、イスラーフィールは雷鳴のとき、また復活のときにラッパを吹き鳴らす役目を負っている。またその中には人の死に際して魂を取り上げる死の天使、山を管理する天使、地獄の番をする天使、胎児の世話をする天使、人類の守護の天使がいる。

 また、人の所業を書き記す天使もいる。すべての人間には2人の天使が『右肩と左肩に座っており、一言といえども書き漏らすことはない。』(クルアーン第50章〔カーフ〕17-18節)

 また、別の天使には死者の住まいを決めるための審問の任務がある。人が死ぬと彼の許には2人の天使がやって来て、「お前の主は誰か。宗教は何か、預言者は誰か。」と尋ねる。そこで『アッラーは現世においても来世においても確かな言葉を語れるよう、信ずる者を支え給う。アッラーは不正を犯す者を迷うにまかせられる。アッラーは御心のままを為し給う。』(クルアーン第14章〔イブラーヒーム〕27節)

 また天国に入る者を受け持つ天使もいる。彼らは、『各々の門から彼ら(楽園の民)のもとへ入り来たる。(そして言う) 「平安あれ。あなた方はよく耐え忍んだ。なんと良き住まいではないか。」』(クルアーン第13章〔雷電〕23-24節)

 預言者が語られたところによると、天には天使の詣でる神殿があり、そこには毎日7万人の天使が入る -別の伝承によると「入る」の代わりに「礼拝する」となっている-が、同じ者がそこに-もう一つの伝承によると「そこに」ではなく「彼らのいたところに」となっている-戻って来ることはない[x]。

3.啓典
 至高なるアッラーがその使徒らに、万世への印、生きる者への指針として啓典を下されたことを、我々は信ずる。それによって使徒たちが人々に英知を授け、彼らを清めるためである。

 また、至高なるアッラーの次の言葉により、彼がすべての使徒に啓典を授け給うたことを、我々は信ずる。

『我らは使徒を明証をもって遣わし、人々の間に正義を確立するために彼らに啓典と秤を授けた。』 (クルアーン第57章〔鉄〕25節)

 これらの啓典のうちで我々が知るのは以下の諸書である。

(1) 律法(タウラー)

 これは至高なるアッラーがムーサー(モーセ)-彼にアッラーの祝福と平安あれ-に下されたものであり、ユダヤ教徒にとって最も重要な啓典である。

 『その(タウラ-の)中には導きと光明があり、アッラ-に帰依した預言者たちはそれによってユダヤ教徒を裁き、また聖職者や律法学者たちも保持するよう命じられたアッラ-の書によって(裁き)、その証人となった。』 (クルア-ン第5章〔食卓〕44節)

(2) 福音書(インジ-ル)

 福音書は至高なるアッラーがイーサー(イエス)-彼にアッラーの祝福と平安あれ-に下されたものであり、ムーサーの律法を確証し、補完するものである。

『我らは彼(イーサー)に福音書を授けた。その中には導きと光明があり、それは以前に下した律法を確証するものであり、主を畏れる者への導きであり、訓戒である。』 (クルアーン第5章〔食卓」46節)

『汝らに禁じられていたものの一部を解禁するために・・・』 (クルアーン第3章〔イムラーン家〕50節)

(3) 詩編(ザブール)

 詩編は至高なるアッラーがダーウード(ダビデ)-彼にアッラーの祝福と平安あれ-に授けられたものである(クルアーン第4章〔婦人〕163節、17章〔夜の旅〕)55節) 。

(4) イブラーヒーム(アブラハム)とムーサー-彼ら両名に祝福と平安あれ-の書(クルアーン第87章〔至高者〕19節)

(5) 聖クルアーン

 聖クルアーンは至高なるアッラーが預言者の封印ムハンマドに下されたものであり、『人々への導きであり、導きとフルカーン(正邪の基準)の明証』(クルアーン第2章〔雌牛〕185節)、『以前の啓典を確証し保全するもの』(クルアーン第5章〔食卓〕48節)なのである。

 アッラーはクルアーンによって以前の啓典をすべて無効とされ、これを潮笑者の侮辱と改変者による歪曲から守護し給う。

『まことに訓戒を下し、またそれを護るのは我ら(アッラー)である。』 (クルアーン第15章〔アル・ヒジュル19節〕

 これは、クルアーンが復活の日に至るまで人類すべてに対する証しであり続けるためである。
 クルアーン以前の啓典は、それらを破棄し、そこに生じた歪曲や改変を明らかにする新たな啓典が啓示されるまでの間に限って有効であったに過ぎない。また、それだからこそ、それらは守護されることなく、歪曲や付加や削除を蒙ったのである。

『ユダヤ教徒の中には字句を改変した者がおり、…』(クルアーン第4章〔婦人〕46節)

『己の手で啓典を捏造し、僅かな代償を得るために「これはアッラーの御許から下されたのだ。」と言う者に災いあれ。彼らの手の書いたもののために彼らに災いあれ。彼らの稼いだもののために彼らに災いあれ。』 (クルアーン第2章〔雌牛〕79節)

『言え。「ムーサーが齎した人類に対する光明と導きの啓典を下した者は誰か。お前たちはその一部を紙に書いて人に明かすが、多くは隠している。」』〈クルアーン第6章〔家畜〕91節〉

『彼ら(啓典の民)の中には自分の舌で啓典を歪曲し、啓典にないことを啓典の一部であるかのようにみせかけ、アッラーの御許から下されたのでないものをアッラーの御許から下されたと騙り、故意にアッラーに対して虚言をなす一派がある。アッラーから啓典と英知と預言者の使命を授けられた者は人々に対して「アッラーではなく、私に仕えよ。」などとは決して言いはしない。』 (クルアーン第3章〔イムラーン家〕78-79節)

『啓典の民よ。汝らの許へ我らの使徒が現れ、啓典について汝らの隠していたことの多くを明らかにした。 -中略- 「アッラーとはマルヤム(マリヤ)の子イーサーである。」と言う者は確かに不信仰者である。』 (クルアーン第5章〔食卓〕15-17節)

4.使徒
 至高なるアッラーがその被造物に使徒たちを遣わされたことを、我々は信ずる。

『(アッラーが) 使徒たちを福音告知者、警告者として遣わされたのは、人類が使徒たち(の派遣)の後にアッラーに対して申し開き出来ないようにするためである。アッラーは偉大な英知者におわします。』 (クルアーン第4章〔婦人〕165節)

 また、最初の使徒がヌーフ(ノア)であり、最後がムハンマドであることを我々は信ずる。

『我ら(アッラー)は、ヌーフと彼以降の預言者たちに啓示を下したように、汝にも啓示を下した。』 (クルアーン第4章〔婦人〕163節)

『ムハンマドは汝らの誰の父でもない。彼はアッラーの使徒であり、預言者たちの封印である。』 (クルアーン第33章〔部族連合〕40節)

 使徒のうちで最も優れた者はムハンマドであり、次いでイブラーヒーム、ムーサー、ヌーフ、イーサー・ブン・マルヤムの順であり、彼らは至高なるアッラーの御言葉の中に特記されている。

『また我ら(アッラー)は預言者たちと契約を交わした。我らは汝(ムハンマド)、ヌーフ、イブラーヒーム、ムーサー、イーサー・ブン・マルヤムらと厳かに契約を交わしたのである。』 (クルアーン第33章〔部族連合〕7節)

 ムハンマドのシャリーアがこれら特別な恵みを受けた使徒たちのシャリーアの持つ徳を内包するものであることを、我々は確信する。

『彼(アッラー)はヌーフに命じ給うたものを汝らの宗教と定め給うた。それは我らが汝に啓示し、またイブラーヒーム、ムーサー、イーサーに「この宗教を守り、そのことで分裂してはならない。」と命じたものである。』 (クルアーン第42章〔相談〕13節)

 また、使徒たちは皆、被造物たる人間であったに過ぎず、一切の「神性」を有しなかったことを我々は信ずる。至高なるアッラーは最初の使徒であるヌーフについて、こう仰せられた。

『私(ヌーフ)はお前たちに、私がアッラーの宝物を所蔵しているとも、幽玄界のことを知っているとも、また私が天使であるとも言わない。』 (クルアーン第11章〔フード〕3節)

 またアッラーは最後の預言者ムハンマドにも次のように言うよう命じられた。

『私はアッラーの宝物を所蔵しているとも、幽玄界のことを知っているとも、また私が天使であるとも言わない。』 (クルアーン第6章〔家畜〕50節)

『アッラーがお望みにならない限り、私には自分を害することも益することも出来ない。』 (クルアーン第10章〔ユーヌス〕49節)

『私は汝らを害することも導くことも出来ない。言え。「誰も私をアッラーから護ることは出来ず、またアッラーの御許以外に避難所を見いだすことは出来ない。』 (クルアーン第72章〔ジン〕21-22節)

 また彼らがアッラーの忠僕であったことを我々は信ずる。至高なるアッラーは彼らに使信の祝福を授けられたが、彼らを褒め称える最高の賛辞としてアッラーは彼らを「僕」と形容しておられる。

アッラーは最初の使徒ヌーフについて仰せられた。
『我らがヌーフと共に選んだ者の子孫よ。まことに彼は感謝の念篤き僕であった。』 (クルアーン第17章〔夜の旅〕3節)

 また最後の使徒ムハンマドについても次のように仰せられる。

『万世に対する警告者とするため、その僕(ムハンマド)にフルカーン(正邪の基準)を下し給うた御方に称えあれ。』 (クルアーン第25章〔識別〕1節)

 また他の使徒たちについても以下のように仰せられる。

『力あり知恵に秀れた我らの僕イブラーヒーム、イスハーク(イサク)、ヤァクーブ(ヤコブ)のことを思い起こせ。』 (クルアーン第38章〔サード〕45節)

『力ある我らの僕ダーウードのことを思い起こせ。まことに彼は悔悟して主に立ち帰る者であった。』 (クルアーン第38章〔サード〕17節)

『我らはダーウードにスライマーン(ソロモン)を授けた。なんと優れた僕であるか。彼は悔悟して主に立ち帰る者であった。』 (クルアーン第38章〔サード〕30節)

 またイーサー・ブン・マルヤムについてもこう仰せられる。

『彼は我ら(アッラー)が恩恵を施しイスラーイール(イスラエル)の子らへの模範として遣わした僕に過ぎない。』 (クルアーン第43章〔金の装飾〕59節)

 また、至高なるアッラーの次の御言葉により、アッラーがムハンマドを人類すべてに対して遣わし、彼の派遣をもって使徒の派遣を完了されたことを、我々は信ずる。

『言え。「人々よ。私は汝らすべてに対して遣わされたアッラーの使徒である。天地の主権は彼に属し、彼の他に神はいない。彼こそ生と死を授け給う御方。それゆえアッラーを信じよ。そして、彼とその御言葉を信ずる文盲の預言者である使徒(ムハンマド)を信じ、彼に従え。おそらく汝らは正しく導かれよう。』 (クルアーン第7章〔高壁〕158節)

 また、至高なるアッラーの次の御言葉により、使徒の齎したシャリーア(聖法)とは、至高なるアッラーがその僕らのために嘉し給うたイスラームの教えであり、至高なるアッラーはそれ以外の宗教を誰からも受け入れ給わないと我々は信ずる。

『まことにアッラーの御許の宗教はイスラームである。』 (クルアーン第3章〔イムラーン家〕19節)

『今日、我らは汝らの宗教を完成し、恩恵を完全なものとし、汝らの宗教としてイスラームを嘉した。』 (クルアーン第5章〔食卓〕13節)

『イスラーム以外の教えを好む者が受け入れられることは決してない。彼は来世において失敗者の一人となる。』 (クルアーン第3章〔イムラーン家〕85節)

 キリスト教やユダヤ教などイスラーム以外の宗教が(イスラームの使信が宣べ伝えられた)今日なおアッラーの御許で受け入れられると主張する者は、悔悟を求められるべき不信仰者であり、もし彼が悔い改めない場合には、背教者として処刑されねばならないと我々は考える。彼はクルアーンの御言葉を虚偽としたからである。

 また、ムハンマドの使信を信じない者は、その者が信じ従っていると称する使徒をも含めてすべての使徒を信じていないことになると、我々は考える。なぜならば至高なるアッラーの御言葉に 『ヌーフの民は使徒たちを詐欺師と呼んで拒んだ。』(クルアーン第26章〔詩人たち〕105節)とあり、アッラーはヌーフ以前にはまだ使徒が遣わされていなかったにも拘わらず、ヌーフの民をすべての使徒を拒んだとして非難しておられるからである。また至高なるアッラーは次のようにも仰せられる。

『アッラーとその使徒たちを信じず、アッラーとその使徒たちを分離させようと欲し、「我々はある者は信ずるが他の者は信じない。」と言い、その中間に道を求める者こそ真の不信仰者である。我らはそのような者に恥ずべき懲罰を用意しているのである。』 (クルアーン第4章〔婦人〕150-151節)

 また、ムハンマドの後にもはや預言者はなく、彼の没後に預言者を自称する者及びその者に従う者は誰であれ不信仰者であると、我々は信ずる。なぜなら彼はアッラーとその使徒、ムスリムの合意に背いているからである。

 我々は、このウンマ(宗教共同体)には預言者の後に正しく導かれた後継者(正統カリフ)が続き、(シャリーアの)知識、宣教、信徒の統率において彼を継承したことを我々は信ずる。また我々は、教友の中で最も優れ、カリフの地位に最も相応しい者は「篤信者」アブー・バクル、次いでウマル・ブン・アル=ハッターブ、ウスマーン・ブン・アッファーン、アリー・ブン・アビー・ターリブ –アッラーが彼らをすべて嘉されますように-であったことを信ずる。

 このように彼らにはカリフ位において順位があったが、徳においてもまた同様であった。英知に満ちた至高なるアッラーが、最善の世代である教友たちの教導を、より秀れ、カリフの地位により相応しい者を差し置いて他の者に委ねるようなことはあり得ないのである。

 彼らのうち下位にある者が特定の徳において秀でることがあっても、それによってその者がより徳の高い者より総体的に優れていることにはならないと我々は信ずる。徳には多様な要素があるからである。

 また、このウンマが人類最高の共同体であり、畏くも貴きアッラーの御前において最も誉れ高い民であることを、至高なるアッラーの御言葉により、我々は信ずる。

『汝らは人類の中に現れた最善の共同体であり、善を命じ悪を禁じアッラーを信仰する。』 (クルアーン第3章〔イムラーン家〕110節)

 また、このウンマにおける最良の世代は教友の世代であり、次いでそれに続く世代、次いで更に彼らの次の世代であると我々は信じ、畏くも貴きアッラーの命が下るときまで、このウンマの中に、真理の大道にあって勝利し、離反者たちが決して害することの出来ない選良の一団が絶えることのないことを信ずる[xi]。

 また教友たち-アッラーが彼らを嘉されますように-の間に生じた内戦[xii]は、イジュティハード[xiii]をめぐる解釈の相違に由来すると我々は考える。イジュティハードを行う者はその緒果が正しければ(来世で)2つの報奨を戴けるが、間違った場合でも1つの報奨を授かり、犯した誤りも赦されるのである。

また、教友たちの悪行を暴き立ててはならず、むしろしかるべき賛辞こそ彼らには相応しく、心を清めて彼らの誰に対する中傷、悪口も慎まねばならないと我々は考えるが、それは次の至高なるアッラーの御言葉による。

『汝らの中でも勝利の前に財産を費やして戦った者は(他の者たちと)同列ではない。彼らは後になって行った者より高位にあるのである。しかしアッラーはどちらにも良い報奨を約束された。』(クルアーン第57章〔鉄〕10節)

『彼らの後に来た者たちは言う。「我らが主よ。我らと我らより先に信仰に入った同胞を赦し給え。我らの心に信仰する者への憎しみの念を起こさせないで下さい。まことにあなたは寛大にして慈悲深き御方におわします。」』(クルアーン第59章〔集合〕10節)

5.最後の審判
 最後の審判を我々は信ずる。それは復活の日であり、その日の後にはもはや日々はない。そのとき人々は至福の住処(楽園)か、苛酪な懲罰の住処(火獄)に永遠に住むために蘇らされるのである。
 復活を我々は信ずるが、アッラーは(天使)イスラーフィールがラッパを2度目に吹き鳴らしたときに死者を蘇らせ給う。

『ラッパが吹き鳴らされると、天にあるものも地にあるものもアッラーの御心に適った者以外は意識を失う。そしてもう1度吹き鴫らされるとき、彼らは起き上がり辺りを見回す。』 (クルアーン第39章〔集団〕68節)

 人々は万世の主に見えるために墓から蘇るが、そのとき人々は裸足で服も着ず、また割礼を受ける以前の状態である。

『最初の創造を始めたように、我ら(アッラー)は再びそれを繰り返す。それは自らに約束したことである。まことに我らは必ず約束を成就する。』 (クルアーン第21章〔預言者〕104節)


 また、自分たちの行状を書き記した帳簿を右手か左手、あるいは背中に受け取ることを我々は信ずる。

『右手に帳簿を渡される者はその清算も素早く片付き、喜々として己の家族のもとへ戻り行く。他方、背中に帳簿を渡される者は燃え盛る炎に焼かれ、いっそ早く燃えつきたいと叫ぶ。』 (クルアーン第84章〔割れる〕7-12節)

『我ら(アッラー)はすべての人間の首に「予兆」を付した。復活の日、我らは彼に開け広げた帳簿を示して言う。「汝の帳簿を読むがよい。今日、汝自身の裁き手としては、汝の魂だけで十分であろう。」』 (クルアーン第17章〔夜の旅〕13-14節)

 また、復活の日には「秤」が据えられ、誰も不正に扱われることはないことを、我々は信ずる。

『塵一粒程の善行でも行った者はそれを見ることになろう。また塵一粒ほどの悪事でも犯した者はそれを見ることになろう。』 (99章〔地震〕17-8節)

『秤が(善行で)重い者は成功者である。秤が軽い者は自らを滅ぼした者である。彼ら火獄に永劫に留まり、業火に焼かれ顔を歪める。』 (クルアーン第23章〔信者たち〕102-103節)

『善行を為した者はその10倍の報奨を受けるが、悪行を為した者は等倍の報いを受けるのみで不正に扱われることはない。』 (クルアーン第6章〔家畜〕160節)

 また、アッラーの使徒(ムハンマド)は最高の執り成しを行う権能が授与されていることを、我々は信ずる。耐え難い不安と苦悩に襲われて人々はアーダム(アダム)、ヌーフ、イブラーヒーム、ムーサー、イーサーの許を訪ね、最後にアッラーの御使いの許に来るが、彼だけが至高なるアッラーの御許でその御許しを得た上で特別な執り成しを行い、それらの者を裁くのである[xiv]。
 また、火獄に投げ込まれた信者を救い出す執り成しがあることを我々は信ずるが、それが出来るのはムハンマドとその他の預言者、信徒たち、および天使である。
 また、至高なるアッラーは誰かの執り成しによってではなく、ただ彼の恩寵と慈悲から信徒の民を業火から救い出し給うことがあることを我々は信ずる。
 また、アッラーの使徒の「湖」の存在を我々は信ずる。その水は乳よりも白く蜜よりも甘く麝香の香りよりも芳しく、幅と長さは1ヵ月の旅程に相当し、(そこに備えつけられた)器は天の星の如く無数で美しい。彼(ムハンマド)のウンマの信徒がそこにやって来るが、その湖から水を飲む者はもはや渇くことはない[xv]。
 また、火獄に架かる「道」の存在を我々は信ずる。人はそこを生前の行いに応じた速度で渡る。最初の者は稲妻の如く、続く者は風の如く、またそれに続く者は烏の如く、そして走るが如くに通り過ぎる。預言者が「道」の上に立ち、「主よ、救い給え、救い給え」と祈るうちに、善行が足りない者の番となる。這った者がやって来るが、「道」の両側には命令によって吊り下げられた鉤が在り、命じられた者を吊り上げる。傷つきながらも救われる者もいれば、火獄に積め込まれる者もいる[xvi]。
 また、クルアーンとスンナの語る審判の日とその恐怖の物語を我々はすべて信ずるが、アッラーはそれらのものから我々を護り給う。
 我々は、楽園の民が楽園に入るために預言者が執り成しをされることを信じるが、この執り成しは彼だけに与えられた特権である。
 我々は楽園と火獄を信ずるが、楽園とは至高なるアッラーが敬虔な信徒のために用意された、かつていかなる目も見ず、耳も聞かず、誰の心も思い浮かべたことのない至福を味わう安楽の住処である。

『自分の行ったことに対する報奨としていかなる善きものが密かに用意されているかを誰も知らない。』(クルアーン第32章〔サジダ〕17節)

 火獄とは至高なるアッラーが不正な不信仰者のために用意された懲罰の住処であり、そこには誰も想像したことのない苛酷な懲罰がある。

『我々は不正を犯した者のために、彼らを覆い尽くす業火を用意した。彼らが助けを求めても、溶けた真鍮の如き液体が与えられよう。なんと悪い飲み物、臥し所であろう。』 (クルアーン第18章〔洞窟〕29節)

 楽園と火獄は共に現存し、また永存する。

『アッラーは彼を信仰し善を行う者を川の流れる楽園に入れ給い、彼は永遠にそこに留まる。こうした者にはアッラーは善き恵みを垂れ給う。』 (クルアーン第65章〔離婚〕11節)

『アッラーは不信仰者を呪い、彼らのために燃え盛る炎を用意された。彼らはその中に永遠に留まり、助けを乞うべきいかなる保護者も見いだすことは出来ない。その日、炎に彼らの顔は歪み、「ああ、アッラーと使徒に従っていればよかった。」と言うことになろう。』 (クルアーン第33章〔部族連合〕64-66節)

 また我々は、クルアーンとスンナが名指しで、あるいは特徴描写によって楽園に入ると証言している者が楽園に入ることを信ずる。
 名指しによる証言とは、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーら[xvii]、預言者が(楽園に入る者として)名前を挙げた者たちに対する証言であり、特徴描写による証言とは「信仰者」、「敬度な者」一般に対するものである。

 また我々は、クルアーンとスンナが名指しで、あるいは特徴描写によって火獄に堕ちると証言している者が火獄に堕ちることを信ずる。 名指しの証言とはアブー・ラハブ[xviii]やアムル・ブン・ルヒーユ・アル=フザーイーなど[xix]であり、特徴描写による証言とは「不信仰者」、「重度の偶像崇拝に陥った多神教徒」、「偽信者」一般に対する証言である。

 我々はまた、墓の中での審問を信ずる。つまり死者は墓の中で、「お前の主は誰か、宗教は何か、預言者は誰か。」と審問されるのである。

『アッラーは現世においても来世においても確かな言葉を語れるよう、信ずる者を支え給う。』 (クルアーン第14章〔イブラーヒーム〕27節)

 そのとき信徒は、「私の主はアッラー、宗教はイスラーム、預言者はムハンマドです。」と答えるが、不信仰者や偽信者は、「私には分かりません。私は人々が何か言っているのを聞いて、口を合わせていただけです。」と言う。

 我々はまた、信徒の墓の中での享楽を信ずる。

『天使は清らかに死なせた者に「平安あれ。汝らの行ったことのゆえに天国に入れ」と言う。』 (クルアーン第16章〔蜜蜂〕32節)

 我々はまた、不正を犯した者の墓の中での責め苦を信ずる。

『断末魔の苦痛に喘ぐ不正を犯した者たちに天使が手を差し延べ、「今日、汝らの魂を差し出せ。アッラーについて虚偽を語り、その徴に傲慢な態度を取ったことに対して恥ずべき報いを受けるが良い。」と言うのを、汝らが見ていたならば(良かったのに)。』 (クルアーン第6章〔家畜〕93節)

 この問題については多くのハディース(預言者の言行録)が伝えられており、我々信徒はクルアーンとスンナが幽玄界の事象について述べていることをすべて信じねばならず、現世の経験を基準にそれを否定することは許されない。なぜなら来世の出来事は現世の出来事とは全く異なり、類推が不可能だからである。アッラーにこそ、我らは助けを求め奉る。

6.定命
 良運、悪運ともに、至高なるアッラーの知がそれに先行し、彼の英知がそれを要請したという意味で、その生起がアッラーの定命になることを、我々は信ずる。

定命には以下の4つの段階がある。

第1段階:〈予〉知

 至高なるアッラーはすべてのことを熟知しておられることを我々は信ずる。彼は過去に起こったこともこれから起こることも、またどのように起こるかも、その永遠の知によって知っておられる。彼には無知の後に知が生ずることはなく、知の後に忘却が続くこともない。

第2段階:記帳

 至高なるアッラーが復活の日に至るまでに生起する事象を『守護された書板』(クルアーン第85章〔星座〕22節)にすべて書き記されたことを、我々は信ずる。

第3段階:意志

 至高なるアッラーが天と地に存在するものすべて(が存在すること)を意志されたこと、彼の意志なくしては何ものも存在し得ず、彼の意志されたことはすべて生起し、意志されなかったことは一切生起しないことを、我々は信ずる。

第4段階:創造

 最後に、至高なるアッラーが『万物の創造者、万象の主宰者であり、天と地の鍵は彼に属する』(クルアーン第39章〔集団〕62-63節)ことを我々は信ずる。

 この4つの段階の定命は、アッラー御自身に由来する事象と人間に由来する事象のすべてを包括する。即ち、人間が語ること、行うこと、行わないことはすべて至高なるアッラーには既知のことであり、彼の御許の「書板」に書き記されており、彼がそれを意志し、創造されたのである。

『それは汝らのうちで正道を歩みたいと望む者のためのものである。しかし万世の主アッラーが御望みにならない限り、汝らが望むということもない。』 (クルアーン第81章〔包み隠す〕28-29節)

『もしアッラーが御望みであったなら、彼らが争うこともなかったであろう。しかしアッラーは御望みのことを為し給う。』 (クルアーン第2章〔雌午〕253節)

『もしアッラーが御望みであったなら、彼らはそれを行わなかったであろう。それゆえ彼らと彼らの担造したものを放置しておけ。』 (クルアーン第6章 〔家畜〕137節)

『アッラーは汝ら(自身)も、また汝らの造るものも共に創造し給う。』 (クルアーン第37章〔整列〕96節)

 しかし同時に我々は、至高なるアッラーが人間に行為を行う選択と能力 を与えられたことも信ずる。

 人間の行為が彼自身の選択と行為能力によるということには、以下の根拠 がある。

(1) 至高者の御言葉『望むままに汝の畑に赴け』(クルアーン第2章 〔雌牛〕223節)、『もし彼らに出征する意志があったなら、その準備をしていたであろう。』 (クルアーン第9章〔悔悟〕46節)
 このようにアッラーは、人間が望むままに赴き、また意志によって準備をすることを肯定されているのである。

(2) 命令と禁止が人間に課されていること。もし人間に選択と行為能力がなければ、アッラーは不可能なことを義務として課されたことになる。しかるにそれは至高なるアッラーの英知と御慈悲、また『アッラーは誰にもその能力以上のことを課し給わない。』(クルアーン第2章〔雌牛〕286節)との真実の御言葉にも反している。

(3) 善人の善行への称賛と悪人の悪行の非難、並びにそれぞれに相応しい報い。もし行為が人の意志と選択とによらずに起きるとすれば、善人の称賛は無駄であり、悪人の非難は不正である。ところがアッラーは無駄や不正からは隔絶しておられるのである。

(4) 至高なるアッラーが使徒たちを『福音告知者、警告者として遣わされたのは、人類が使徒たち(の派遣)の後にアッラーに対して弁明が出来ないようにするためである。』(クルアーン第4章〔婦人〕165節) しかるに、もし行為が人間の選択と意志によるのでないとすれば、使徒たちの派遣によって彼の弁明を無効にすることはできなくなる。

(5) 行為者は皆、強制されているという感覚を一切持たずに何かをしている、あるいはしないでいると感じている。彼は、純粋に自分の意志によって立ち、座り、出入りし、また旅行し、滞在するのであり、誰かに強制されているとは感じていない。自己の選択で何かを行う場合と強制されて行う場合とを実際、彼ははっきりと区別している。シャリーアも法規定の上で両者を区別しており、至高なるアッラーの権利に属することで強制されて行ったことについては行為者の責任が問われることはない。

 罪人(アッラーの命に背く者)はアッラーの定命を罪の言い訳にすることはできないと、我々は考える。なぜなら、彼は自分の選択で、アッラーが彼にそうと定め給うたことを知らずに罪を犯すからである。人は誰もアッラーが定められたことが実際に生起するまでは、アッラーの定命を知ることは出来ないのである。

『誰も明日自分が何を稼ぐかを知らない。』 (クルアーン第31章〔ルクマーン〕34節)

 論証者が自分の知らないこと(アッラーの定命)を論拠に論を立てる、そのような言い訳がどうして有効となりえよう。 至高なるアッラーはその御言葉の中で既にこの詭弁を論破されている。

『多神崇拝を犯す者らは言うであろう。「もしアッラーが御望みなら、我々も先祖たちも多神崇拝を犯さず、また何も禁ずることはなかったであろう。」同様に彼ら以前の者らも我らの懲罰を味わうまでは信じようとはしなかった。言え。「お前たちに知識があるのか。それなら我ら(アッラー)に示して見よ。いやお前たちはただ憶測によって思いを廻らしているに過ぎない。」』 (クルアーン第6章〔家畜〕148節)

 我々は定命を言い訳に用いる罪人に対しては、「なぜお前は『(アッラー フの命への)服従を、至高なるアッラーによる定命である』と言って行わないのだ。」と反論することが出来る。なぜなら服従と反抗の間には、自分が実際にそれを行ってみるまでは、それが定められていたかどうかを知るすべがないという点では全く違いがないからである。
 それゆえ預言者は教友たちに、「お前たちはすべて、天国に入るか火獄に堕ちるかは既に定められている。」と言われたとき、教友たちが、「それならば我々は(定命に)身を委ね、行為を放棄してはどうでしょうか。」と尋ねたのに対し、「いや、そんなことをしてはならない。誰も皆、自分が創造された目的に沿うことが易しいようにされているのであるから。」と答えられたのである[xx]。
 また我々は定命を口にする罪人に対して言おう。
 「もしお前がマッカ(メッカ)に行きたいと思ったとき、道が2本あったとしよう。そこで信頼の於ける人が、片方は危く険しい道であり、もう一方は安全で平坦な道であると教えてくれたなら、お前は危険な道を選び、『これが私に与えられた運命だ。』と言うことは出来ないだろう。またもしお前がそんなことをしたら、人はお前を狂人の類いと見みなすだろう。」

 また次のように言うことも出来よう。「もしお前に2つの仕事があり、片方がよりランクが上の職であればお前はそちらで働くだろう。その際、下位の仕事を自分で選んで定命を主張することなど出来ようか。」

 またこうも言えよう。
 「もしお前が病気になったなら、お前は病院の門を叩き、手術の痛みや薬 の痛みを我慢してでも治療を受けるだろう。それなのにお前はなぜ『罪』と いう心の病に対しては同じ忍耐が出来ないのか。」

 また、至高なるアッラーにはその完壁な英知と慈悲ゆえに、悪が帰されることはないと我々は信ずる。預言者は、ムスリムの伝える伝承において「あなた(アッラー)に悪が帰されることはありません」と言っておられる[xxi]。

至高なるアッラーの定め(の御業)は彼の慈悲と英知に由来するため、それ自体に悪は決して存在しない。

 「あなたが定められたことの悪から私を護り給え。」という預言者がアル=ハサン[xxii]に教えられたクヌート(敬虔)の祈祷の中の言葉からしても、悪はただ、アッラーの定められた事柄の中にある。つまり、預言者は、悪を(アッラー御自身にではなく)アッラーが決められた事柄に帰されたのである。さらに、アッラーが定められたことの悪にしても、それは純粋悪ではなく、ある場においてある視点から見れば悪であるものも、別の視点から見れば善であったり、また、ある場においては悪であっても、別の場にあっては善となったりするのである。

 不作、病気、貧困、恐怖といった地上の厄災は確かに悪であるが、それもある観点から見ると善なのである。至高なるアッラーも仰せられる。

『人の手が稼いだことのために厄災が陸と海に現れた。それは彼らに(現世で行った)所業の(報いの)一部を味わわせるためなのである。おそらく彼らは悔い改めよう。』(クルアーン第30章〔ビザンチン〕41節)

 また、盗人の手の切断や姦通を犯した者の石打ちは、彼らにとっては手を切り落とされ、命を失うという点で確かに悪ではあるが、それが彼らの贖罪となり、現世と来世の両方で罰を受けることを免れさせるという他の側面から見れば善であり、また、(他人の)財産と名誉と血統の防衛という側面から見ても善なのである。

Ⅱ.信仰の功徳
 これらの重要な諸原則を包括する高貴な信条は、それを信ずる者に多くの貴重な利益を齎す。
1. アッラーの信仰
 至高なるアッラーの名称、属性に対する信仰は、至高なるアッラーヘの人間の愛を育み、また畏敬の念を呼び覚ますが、それは彼(アッラー)の命令の実践と禁止(事項)の忌避を帰結する。そして個人にとっても、集団にとっても、至高なるアッラーの命令の実践と禁止(事項)の忌避によってこそ現世と来世における至福は達成されるのである。

『男であれ女であれ善行を為す者は信仰者である。我ら(アッラー)はその者に(現世では)幸せな生活を送らせ、(来世では)行った最善の行為に見合った報奨を授けよう。』(クルアーン第16章〔蜜蜂〕97節)

2. 天使の信仰
(1) 天使たちを創造し給うた褒むべき至高なる創造主の偉大さ、威力、大権の認識。
(2) これらの天使たちに人間の守護、所業の記帳など、その善導を委ね給うた至高なるアッラーの御配慮への感謝。
(3) 至高なるアッラーに完壁な崇拝を捧げ、信者のために赦しを析願する天使たちへの愛。

 3.啓典の信仰
(1) すべての民族に彼らを正しく導くために使徒を遣わされた至高なるアッラーの慈悲とその被造物への配慮の認識。
(2) 各民族に最も適した法をそれらの啓典において定め、復活の日に至るまでのあらゆる時代と場所におけるすべての人類に妥当する聖クルアーンを啓典の究極とされた至高なるアッラーの英知の認識。
(3) そうした至高なるアッラーの恩寵に対する感謝。

 4. 使徒の信仰
 (1) 正しい導きと司牧のため高潔な使徒を遣わせ給うた至高なるアッラーの慈悲と、その被造物への配慮への認識。
(2) かくも寛大な恩寵を垂れ給うた至高なるアッラーヘの感謝。
(3) 至高なるアッラーの使徒であり、アッラーヘの崇拝、人類への使信の伝達と警告、迫害への忍耐を実践した(アッラーの)僕の精華である彼らに相応しい愛と尊敬と称賛。
 5.最後の審判の信仰
 (1) 最後の審判の日の報奨を期待しての至高なるアッラーヘの服従の志向と、懲罰を恐れての犯罪の忌避。
(2) 来世での報奨と至福を待ち望み、信仰者が現世での運命の浮沈から超然としていることが出来ること。
 6.定命の信仰
(1) 行為の結果についてのアッラーヘの信頼。なぜならば因果は共にアッラーの決定と決断に成るからである。
(2) 魂の安らぎと心の平和。 すべてがアッラーの定めであり、忌まわしいものの存在もまた(アッラーの)不可避の定命であることを悟れば、魂は安らぎ、心は平和を得、彼は主の定め給うたことに満ち足りるのである。それゆえアッラーの定命を信ずる者以上に幸福で、心安らぎ、満ち足りた者はいないのである。
(3) 意図したことを成し遂げたとき心に慢心が生ずることを防ぐこと。なぜなら成功はその原因も緒果もアッラーの決定に成り、従って単にアッラーの恩寵にすぎないからである。(それを知れば)人は至高なるアッラーの恩寵に感謝し、慢心を免れることが出来る。
(4) 計画の挫折、あるいは災害の折りの失望と嘆きの消滅。それらもまた天と地の主権者の定命に成り、その生起が不可避であったことを悟れば、人はそれに耐え、その報いを期待することが出来るのである。至高なるアッラーの次の御言葉はこのことを指している。


『地上に起きることにも、汝らの心に浮かぶことにも、我らがそれを(実際にこの世に)創造する以前に(予め天の書板に)記帳しておかなかったものはない。それは汝らが失ったものゆえ悲しまず、またアッラーより授かったものゆえに浮かれることのないためである。アッラーは騎り高ぶる者を愛し給わない。』 (クルアーン第57章〔鉄〕22-23節)


 我らのこの信条を嘉し、信仰の功徳を授け、恩寵を増し加え給うことを我らは至高なるアッラーに祈願し、また彼らを導き給うた後に我らの心を迷わせ給わないよう祈り、慈悲を垂れ給うことを冀い奉る。まことに彼は豊かに与えられる御方におわします。万世の主にこそ称えあれ。

 彼らが預言者ムハンマドとその一統、教友たちおよび善行をもて彼らに付き従う者たちすべてにアッラーの祝福と平安のあらんことを。


ムハンマド・アル = サーリフ・アル = ウサイミーン
ヒジュラ暦1404(西暦1984年)年シャウワール月30日