アッサラーム誌5号より
座談会 前嶋信次博士を囲んで

前嶋信次 文学博士
慶応義塾大学名誉教授(専攻東洋史)
1903年山梨県に生まれる
1928年東京大学文学部卒
主要著書 アラビア史、アラビアの医術、世界の歴史ーイスラーム世界、アラビアンナイト

 きょうは、前嶋先生にイスラミック・センターまできていただき、いろいろとイスラームの宗教、歴史、文化等について、また日本とイスラームの関わりについておうかがいしてゆきたいと思います。
  まずはじめに前嶋先生がイスラームの世界に興味をもたれるようになった契機といったものは何だったのかうかがいたいのですが。
前嶋: 本来、私は東洋史をやっていたんですね。それで卒論を書かなくてはならなくなった時、私の先生に廣田豊八という人がおられて、いろいろと御指導をあおいでいたんですが、特に中国のイスラーム、回教ですね、その分野で研究している人がいないというので、本を貸して下さいましてね。そうこうするうちにイスラームそのものに興味の対象が移ったのです。それがちょうど昭和のはじめころのことですが、やがて中国から西の方へ進んで勉強してみようと思ったんです。まあ今から思うと誰かわかりませんが、私を西へ西へとひっぱっていってくれたように思われます。運命というものかもしれません。
 日本とイスラーム
 ところで、イスラームは西の方では、アフリカからスペインまではいって、そこでとまってしまったんですが、一五世紀には逆にスペインから追い出されることになります。それでスペイン人としては同じように、東の方でもイスラームが東進するのを阻止しようという気持があったんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。
前嶋: 事実、ルソン島までイスラームがきた時、スペインがあの地方を占領し、それ以上イスラームが東進するのをくいとめた形になっているんです。

それは、日本に何か影響があるんでしょうか。
前嶋: それはあると思います。というのは、もし、スペイン人がこなくてフィリピン全土がイスラームになっていたら、おそらく日本に(九州あたりに)も来ていたでしょうからね。

もっと昔にムスリムが来日した記録なんか残っていないのですか。例えば正倉院の御物なんか、ずいぶんペルシャの影響を受けているんですが。
前嶋 若干来ていたと思います。例えば足利時代ですが、楠葉入道面忍などはムスリムだったらしい。海から来たようですね。

昔、日本は唐の時代に遣唐使を何度も送っていますが、当時長安は世界の中心だったので当然ムスリムの人々もきていたと思うんです。それで長安なんかで日本の留学生が、彼等と接触したというような記録とかエピソードとかといったものはないんでしょうか。
前嶋: 留学生が、ムスリムと話してきたというようなはっきりした記録はないようですね。しかし、大伴古麻呂という遣唐副使が753年の正月、長安の含元殿で新羅の使節と席次争いをした話が伝わっていますが、ちょうどその時、日本の使節の横にすわっていたのが大食国、つまりアッバース朝のカリフの使節だったという記録があります。それから鎌倉時代ですけど慶政という僧が中国の泉州へ行って、そこでペルシャの商人に詩を書いてもらったんですね。いわゆるルバイヤツト(四行詩)ですけど。それが二首あって、アラビア文字を使った極東における最古の記録として残っているんです。これは13世紀のはじめのことです。

近世初期、日本が鎖国するにあたり、日本人は、スペイン人がムスリムとか他の異教徒をたくさん殺したということを見たり聞いたりして、それを日本に帰ってからみんなに話したときいたことがあるんです。そのため日本は警戒して鎖国したんじゃないかと思うんですが…。
前嶋: 日本から追放されたクリスチャン達、例えば高山右近などは、ルソンに行ってから大事にされたんです。でも商人なんかで乱暴したものは、あちらで相当殺されたことがあるようですね。それに中国人もだいぶいじめられた。スペインは教条的なカソリックですから、そういうことが多かったと思います。

それで、スペイン人がフィリピン人にしたと同じように、日本人にもするかもしれないと思って鎖国したんじゃあないでしょうか。
前嶋: それもあると思います。あまりキリスト教徒が多くなると、日本にとって危険だと考えたらしいのです。

では、イスラームが日本のちかくまできてピタッととまったのは、そういう理由からでしょうか。
前嶋: イスラームを日本に布教したものは、当時いなかったと思います。中国の問題があって、中国にはイスラームはだいぶ入ってきていたんです。ところが中国社会は一つの海みたいなものですから、それに包まれてしまってなかなか日本には、入ってきにくかったのだと思います。つまり、中国におけるイスラームは、あまりにも少数派であって、さらにその外にひろがるほどの勢力はなかったのだろうと思われます。

ところで、たとえばフビライが元冠で日本に攻めてきたときなんか、ムスリムがずいぶん遠征に参加していたんじゃないかと思うんですが。
前嶋: 鎌倉にフビライの使者が来たとき、その中にムスリムがいたことは明らかです。ところがそれが切られたんですね。名前もわかっているのですが。それ今いわれたように、遠征軍のなかには、ムスリムが沢山いただろうと思います。しかし、あれは結局失敗したもんで、軍にいたムスリムのことは、わからずじまいになってしまったんだと思います。

朝鮮の方は、どうなんでしょう。
前嶋: 朝鮮にもむろんイスラームははいっています。高麗史なんか読むとよくムスリムの名がでてきます。しかし、ここでもイスラームが広まらなかったんですね。

日本に最初に入ってきたクラーンは中国語版なんですか。
前嶋: どうでしょうか。まあ翻訳したのは、明治になってから英訳によってですからね。ただクラーンの中国語訳というのは比較的新しいのですよ。中国のムスリムは、クラーンをアラビア語で読んでいましたからね。

日本におけるイスラームの歴史
日本では、イスラームが弾圧されるといったようなことはありませんでしたか。
前嶋: ありません。むしろ戦時中でしたか、ある国会議員が、イスラームをキリスト教、仏教などとならぷ宗教として公認する考えはないかと、議会で質問したことがあったということを聞いたことがあります。それで文部省だったか、いろいろとイスラームについて調べたりしたことがあったということを聞いた記憶があります。たしか昭和17年か、18年ころのことと思いますが、正確ではありません。さらに日本の軍部の人達が、中国や東南アジアのイスラーム教徒と交流しなければだめだといっておったんですね。頭山病翁、葛生能久翁といったような右翼の人達もそうでした。クルバン・アリさんが、モスクをたてられた時なんか多くの名士たちが創立記念の式典に出席し、盛大だったそうです。そういうわけで、イスラームは奨励しなくてはいけないという話はきいても、押えなくてはならぬという議論がおこったことは聞いたことがありません。しかし、一般の人達はイスラームに関しては、きわめて無関心でほとんど何も知らぬ人が多い有様でした。

一般的に、「剣かコーランか」という言葉があります。これに関して、イスラームは剣でムスリムをふやしたとよくききますが、これには二つあると思うんです。一つは剣でムスリムにした。もう一つは剣で国を征服した。これは互いに違うことですね。時々我々でも間違うんですが…。
前嶋: ええ、そうですね。宗教のために戦争したというようにいわれるんですが、私共はそうではなくて、アラビア人が七世紀に大征服を行なった際も、あまりイスラームは強要していないということをいっているのです。ただ、改宗をすれば軽い税金ですむとはいっています。イスラームはその土地の人が納得してムスリムになることで広がっていったので、イスラーム化には何百年という歳月がかかるのが普通でしたし、そのことは世界史が実証しています。今は、知識人とか学生などはイスラームに関して、かなり正しい認識をもつようになったのではないかと思います。イスラーム諸国に旅する人達もふえてきましたし…。

ところで昔の日本の考えと、イスラームの考えは似ているところが多いような気がするのですが、そのへんはどうでしょうか。
前嶋: そうですね。清浄を尊ぶといったようなところが似ているかもしれませんね。

私は、日本の武士道が自分の主君に対して忠誠を誓うところなんか、ムスリムが神に対して忠誠を誓うところと非常に似ているんじゃないかと思うんですが…。
前嶋: 私がイラクに行った時ですが、そこであちらの人と話していると、何人かが「私は日本人が大好きだ」というんですよ。「特に山下泰文大将が好きだ」といった人もありました。つまり彼のもっていた精神に惹かれるということらしいんですが…。

さて、日本の学者に関していえば、例えば今までの歴史の見方は西洋中心だと思うんですね。それで日本の学者の方が、それを直そうとか、あるいは抵抗しようという気持をもって何かなされたことはあるんでしょうか。
前嶋: 西洋中心の歴史観を見直していくということは相当にやっているんですよ。例えばイスラームの歴史についても「剣かコーランか」というようなことは誤まりだといっているんです。

クラーンについて
ここでクラーンのことについて伺いたいと思うんです。それで今まで日本でクラーンを日本語に訳された方が、若干おられるんですが、ムスリムとしては三田先生が最初に訳されたわけです。それで前嶋先生は、三田先生の訳と他の人の訳とを比較されて、何か違っているようなところがあると思われますか。
前嶋: まあどうでしょうね。一般的にいえば、三田さんは、メジナ、メッカにいかれ、そこに滞在して訳されたわけですが、クラーン自体が非常に深い意味をもっていますので、いろんな点で、他の訳者と意見の違うところがでてきても当然だと思うんです。

先生自身は、クラーンを読まれてどのようにお感じになりましたか。例えば、クラーンを読むことによって、世の中がよくなるとかといったことに関して、何か感想といったものがあれば、おききしたいんですが…。
前嶋: 私の感想としては、まずこれは聖典ですから、できればアラビア語で読むべきだと思っています。それと学者としては、クラーンは、いくら研究してもしつくせないような気がしますね。それだけ意味の深いものだと思います。

昔、クラーンの訳者で大川周明という戦前活躍した人がいますが、先生は彼をごぞんじだったのですか。
前嶋: よく存じています。

彼は、どうしてイスラームにひかれたんでしよう。
前嶋: あの方は、東大文学部の学生だったころ、印度哲学を研究していましたが、そのうちイスラームに興味をもちはじめて、いつも大学の図書館に行って英訳のクラーンを読んでいたんです。またあの方は鼻の高い人なもんで、当時ある人が歌によみまして、「図書館で、クラーンを読んでる鼻高男は……」なんていう句があるくらいなんです。そして年をとってから、ヨーロッパ人がアジアに来てアジア人をずいぷんいじめたといった内容の博士論文を書いたんですがね。その時にイスラーム教徒の覚醒が重要な役割を演じているのを感じ、もっともっとイスラームを研究しなくてはいけないというように考えられたらしいのです。それで井筒氏も私も皆、あの方の集めた文献などを利用させてもらいました。

アラビアンナイト
新聞で読んだのですが、先生は今、アラビアンナイトを訳されているそうですね。
前嶋: 今、半分くらいです。私は、カルカッタで十九世紀はじめに印刷された原典から直接訳しているのです。

それはいいですね。でも、あれはアラビアンナイトじゃなくてペルシャンナイトじゃないんでしょうか。
前嶋: ペルシャの影響も、むろん相当はいっています。しかし、やはりアラビアンナイトというべきだと思います。

日本語訳では、バートンのものがありますが、具体的に原典などと比較されて、どのようにお感じになりましたか。
要するにバートンの場合は、性生活の点を強調しているんですね。そこが違うと思います。

小さいころ、我々はよく「シンドバードの冒険」や「アリババと四十人の盗賊」なんか夢中になって読んだ記憶があるんですが、あれは実際のモデルなんかが、具体的にあったんですか。
前嶋: シンドバードについていえば、アラビア人、ペルシャ人は、当時盛んにインド洋貿易に活動していましたからね。色々の話がバスラとか、ああいった所に伝わったのだと思うんです。もちろん実際の話と仮空の話とが、たくみに組合わせられていますけれども。

言語学の面からみて、歴史的に、アラビア語は、何か日本語に影響を与えているんでしょうか。例えば同義語なんか多いですが。
前嶋: それは偶然でしょうね。ただ例えば、ジュバンとかシロップなんていう言葉は、アラビア語からきていますね。ジュバンはジュッバからきたものでしょう。それからシロップは、ヨーロッパ人を介してアラビア語の「シャラープ」が伝わったものですが、日本には、中国から「舎利別」としてはいっています。

日本におけるイスラームの将来
話は少しかわりますが、先生は日本におけるイスラームの将来というものをどのようにみておられますか。
前嶋: ムスリムは徐々にではありますが、ふえると思います。今はようやく基礎ができた状態だと思いますから、これからはぼつぼつ信者がふえると思いますよ。

私は、ひとつ疑問の点があるんですが、イスラーム圏でもなかなかいないような日本のすぐれたイスラーム学者が、なぜすすんでムスリムにならないのかと不思議に思うんです。そのへんはどうでしょうか。
前嶋: それは大きな問題です。要するに、日本では今、ムスリムになった人達とイスラームを研究する人達とが別々になっているんです。この二つがいっしょになった時、日本のイスラームは長足の発展をとげると思います。しかし、またこの二つのグループがいるということは、イスラームというものを、内部から見る人々と外部から見る人々との双方があることになって、イスラームの理解のためには決してマイナスとはいえないように思われるのです。
私は、こう思うんですが…。つまり、学者の方々は、プライドをもっている。ところが一般のムスリムになった方もプライドをもっている。だから両方頑張っちゃってうまくいかないんじゃないだろうかということです。

まあこの問題ですが、一般の日本人にイスラームのことを話す場合、その人は、これがいいとなるとムスリムになる。ところが、イスラームを研究している学者は、どうしてイスラームに帰依するのをためらうんでしょうか。そこんところを知ることができれば、もっとうまくいくんじゃないかと常々思ってっているんです。
前嶋: そのことは、日本においてイスラームを研究している人達が一堂に集まって充分に討論してみる価値があると思います。それで私にひとつ経験があるんです、ある時イラクのカルバラーに行ったことがあるんです。そこでとある土産物店に入っていくと、そこの主人が「アンタ、ムスリム」ってきくんで、それでつい自然に「ナーム(はい)」と答えるとにこやかに握手するんです。その時は、まったく自然にその言葉が□に出てしまった覚えがあるんです。私達は、日本に生まれ、イスラームという宗教に接する機会がなかったので、ムスリムになる人々も少ないのですが、もしイスラーム社会にくらしていたら、ごく自然にこの教えを受け入れるようになるのではないかと思われます。

まあ、我々の考えでは、イスラームというのは、水や空気のように非常に自然なもんなんです。けれども若い人たちは、どうしても新しい刺激を求めてしまう。ところが、最近は少し様子が変わってきて、安息を求めるような動きが出てきていると思うんですが、その点は、どうでしょう。
前嶋: ええ、若い人でもまじめに考えている人はたくさんいます。中にはうわついた考えの人もいて、それはよく目につくんですが、数はあまり多くないです。大部分の青年は、人生をまじめに考えているんだと思います。

どこにいっても、まじめじゃない人はいると思うんですが、我々はまじめに考えている人ともっと仲よくしてゆく必要がありますね。そのために先生方の協力もぜひお願いしたいものです。それで何かアドバイスでもあれば、おっしゃって下さい。
前嶋: イスラームの社会では、人々が互いに兄弟であるとの強い連帯感をもって交わるというのがすばらしいことだと思います。これはイスラーム世界を旅してみて切実に感ずることです。
日本の人達にイスラームのことをやさしく説明するには、どういったことが必要でしょうか。
前嶋 今やっておられるように本を出されるのもよいと思います。特にメッカ巡礼記などは、とてもよかったでです。

さいごに
さいごになりましたが、もしこのイスラミック・センターが、イスラームの学者の方々をサポートして何かシンポジウムなりゼミなりをやることになれば、前嶋先生にも是非御協力をお願いしたいと思います。 前嶋: もちろんいたしたいと思います。我々としても、イスラーム諸国の学者の人達と連絡や交流をしたいと思っていますし…。また昔、エジプトの大使館の方で熱心な方がおられて、その人なんかが、日本におられた時には文化交流が活発だったですね。

先生にお願いしたいんですが、これから我々の出版物にも是非寄稿していただきたいと思います。また西洋のイスラームに対する誤まった見解などを、どのようにまちがっているか具体的に指摘していただきたいと思います。
なるべく御期待にそえるよう努力してみたいと思います。ただ西洋のイスラーム研究は、歴史も古いので大変に進歩しているところがあると思います。しかし、イスラーム世界の学者達の研究をもっと利用させてもらわねばならないことは、言うまでもありません。この双方から充分に学ぶところに、日本の立場を求むべきではないかと、このように考えているのです。

きょうは、貴重な時間をさいていただき、本当にありがとうございました。先生には、これからもいろいろとお教えいただきたいと思います。