アッサラーム誌49号より(1991年7月1日発行)
イバーダ(崇拝)の概念
ムスタファ・アフマド・アルザルカ

 イスラームにおいてイバーダ(崇拝)とは、人間の魂と日常生活を浄化するものである。
 人間は被造物であり、創造主アッラーヘ帰還する運命にある。このアッラーのしもべたる人間が霊的対面、畏敬、献身、謙虚、服従の姿勢でアッラーに向かうことをイバーダ(崇拝)と呼ぶ。
 崇拝は、偶像崇拝を含むすべての宗教の不可欠な部分であるが、その目的や方式はそれぞれ異なる。ある宗教では、崇拝は禁欲と人生からの隠遁を促し、現世の楽しみを否定することにつながる。また、一部の宗教では特定の聖域や、特定の僧侶階級の指導のもとでしか崇拝を行えないようになっている。イスラームの崇拝の概念は、良い人生は、健全なる信仰と思考、魂の清浄と正しい行為によって構築されるという基本的理念に基づく。
 完全無欠なる唯一神アッラーヘの信仰を通して、イスラームは人間の知性から偶像崇拝や迷信の汚れを一掃することを求める。実際に多神教や偶像崇拝は、人間の知性と尊厳をおとしめるものである。イスラームはいかなる形態の偶像崇拝も拒絶する。それは一見偶像崇拝には見えない場合もある。そのためイスラームは墓前での礼拝を禁じ、アッラーの御名以外の名によって誓うことも禁じている。
 偶像崇拝は歴史的記念物を崇める形をとることもある。ホダイビアのとき、預言者と教友たちはある木の下で、集合し、アッラーの道のために命をかけることを誓ったが、後に人々はその木を大切にするようになっていた。カリフ・ウマルはその木を切り倒させた。それが人々の心に神聖なるものとして残ることをおそれたのである。このように、創造主と被造物との明白な区別をぼやけさす一切を排除することによって、イスラームは人間を迷信と無知の暗黒から真実の光へと引き上げたのである。
 イスラームにおける崇拝の目的は、人間の魂と日常生活から罪と悪を一掃することである。その精神を損なわず、誠実さをもって崇拝を行えば、その浄化は達成できるようになっている。イスラームにおける崇拝の特徴 イスラームにおる崇拝の特徴は、次のように性格づけることができる。

一、仲介の不要

  個人と創造主の間は直結であり、何ものの仲介も必要とされない。いかなる人も事物も、個人と創造主の間を仲介することはできない。いかなる宗教においても、僧侶や牧師、聖人や預言者、あるいはご神体、神獣、神木、神石、偶像などが神と人間の間を仲介することはあり得ず、神の代理として罰や褒章を与えることもできない。まして信者の神への崇拝行為を受け入れるか拒否するかの決定に関与することはない。
  イスラームにおいても、宗教学者、指導者はアッラーと人間の間の仲介者ではなく、知識を伝える普通の人間にすぎない。その知識を人に伝えず我がものとして秘す者は、罪を犯すことになる。つまり、イスラームでは宗教学者の決定を信者に押し付けることはできない。宗教指導者や宗教学者たちの役割は、人々に助言を与え、正しい道に導くことである。預言者でさえアッラーと人間の仲介者ではない。アッラーーは預言者に告げた。
 「意識させよ、汝は真に喚起者にすぎない。かれらの行為の管理者ではない」(クルアーン 第八八章第二一~二二節)
 預言者ムハンマド(彼の上にアッラーの祝福あれ)は娘ファーティマに言った。
「ムハンマドの娘ファーティマよ、私はアッラーの前で君に何の助けにもなれない」
 どんな人間も、自分の人生は自分だけのものであり、自分自身とアッラーだけに責任をもつ。預言者であれ聖人であれ、いかなる偉人も別の人間の人生の総決算に関与することはできない。

二、特定の場所に限定されない

 イスラームは個人のイバーダ(崇拝)を仲介者の干渉から解放しただけでなく、特定の場所の限定からも解放した。イスラームでは個人の家、乗馬中、船の甲板や飛行機の中、モスクなど、どのような場所でも礼拝を行うことができる。人間はどこにいても、創造主との霊的対話に入れる。聖預言者はこのことを次のように語った。「地球は清浄なモスクとして私に貸し与えられた」

三、全般的な視野

 イスラームは崇拝の範囲を広げた。崇拝は特定の方式や期間には限定されない。アッラーの命令を遂行する意図を持つあらゆる善行は崇拝行為である。飲食、睡眠、清浄なレクリエーション、心身の欲求を正常な範囲で満たすことなど、アッラーのお喜びを願う意図があれば、すべての健全な楽しみは崇拝行為となり、その褒章を得られる。この意図のもとに睡眠や飲食や運動をもって心身を強めることも崇拝行為である。預言者は次のように言っている。
 「強健な信者はひ弱い信者より、アッラーに愛でられる」
 つまり日常の行為のすべては、アッラーのお喜びを意識して行う場合、献身と崇拝の行為になる。このように、人間は現世の楽を享受しながら精神的向上を得ることができる。そのすべてを楽しみながら、純粋な心を保ち、アッラーとの対話にあり、アッフーのお喜びとの一体感を持つ。仕事に集中しているときでさえ、その意図は心を離れず、アッラーヘの服従、従順、献身の状態にある。これこそ崇拝の真髄である。イスラームにおいては、他のある種の宗教と異なり、人間の身体の本能的な欲求を呪うことはない。
 このような身体の欲望を満たす楽しみを抑圧することは、美徳とはされない。合法の範囲を逸脱せず、他人に迷惑をかけず、道徳を無視せず、社会に害をおよぼさないかぎり、イスラームは人が現世の楽やよいものを享受することを望む。
 この崇拝の範囲の拡大には、深い知識と重要な理由がある。それは人間がアッラーとの永続的な意識のつながりを持ちつづけるためであり、特定の礼拝などで一時的に創造主アッラーを意識するだけでは足りないからである。そしてイスラームは人が人生で欲望の柔軟な制御に練達し、その人生が来世での至福の源泉となることを望む。クルアーンは告げている。
 「アッラーの与えられたものを通じて来世の住居を求め、またわれらが汝に授けた現世の分け前も無視するなかれ:・」(クルアーン 第二八章第七七節)
 よい意図によって快楽さえ崇拝行為になることを知った人間には、アッラーに従順でありつづけ、アッラーのお喜びを求めつづけることは比較的に容易である。アッラーヘの献身が、即現世の放棄や苦行、禁欲などにつながらないことを知っているからだ。自分も楽しみながらアッラーのお喜びとの一体感を得られるからである。その意図は、人間が自己中心的になってアッラーを忘却することを防ぐ。預言者の言葉によると、愛をもって妻の口に食べ物を入れてあげることは褒章される行為である。これはクルアーンが言うように、家族生活の根本である愛情に基づくからである。
 「アッラーのしるしの中には、汝らの中から配偶者をつくり、汝らが慰安を得られるようにし、また汝らの間に愛と情けを植えた:・:・」(クルアーン第三〇章第二一節)

意図と動機

 ムスリム法学者や宗教学者たちは、よい意図が習慣を崇拝行為に変えると言っている。よい意図は人の人生において大きな違いをもたらす。
 ある人々は、単に身体的欲求を満たすために飲食その他を楽しみ、動物と同じレベルに生きる。これはかれらが動物的欲求を満たす以上の動機を持たないからである。その人生で「良き意図」を欠く人々は、明確な価値基準を持たず、善と悪の境界が曖昧になり、楽しみの限界を大きく後退して禁欲するか、限度を越えて欲望に溺れ、罪と道徳的退廃にのめり込む。
 一方、他の人々は同様に欲求を満たす楽しみを持ちながら、高貴な意図と動機により、その楽しみのすべてが褒章される崇拝行為となっている。かれらの楽しみや行為のすべてが、アッラーのご意志に従う動機に裏打ちされているからである。その崇高な動機は、かれらの日常の行為に反映され、明確な価値基準により善と悪の境界線がはっきりし、人生をおおらかに楽しむための欲望の柔軟な制御が可能となる。かれらは「良き意図」を持つから、限度を逸脱することなく、罪や堕落に陥ることもない。恐れも憂いも迷いもなく、限界まで一杯の充実した楽しみと喜びを得られる。
 この違いの真の要因は、一方が万物の根源であるアッラーを常に意識しているのに対して、他方は不注意で自己中心的な動物にすぎないからである。後者についてクルアーンは言う。
 「信じない者たちは現世の悦楽をとり、家畜のように食べ、かれらは火獄の住人である」(クルアーン 第四七章第一二節)
 万物の根源であるアッラーを意識しない者は、存在意識を持たず、生きている証拠を必要とし、盲目的に刹那的な快感を追い求める。だが、その一時的な悦楽は魂の本元の欲求に対しては似て非なる効果しかもたらさず、健全な満足は得られない。そのえせ満足を求め、悦楽を追い、欲望に鞭打たれ身を焼かれる。かれらは来世を待つまでもなく、大獄に一歩足を踏みいれている。
 人間は意図を純粋にし、それに従った人生の姿勢を持たぬ限り、喪失の中にいる。ことは悲しいほど単純である。「良き意図」さえ持てば、快感や悦楽の追求でさえ永続的な満足をもたらすものなのに。自らの根源であるアッラーを無視して、自らの存在感を放棄して、どのような満足が得られるのか。現世と来世の永続的成功と充実がこれほど簡単に得られるというのに、それを無視して大獄に行くのは悲劇である。
 これがイスラームにおける崇拝の概念である。人間の必要や欲求を否定することなく、イスラームは人類をその尊厳とふさわしい地位に高めようとするものである。

特定儀式の目的

 崇拝の広義の解釈は、アッラーのご意志に沿うことを意図するすべての合法的な行為であるが、これは礼拝、断食、ザカート、巡礼などの義務的儀式の免除、あるいはそれらが重要ではないという誤った観点を支える口実に使われることがある。かれらは、真の信仰は礼拝や断食などの形式ではなく、純粋な心、良き意図、善行であるという。たしかに、心がなければ形式は無意味である。だからといって心の入った儀式まで軽んじるのは誤りである。イスラームではそれらの儀式はアッラーと人間とのつながりを強める主要の崇拝行為であり、それによって純粋な心が培養される。アッラーと人間とのつながりは内的なものだけではなく、外的な一切を含む。人間は考えるだけでなく、行勤しなければならない。良き意図と純粋な心を行動に表す最初の行為が崇拝儀式であり、これを行うことで、心の純粋な輝きを社会的な行動に表すことが容易になる。
 また、イスラームは一つの社会である。集団礼拝などの儀式を通じて、人々の融和が育まれる。そこでイスラーム社会の形式を無視して、同胞を軽んじて、アッラーだけを相手にするというのは傲慢である。礼拝が重要であることは預言者ムハンマド(彼の上にアッラーの祝福あれ)の言葉にもある。
 「礼拝はイスラームの支柱である。これを捨てる者は、宗教の柱を崩す者である」

現実的理念

 イバーダ(崇拝)は人生のすべてを包含するというイスラームの宣言の真意は、信仰により人生を改革し、困難に対して忍耐と不屈の精神を授け、善を確立し悪を駆除するための勇気と努力を持たすことにある。
 このように、イスラームは敗北主義、隔離主義、禁欲主義などの思想に反対であり、現世否定の禁欲主義が現実の活動的な社会とその抗争から逃避して停滞と退廃に陥ることを誤りとしている。これらの思想はイスラームとは無縁のものである。生活には力、物質的資源、活動的習慣が必要である。生活闘争でのイスラームの役割は積極的なものである。イスラームは人間の能力と資源を個人と社会のために有用に方向づける。イスラームにおける崇拝の方式はこの健全な方向づけを保証するシステムである。
 このイスラームの姿勢を明らかにし、精神的な生活の意味を表すため、一つのエピソードをハディースから引用しよう。信者の母アーイシャはあるとき、みすぼらしい男が歩いているのを見た。頭をたれ、腰を曲げ、見るからに弱々しく、半分死人のように歩いていた。彼女は男について聞き、聖人であるとの答えを得た。アーイシャはそのような聖人性を否定した。「とんでもないことです。ハッターブの息子ウマルは人々の中で最も聖人的な人間でした。しかし彼が語るときは大きな声で語り、歩くときは活発敏速に歩き、殴るときは相手に打撃を与えました。私たちが内面でより精神的になれば、外的な世界ではより率直で力強くなるはずです」