アッサラーム誌49号より(1991年7月1日発行)
ザムザムの泉
アサード・クルバンアリー

 マッカのカアバ神殿、あるいはイスラームそのものを語るとき、預言者イブラヒームを避けて通るわけにはいかない。彼はアッラーの友、純粋な信仰の持主、唯一神信仰の樹立者、信仰の父と呼ばれているほどの偉大な預言者であった。たが彼は、大変な試練に耐え、精神的苦悩に身を焼き、はじめて純粋な信仰を得ることができたのである.。このイブラヒームの試練から、子孫たる偉大な民族の台頭、そして最後の預言者と真の宗教の完成にいたる道程の背景に、ザンム、ザンムという泉の湧き出るリズムが奏でられていた。 王者イブラヒームは妻と幼子をアラビアの荒廃した谷間に遺棄した。八十六才の老年にしたって、若くて美しい妻ハガルとの間にできた初めての息子イスマイール。
普通なら手元に慈しんで育てるはず。なぜ彼はそのようなことをしなければならなかったのだろう。老妻サラの嫉妬と怒りによって母子は追放されたという説もある。だが仮にもアッラーの預言者、民族の王、英雄、独裁者たるイブラヒームが女々しい男のように老妻の尻に敷かれて、最愛の妻と息子を泣く泣く死の淵に追いやったとは思えない。その謎は深い。
 クルアーンによると、妻子を遺棄したイブラヒームは次のように祈ったという。  「主よ、私は子孫のある者をあなたの聖なる館のそばの、耕せない谷間に住まわせた。かけらに礼拝の務めを守らせてください。そうすれば人々の心をかれらに引き付けるでしょう。またかれらに果実をお授けください。きっとかれらは感謝するでしょう」(クルアーン第一四章第三七節)。
 このときのイブラヒームの念頭には妻と子が死ぬはずはなく、そのマッカの周辺に子孫が繁栄し、人々を引き付けるであろう予感があった。妻子の放置は単なる追放ではなく、偉大な民族の台頭と最後の預言者ムハンマド、そして宗教の完成にまでつながるアッラーの計画の一環であった。
 その偉大なる民族は、光輝ある父親イブラヒーム、賢明で忍耐強い妻ハガル、従順な息子イスマイールを始点とする。かれらはアッラーヘの愛に溢れ、霊的な道を歩む人々であった。クルアーソはかれらについて数々の事実を物語るが、その中には文明、道徳、人格の諸要素が浮き彫りにされ、また人類への教訓と警告が含まれている。
 その物語りは、アッラー崇拝の物語りである。人間には崇拝、奉仕、献身の本能がある。人は生まれながらにして、創造主のしもべの立場にいる。いかに気張っても、人間は宇宙に君臨することはできない。人間は弱さを自覚し、本能的に保護者を求める。そして太陽や星々など到達不可能な高みにあるもの、獅子や蛇など恐ろしいもの、海や雌牛など恵みを与えてくれるものを神とする。自らの知恵だけでは、人間は真の神を発見できない。そのためアッラーは預言者を遣わし、啓示を下し、人々を正しい道に招いている。神示を捨て、自らの知恵のみに頼って神を求めるとき、ほとんどの者は欲望、感情、無知の織り成す暗黒にさまよう。その暗黒の渦の中で溺れかかる彼らは、わらをもつかもうとする。出来事と出来事が重なり合い、特別の意味を持つようになり、石や樹木や幻影が神となり、池や河の氷、牛の尿などが聖水となる。
 人間は万物の創造主アッラーのしもべではあるが、他のなにものの奴隷でもない。いかなる人物、組織、概念、物体の支配にも屈従することはない。創造主だけのしもべとして、他への屈従からの解放、それが自由である。これこそ人生の心意気であり、人間の尊厳である。創造主以外を神とし主とするたびに、精神の自由は狭められ、心意気は不安に蝕まれ、人間の尊厳は低下する。 アッラーは人間の高貴さを救うため、預言者たちを遣わした。その中で預言者イブラヒームはカアバの唯一神神殿の建立者、純粋な信仰の樹立者である。マッカのカアバ神殿は、この純粋な信仰の中心地であり、ムスリムのマッカ巡礼と動物の犠牲はイブラヒームの故事にならうものである。
 さて、民族の長であり、征服者、英雄であったイブラヒームも年老いて心残りなことがあった。いまだに王国を継がせる息子がいないことである。彼はアッラーに祈り、男子の誕生を願った。イブラヒームは子孫繁栄の条件として、最初の男子をアッラーヘの犠牲として捧げることを誓った。日本にも願をかけるという行為があり、そのために何かを断つ、あるいは何かをするという誓いがあるが、当時は子を犠牲に捧げるという大変な悪習があった。もちろん、イブラヒームとしては、どうせこの年で子供なんかできっこない、なにを誓っても空約束・・・、というような気もあったのかも知れない。
 年月がたち、若き妻ハガルが妊娠して、そのまさかが本当になったところには、彼は誓いなど失念していた。だが、約束の相手は創造主、そんな甘い相手ではない。約束の実行を強烈に迫られたイブラヒームは苦悩した。老年になって初めて生まれた最愛の息子を、いかに創造主との約束であっても殺せるわけがない。彼は悩んで悩んで悩み技いた。イブラヒームは居直ったのだろう、創造主に下駄をあずけることにした。人の生死はアッラーのものである。そして彼はアッラーを信頼している……。 彼は水となつめやしの実を与え、妻ハガルと赤子イスマイールをマッカの荒野に遺棄した。旅人に救われる可能性だってあるさ……。
 かなわないのはハガルとイスマイールである。炎天下の見渡すかぎりの荒野。旅人どころか、鳥も動物も、影も形もない。数日して水も食糧もつき、ハガルは必死になった。息子のくちびるがかさかさになってきた。「主よ、息子のために水を、……水……水……」。彼女は走り回って水を探した。近くの丘サファーに上って、あたりを見回したが、水も人影もない。すこし離れたマルワの丘にも上ってみた。水は絶望だった。のこるは誰か旅が通るのを見逃さないことである。こうしてハガルはサファーとマルワの間を七回走った。このサファー・マルワ間のハガルの往復はハッジ(巡礼)の儀式の一部になっている。
 「あたしたちは死ぬんだ。せめて息子と一緒に死のう」。彼女は息子のもとに戻った。 そのとき、声が聞こえた。「われは天使ジブリールなり。なんじらはここでは死なぬ。おまえの息子は父とともに唯一神の神殿を建てることになろう」
 幻聴だと思った。イスマイールの足元に流れ出る少量の水を見たときも、死の前の幻覚だと思った。本能的に手をのばして水に触れたときも、狂った五感のなせるわざだと思った。それでもハガルの母性は、その架空の水を掬って息子に飲ませつづける……。
 水の流れは太くなってきた。だが、彼女はまだ信じなかった。自分で水を飲んでみて、はじめてハガルは生きている実感がおいた。咄嵯に彼女は土で泉の周りを囲った。水を失いたくなかったのである。
 いかなる野生の知恵か、どこからともなく鳥が一羽、二羽、水の匂いを嗅ぎつけて動物が、そして人々……。マッカは村になり、町になった。イブラヒームもやって来て、一定期間とどまるようになった。
 アッラーは妻と子を助けた。喜びは大きく、イブラヒームの信仰は深まった。ところがどっこい、彼の試練は、これで終わりではなかった。彼は小細工を弄して最初の誓いを守らなかった。創造主は人間製作の技師、人間関係のプロである。姑息な手段が通用するわけもない。イブラヒームは少年になった本人と相談のうえ、イスマイールを犠牲に捧げなければならなくなった。そこでサタンはイブラヒーム、ハガル、イスマイールの三人にすりより、撤回するようささやきかけた。三人の意志は堅く、石をもってサタンを追った。このエピソードは割愛するが、結果的にはイスマイールの首にあてたナイフの刃がたたず、天から犠牲のための子羊が下されてイスマイールは助かる。この試練はイブラヒームの信仰の純化のために必要であり、また当時はびこっていた人身御供の悪習を撤廃するためのものだった。このすべては、人間を迷妄から救い、社会通念を打破するどでかい改革だった。とにかく、イブラヒームほどの純粋な信仰を得るためには、これほどの試練に打ち克ち、これほどの信頼をアッラーに示さなければならない。われわれ凡人のでぎることではないし、できない試練を与えられることもない。

ザムザムの泉は、イブラヒームの試練、アラブ民族の台頭、マッカの繁栄、カアバ神殿の建立、そして今日のイスラームにまで関連している。このザムザムの泉は今日にいたるまで、良質の飲料水をマッカの住民や旅行者に大量に供給しているのである。