アッサラーム誌81号より(1999年8月1日発行)
イマン(信仰)の真意ー『イスラームの基本的教義』より(1)
サイイド・アブル・アラ・マウドゥデイ

I ムスリムになるための知識の必要性

 世界の中で、イスラームが、アッラーの最大のニアモット(恩恵)であることは、全てのムスリムがよく知っていることです。アッラーが彼らムスリムを、預言者ムハンマド(SM)のウンモット(ウンマ:共同体)として作りあげ、イスラームのような大きなニアモット(恩恵)を与えて下さったので、全てのムスリムたちがアッラーに感謝しています。それは、アッラーもご自身で、イスラームが人間にとって最も偉大なニアモット(恩恵)であると明言されています。
 今日、われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたの教えとして、イスラームを選んだのである。(聖クルアーン マエダ章‥三)

 アッラーがムスリムたちに、このように恩恵を与えて下さったかわりにアッラーに感謝することが、ムスリムたちにとって大切な義務なのです。例えば、人の親切に感謝しない人は、ひどい恩知らずです。そして、最もひどい恩知らずが、人間へのアッラーからのこの大きな恩恵を忘れることです。さて、皆さんがもし私に、アッラーの恩恵にどうやったら、感謝し、報いることができるのか、と質問するとしたら、私はこう答えます。アッラーが皆さんを、預言者ムハンマド(彼の上にアッラーの祝福あれ)のウンモットに作り上げて下さったのですから、完全に、誠実に預言者ムハンマドの追従者になることこそ、アッラーのこの恵みに報いられることでしょう、と。アッラーはあなたをムスリム国籍の中に作られたのだから、この恩に報いるためにはあなたが真のムスリムになることです。そのほかにはどんなやり方も、アッラーのこの大きな恵みに報恩できません。そして、あなたがもし、この恩に報いることができなかったり、すすんでしなかったりしたなら、恩知らずのために、人きな犯罪者になります。アッラー、私たち皆を、人きな罪から助けて下さい、アーミーン。そして、皆さんがもし私に、真のムスリ人にはどうやったらなれるのか?と質問するなら、この答えはとても長くなります。この本に、順にひとつひとつの文章で広く説明していきましょう。ムスリムになるときにいちばん人切なことをお話しします。このことはムスリムになる道の最初のステップです。
 少し深く考えてみて下さい。皆さんはいつも「ムスリム」という単語を使っています。この単語の意味は何ですか。人は母親のお腹の中からイスラームの宗教を持って来ますか。ムスリムの息子や孫だったらムスリムになりますか。例えば、バラモンの息子ならバラモンになり、チョウドリの息子ならチョウドリ、シュードラの息子ならシュードラになります。こんなふうに、ムスリムの名を持つ人の息子ならばムスリムになることができるでし ょうか。「ムスリム」は家族やカーストの名前ですか。イギリス国籍で生まれたらイギリス人、チョウドリの家族で生まれたらチョウドリになりますが、このように人スリムたちも、「ムスリ人」という名前を持っている家族に生まれたから、「ムスリム」の名前がつくのですか。私のこの全ての質問に、いや、「ムスリム」とは言えない、と皆さんは答えませんか。母親のお腹の中から、誰もムスリムとしては生まれません。つまり、イスラームを受け人れたらムスリムになり、イスラームを捨てたら、人はもうムスリムではなくなるのです。ムスリム社会から全く外れてしまいます。誰でも―バラモンでもパタンでもイギリス人でもアメリカ人でもバングラデシュ人でも黒人奴隷でも、イスラームを受け人れたら、そのときから彼はムスリムのひとりに数えられます。逆に、「ムスリム」社会で生まれても、イスラームのルールと、ハラル・ハラム(許可と禁止)を守らない人は、ムスリムに数えられません。ソイアドの息子でもパタンの息子でもそれは関係ありません。
 先の質問の答えから、こんなことがわかりました。アッラーの人きな恩恵 ―ムスリ人になるという恩恵― をあなたはもらいました。これは生まれつきにもらったものではありません。これは母親のお腹から生まれると同時に手に人るものではないのです。そして生涯、このことに対して気を配っても、気を配らなくても、自動的にいつもくっついてくる、というものではないのです。努力してもらえる恵みなのです。それをもらうためにあなたは一生懸命努力するのです。もしあなたが努力し続けたなら、それを手に人れることができます。また逆に、それについて全く気にかけなかったら、この褒美をもらえなくなります。(ナウズビッラ:アッラーはそんなことはなさらない)

 したがって、イスラームを受け人れたら、人はムスリムになるというのが結論です。しかし、イスラームを受け人れる、ということの意味は何でしょうか。口で、「私はムスリ人です」とか、「私は人スリムになりました」とか言う人を、あなたはムスリムだと思いますか。それから、例えば、プジャリ・バラモン(ヒンドウの僧)が、意味もわからないままにいくらかサンスクリット語の呪文を唱えるように、アラビア語の単語を少々、意味のよくわからないままに唱えたら、ムスリムになれますか。イスラームを受け人れることの意味はこんなことでしょうか。この答えに、皆さんはこんなふうに言いませんか。イスラームを受け人れるということの意味はこんなものではない、と。イスラームを受け人れることの意味は、預言者ムハンマド(SM)の示した教えと主義を理解し、心から、正しく信じること、人生の目的と人生論として、教えのとおりに行動することです。このように行動しない人はムスリ人になることはできません。皆さんの答えからは、次のような結論がでました。第一に、イスラームを知り、理解すること、そしてその通りに行動することが、イスラー人の受人れであること。何も知らなくても、ある人はバラモンになれます。なぜなら、彼はバラモンの家に生まれたからです。そして彼はずっとバラモンでいられます。何も知らなくても、ある人はチョウドリになることができます。それは、彼がチョウドリの血統に生まれたからです。彼はずっとチョウドリでいられます。しかし、イスラームを知らなくては誰もムスリムになることはできません。ムスリムの血統に生まれてもムスリムにはなりません。ーイスラームを知り、理解し、信じて行動したらムスリ人になります。考えてみて下さい。預言者ムハンマド(SM)の教えと人生論を知りもしないで、信じたり、行動したりすることが、どうしてできるでしょうか。知らず、理解せず、信じずに、人はどうやってムスリムになることができますか。要するに、無知なままムスリムでいることは全く不可能なのです。ムスリ人の家で生まれて、ムスリムの名で自己紹介し、人スリムだと主張する人すべてが、真のムスリムだというわけではないのです。イスラー人が何か知っており、理解しており、正しいと信じる人が真のムスリムです。カフェル(非ムスリム)とムスリ人とは名前の違いではありません。例えば、ある人は、ラムプロシャドという名前のせいでヒンドウで、またある人は、アブドゥッラだからムスリムだ、とはなりえません。さらにカフェルとムスリムの衣服の違いが真の違いでもありません。ドゥティ(ヒンドゥ教徒の男性の衣服)を着ているから彼はヒンドゥ教徒で、パジャマを着ているからムスリムというように判断することはできません。ムスリムとカフェルの本当の違いは、二者のイルム、すなわち知識の違いです。ある人がカフェルなのは、彼が創造者と彼との関係について知らず、また、創造者のルールの通りに生活する本当の道は何か、知らないからです。しかし、あるムスリムの息子の状態も、こんなふうだったなら、彼とカフェルとの間のどこに違いがあるでしょうか。このふたりの違いがひとりはカフェルでもうひとりはムスリムだと、どうやって判断しますか。この話を、特に注意してゆっくり考えてみる必要があります。アッラーの大きな恵みに対して皆さんは感謝しています。この恵みを頂くこと、また維持すること、このふたつは、全く、イルム、すなわち知識にかかっているのです。知識がなかったら、人はこれを得ることができません。少し手にしたとしても、それを維持するのはとても難しいことです。いつもそれを失くす可能性と心配を心の中に持っています。この唯一の理由は、彼らの無知にあります。この人たちは、イスラームとクフオル(真実を隠すの意)の間、イスラームとシルクの間の違いがどこかということを全く知らないのです。彼らは暗い道の旅行者のようです。まっすぐな道の上を進みながら、自然に彼の両足は滑るか、違う道に曲がってしまいます。このことを彼は知ることもできません。人生の道を歩きながら、まっすぐな道からいつ外れてしまったのか、彼は気付きません。また、こんなふうにもなるかもしれません。道の途中で、悪魔が来て彼にいいます。「君は、暗くて道に迷ってしまった。私と一緒に行こう。私は君を行きたい所へ送ってあげよう。」暗い道のかわいそうな旅行者は、自分の目で正しい道を見ることができず、無知のために自分の手をダッザル(悪魔)の手にゆだねて、従い始めます。そして悪魔は彼に道を踏み外させ、どこかへ連れていき、所在がはっきりしなくなってしまいます。彼の手もとには、明かりはなく、道を見て、こうだと分かって進むことができないので、彼はこんな大きな危険に出会ってしまいました。しかし、彼がもし明かりを持っていたなら、道に迷わずにすみます。そして、他の悪い人も、彼に道を踏み外させて悪い道へ連れていくこともできません。だから、イスラームについて無知で、クルアーンの示しているルールと、預言者ムハンマド(SM)の示した教えをよく知らなかったら、ムスリムにとって、こんな大きな危険にあう、ということが予想できます。この無知のせいで彼は自分からも道を踏み外すことがあるし、ダッザルも彼を危険な方へ連れていくこともあります。しかし、もし彼に知識の光があったなら、人生のどんな曲がり角でも、どんな段階でも、イスラームのまっすぐな道を見ることができるでしょう。どのステップでも、クフリ(正しいことを隠す人)、道から外れること、罪、結婚しないでの性行為、ハラムを犯すことなど、あらゆる曲がった道や、ハラムの行いと出会っても、彼はそれを見分け、そこから離れることができます。そしてもし、どのような、道を外させるような人が彼の方へ来ても、少し話を聞けば、悪い人と見分けることができます。そして、この人は道を外させる人だ、ということも、それに従ってはいけないということも、はっきりと理解できるはずです。

 私は、イルム、すなわち知識のことについて話しました。皆さんと皆さんの子供たちがムスリムになること、ムスリムであり続けることは実にこの知識しだいなのです。これは平凡なことではありません,知識については怠けることができません。農夫は畑や牧場の仕事を怠けません。畑に水をやり、作物の面倒を見ることを怠りません。牛や子牛に草や食物をやる時間に遅れません。なぜなら、全てのことをきちんとやらないと、彼は食べられなくなり、死ぬ可能性まであるからです。しかしムスリムになること、ムスリムであり続けることは、知識しだいであるのに、なぜ、人はこんなに怠けているのでしょうか。そのせいで、イマン(信仰)のように、大切で価値のあるニアモット(恩恵)をダメにしてしまうことを心配をしないのでしょうか。イマンは命よりも好ましいものではないのでしょうか。ムスリムたちは命を維持するために時間を使い、努力するのに、この十分の一も、イマンを維持するために時間を使うことができないのでしょうか。

 皆さんおのおの、イスラームの先生になってください、分厚い本を読みながら、人生の十数年を勉強のためだけに使って、大先生になってください、とは、私は言いませんでした。ムスリムになるために、こんなに多く勉強したり、学位を取ったりすることは必要ではありません。私が言いたいのは、皆さん、一日の24時間の中から1時間だけ、イスラームを勉強するために使って下さい、ということです。全てのムスリムの子供、大人、年寄り、皆が、少なくとも、次のような知識が必要です。クルアンがアッラーから下された目的を知ること、それをよく理解すること、そして深く自覚するようになること。さらに、預言者ムハンマドが、悪い習慣を捨てて、新しく取って代るために来たということ。アッラーが人間の生活のために特別なルールとやり方を決めて下さったことを、はっきり分かるようにすること。これだけのことについてはっきりわかるくらいの知識を身につけるために、それほどたくさんの時間は必要ではありません。また、イマン(信仰)が、本当に、誰もが好むものだとしたら、これらの仕事に一時間だけ使うことは、それほど大変なことではありません。    (次号につづく)
          (日本語訳 シクダール・タニア)