アッサラーム誌79号より(1999年1月10日発行)
断食
イブラヒーム大久保
サリーム・ラフマン・カーン

一、はじめに

 断食はイスラームの主要な義務のひとつです。成年のイスラーム教徒は、男性も女性も、この義務を果たす必要があります。これは単なるダイエットや肉体的な苦痛のためではなく、精神的な行であり、アッラーに対する崇拝の念を表す、祈りの一つの形なのです。
 アッラーはわたしたち人間を創造され、わたしたちに命や身体、毎日の生活に必要なさまざまなものを与えてくれました。わたしたちが健康で毎日の生活ができるのも、食べ物が食べられるのもアッラーのお陰です。人間は努力しますが、ほんの少し雨が降らなかったり冷夏だったりするだけで、飢饉が起きたりします。いくら科学技術が進歩したからといっても、アッラーがほどよい天気にしてくれなければ人間にはどうにもできません。アッラーは私たちの創造主であり、人間を養っている偉大な存在です。しかし人間は日常に慣れ、その恵みをあたりまえのことと思いがちです。断食を行うことによって、わたしたちは普段忘れているアッラーの恵みを改めて認識し、より一層、感謝と服従の気持ちを新たにすることができます。
 また、私たちはアッラーの奴隷であり、アッラーは私たちの主です。ですから、アッラーがわたしたちにー定の期間、食べ物や他の欲望を控えるように命じられたなら、わたしたちは従わなければなりません。クルアーンはこう語っています。
  「信仰する者よ。お前たち以前の者に定められたように、お前たちに断食が定められた。おそらく、お前たちは主を畏れるだろう」(クルアーン第二章一八三節)
 断食には多くの利益があります。預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は次のようにおっしやっています。
 アブー・フライラーが伝えているには、アッラーのみ使いはこう言われた。「ラマダーン月に、信仰とアッラーからの報奨への期待をもって断食する者は、過去の全ての罪を許される」(『アスハーブッスンナ』より)
 また断食の効用の一つは自分の自制心・克己心を強くする作用です。私たちは毎日の生活の中でたくさんの欲望を満たし、自分の健康に害があるものも習慣にしたりしています。私たちが欲望に常に忠実であり続けると、わたしたちは自分の欲望の奴隷になってしまいます。断食を行うことによって、わたしたちはこういった欲望から逃れ、自分の生活を抑制する精神的な強さを得ることができます。
 また、断食をすることによって、わたしたちは食べ物のない貧しい人々の不幸を体験することができ、それによって貧しい人々に対する同情心や親近感がわきます。
 また、断食という行事を通じて、わたしたちは自分が世界中のイスラーム教徒と一体になったと感じ、同胞意識を確認するのです。 医学的にも断食は、血液中の脂肪分をとり、腸内の細菌や乳酸の有害な働きをおさえるなど、健康に良いものです。
 しかし、これらはどちらかと言えば、二次的なことです。わたしたちはアッラーから断食を命じられました。そこでアッラーの忠実なしもべとしてアッラーのお喜びのため、精神的にアッラーヘ近づくために断食を行うのです。

ニ、ラマダーン月

 ラマダーン月はイスラームにおいて非常に重要な月です。アッラーはクルアーンの中でこう言われています。
  「ラマダーンの月こそは人類の導きとして、また導きの明証、正邪の基準のためにクルアーンが下された月である。それでお前たちのうち、この月家にいる者は、この月中断食しなければならない……」(クルアーン第二章一八五節)
 したがって、ラマダーン月の一ケ月間に毎日断食をしなければなりません。このアッラーからの命令はイスラーム暦二年、シャアバーン月の二日月曜日に預言者ムハンマド(彼に平安あれ)に下されました。
 ラマダーン月は、イスラーム暦の第九番目の月にあたりす。イスラーム暦は月の運行にもとづく暦、つまり陰暦ですので、わたしたちが通常使っている太陽の運行をもとにした暦とは違います。太陽暦と比べて、一年につき、およそ十一日短く、したがってラマダーン月も毎年約十一日間早くくり上がってゆきます。冬、秋、夏、春と全ての季節に順番にめぐってきます。これはどういうことかと言えば、世界中のどんな地域に住んでいるイスラーム教徒も、公平に全ての季節で断食をしなくてはならないということです。実際断食は冬には気候も寒く、日も短いのでやりやすいのですが、夏は暑く日も長いので他の季節よりも大変です。しかしもし断食がある特定の季節に限られていれば、ある国のイスラーム教徒はいつも楽な断食を行い、他の地域のイスラーム教徒は、ずっと苦しい断食をやることになります。ラマダーン月が毎年ずれてゆくことで、世界中のイスラーム教徒は全ての季節の断食を体験することになります。

三、ラマダーン月の始まり

 ラマダーン月の始まりと終わりは新月を観測することによって決まります。計算によっておおよそのラマダーン月の始まりは分かりますが、それがはっきりするのは当日、新月を見たか、見たという信頼すべき情報を得た場合です。イスラームの暦は月をもとにしているので、一日は日暮れから始まります。イスラーム教徒の多い地域では、その日が近づくと子供も老人も建物の屋上や山の上に登って一心に目をこらして新月を見つけようとします。新月はとても細く、また地平線の上に登っている
時間は日没直後の短い時間なので、天気が悪かったり、空気が澄んでいなければ月を見つけるのはむずかしいです。でももし月を見つけることができなかった場合でも、イスラーム暦では一月は必ず二十九日か三十日で二十八日とか三十一日ということはありませんので、ラマダーン月の始まりは自動的にシャアバーン月(ラマダーン月の前の月)三十日の翌日になります。ですから、隣り合う別の国で、ラマダーン月の始まりと終わりがずれることもあり、それはそれで全くかまわないのです。日本のように天候のために新月を見つけるのが難しい国では、新月が確認できなかった場合、一番近いイスラームの国であるマレーシアの日程に合わせることになっています。ラマダーン月が始まったことが確認されると、その夜からタラウィーの礼拝(後述)が行われます。

四、断食の時間

 断食の時間は暁(日の出のさらに前の地平線に曙光がさしたとき)から日没までです。これは実際には暁の礼拝の始まりの時刻から日没の礼拝の始まりの時刻の間になります。この時間内には、飲食や喫煙、性交が禁じられます。さらに口に入れたものを噛んだり、呑み込んだり、また鼻や口から、あるいは注射器や座薬によって体内に薬や栄養剤を入れることも断食を破ることになります。
 しかしうっかりと断食中であることを忘れていて、無意識に飲食したり、何かを口に入れたりしまった場合、気が付いた時点ですぐにやめ、そのまま断食を続ければ良いです。香水、こう薬、化粧クリーム、外用薬の使用、ミスワークや歯磨きペーストなしに歯を磨くこと、水分がのどを通らないように気をつけて口をすすぐこと、自然に唾を飲み込むこと、身体を洗うことなどをした場合は、断食を破ることになりません。
 けれども病気や旅行、月経などの正当な理由がないのに、勝手に断食をやぶるのは、アッラーの命令に対する違反です。わざと断食を破った場合、その埋め合わせに一日につき一人の奴隷を解放するか、もしそれができなければラマダーンの後に連続六十日の断食をするか、もしそれもできなければ六十人の人に食事をふるまわなくてはなりません。
 また、正当な理由があろうとも、ラマダーン月の定められた断食をしなかった場合、後日同じ日数の断食で埋め合わせをしなくてはいけません。
 いずれにしろ、イスラームに入信したばかりの人は、断食を完璧にこなそうと自分を追い込まず、数日間でも自分ができるところから始めれば良いのです。断食は間違いなくイスラームの重要な義務ですが、イスラームに無理はありません。

五、断食の実際

 空の白み始める前に起き上がって断食に備えて軽く食事をとります。この食事のことをスフールと言います。これは預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)のスンナ(実践)です。これによって一日の体力を損なわない程度に断食をすることができます。しかしこの時の食事でお腹をいっぱいにするのは好ましくありません。断食はあくまで行として行うので、空腹を全く感じなければ、その効果は薄いからです。
 断食前の食事は遅い方が良いのですが、断食の始まる時間のあまりぎりぎりの時間まで食べ続けず、開始時刻の十分ほど前に食事を終え、歯を磨いて余裕をもって断食に備えます。
 断食前の食事が終わったら、この日一日の断食を行うという意志を表示します。
 たとえば、「アッラーよ。あなたの命令に従い、今日一日の断食を行います」と考えます。
 もし、その人が望むなら、食事をしてから暁の礼拝が始まるまでの時間を、クルアーンの読誦や、祈りに費やすのは望ましいことです。
 そうして暁の礼拝の時刻に入ったら、日の昇る前に礼拝をささげます。
 このようにしてひとたび断食を始めたら、昼の間は一切の飲食や喫煙・性交をしてはいけません。また、断食を直接破ることにはなりませんが、けんかや議論、他人の悪口や猥談などは断食の精神的な効果を落とすのでつつしむようにします。
 断食中でも仕事をしたり買い物をしたり、禁じられていること以外は普通の生活をしてもかまいません。けれども断食によって集中力や体力が落ち、仕事の能率が落ちるのはあたりまえのことです。ラマダーンというこの聖なる月を良い機会に、仕事に全てをかけるのではなく、人間がなんのために生きているのか、アッラーの偉大な創造などに思いを巡らせ、自分の人生をひとまず立ち止まってゆっくりと考えてみることが大事です。ラマダーン月というのは、まさにそういう精神的な意味のある月なのですから。
 日が沈むと、その日の断食は終了です。すぐになつめやし、ミルク、水などの軽い食事をとって断食を開きます。この食事をイフタールと言います。その時の食事を始めるまえに次のように唱えるとよいです。

「アッラーフンマ ラカスムト ワビカ アーマントワアライカ タワッカルト ワアラーリズキカ アフタ
ルト ビスミッラーヒ ラフマーニ ラヒーム」
  (意味:アッラーよ。わたしはここに断食を行い、あなたを信じ、あなたに頼り、あなたの恵みの食べ物をいただいて、ここに断食を終えました。慈悲あまねく慈悲深きアッラーのみ名において)

 その後、日没後の礼拝を終えてから、各人の好きなように十分な食事をとります。けれどもその時に、昼間食べなかった分を埋め合わせようとして一度に食べ過ぎないように注意したいものです。夜の間は普通と同じ生活ができます。飲食、妻との性交などが許されます。

六、断食をしなくても良い人

 次の人々は断食をしなくてもよいことになっています。
(ア)断食をすると病状が悪化する病人。
(イ)旅行者。しかしもし旅行中でも、特に苦痛なく断食できるようであれば、断食しても構いません。
(ウ)妊婦、および乳飲み子を育てている女性(乳母も合む)。けれども母乳の出や、母体に悪影響がなければ、断食しても構いません。
(エ)月経期間中の女性。イスラームにおける月経期間は最低三日三晩、ただし体質による出血が続く場合、十日十晩を過ぎたときは、月経期間は終了したとみなして断食を始めなければいけません。
(オ)出産後の出血期間。最低期間はなし。最高四十日間まで。
 以上の人々は断食を遅らせることができますが、断食のできない条件が終わり次第、後日できなかった分の日数、断食をやらなくてはなりません。ただしラマダーン月の間、二つのイード祭日、アイヤーム・タシュリーク(ズルヒッジャ月の十一、十二、十三日)はやり直しや償い、任意の断食をしてはいけない日です。
(カ)老人や虚弱なために断食にたえられない人。この人々は断食の義務を免除されます。けれどももし金銭的に余裕があれば、自分が断食できなかった日数一日につき、一食分の食事か、それに相当する金銭を貧しい人に施さなければなりません。
(キ)思春期に達しない子供。けれども子供のうちから断食に対する心構えをさせるために、数日間、あるいは一日のうちの数時間だけでも断食を体験させるといいです。

七、タラウィーの礼拝

 ラマダーン月の間には、毎日五回の義務の礼拝のほかに、預言者の慣習としてのタラウィーと呼ばれる礼拝があります。この礼拝は八単位、十単位、または二十単位行います。実際に礼拝堂で行う場合は夜の礼拝の後、預言者の慣習の礼拝を終えてから集団で行います。もし先導者がクルアーン暗記者であれば、毎晩クルアーンの三十分の一をこの礼拝中に読み、ラマダーン月に全クルアーンを読み切ります。これも預言者ムハンマド(彼に平安あれ)のスンナです。タラウィーの礼拝の後に続けて、普段は各個人で行うウィトルの礼拝も、集団で行います。

八、ラマダーン月の過ごし方

 ラマダーン月は断食という行を通じて、自分を精神的に磨く月ですから、普段とは違った生活習慣を心がけるべきです。まず、ラマダーン月とクルアーンには密接な関係があります。クルアーンの最初の啓示はこの月に下りました。そこでこの月には、普段よりもっと多くの時間をクルアーン読誦に費やすべきです。ラマダーン月に一度、クルアーンの始めから終わりまで読破することが薦められています。
 また、義務の礼拝は当然のこと、預言者の実践の礼拝や義務でない任意の礼拝もできる限り多く行うべきです。
 断食の目的の一つは、飢えや貧困とはどんなものかを体験して、貧しい人に対する親近感を育てることにあります。ですから、施しをすることは断食の目的に強くつながっていて、イスラーム教徒は余裕のある範囲で、できるだけ多くの施しをすることが薦められます。たとえ金銭でなくても、断食を間くときの食事を他人を招いて一緒に食べることもその一環です。
 また、多くのザカートの決算日をラマダーン月にしています。
 それから、いくら断食などの善行を積んでも、その努力を無駄にしてしまうようなことがあります。それは他人のうわさや悪口、怒りやけんかなどです。空腹による苦痛を、こんな悪い方向に向けないように気を付けたいものです。

九、ラマダーンの終わり

 ラマダーン月は、その始まりと同じように新月を見つけることによって終わります。新月が見つかればその晩はタラウィーもなく、翌日はお祭りですから、全てのイスラーム教徒は断食の行が終わったことに対する達成感と満足感で休みます。もし新月がみつからなければタラウィーの礼拝を行い、翌日の断食に備えます。いずれにせよ、ラマダーン月は二十九日か三十日であり、それ以上にもそれ以下にもなりません。

十、イード

 ラマダーン月の明けた翌日はイスラームのお祭りです。アッラーの教えの断食をなしとげたことに対してアッラーに感謝して祝う行事です。この祭りのことをイードル フィトルと言います。この日の午前中にイスラーム教徒は晴れ着を着て広場に集まり、イードの礼拝をささげます。その後自分の家族や友人たちと食事をしたり、遊びに行ったりして幸せのひとときを過ごします。
 イードの礼拝の前までには必ずザカートル フィトル、あるいはサダカトル フィトルと呼ばれる施しを行います。これは、そこの国民の主食一サーア(約二・五キロ)分に相当する施しで、その日、食べるものが十分にある全てのイスラーム教徒の義務です。これによってラマダーン月の間の過ちを償い、イードを祝うお金のない貧しい人を助けることができます。日本では幼児を含む家族全員の一人あたま約千五百円になります。
 預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)はこうおっしやいました。
 アブー・フライラーが伝えているところによると、預言者ムハンマド(彼に平安あれ)はこう言われた。「アッラーは言われた。『……断食を行う者は喜びと幸せを二度受けるだろう。断食明けのとき、断食が終わったという喜びと、審判の日にアッラーの前に立ったとき、自分が断食のつとめを果たしていたことについての二つのよろこびである』」」 (『サヒーフル ブハーリー』より)