アッサラーム4号(1976年12月5日発行)
山岡光太郎氏の逝去を悼む
三田了一

 山岡光太郎さんは東京外国語ロシア語科第一回出身の、日本に於る最初のムスリムで、全生涯をイスラームのためにささげ、多くの著書によってイスラームをわが国に紹介したご仁であります。

 近年山岡さんの消息が不明で、われわれ一同安否を気遣い、本紙でも最近氏の住所を探ねる記事が載ったことは、皆様の記憶に新らしいことでありましょう。私も先年、外遊前縁故をたどって氏との連絡方法を依頼し、それに対し昭和32年9月15日付朝日新聞夕刊所載の、山岡さんに関する切抜を送ってくれていたのですが、手違いのためその手紙をこの程になって披見しました。

 その報道は、堺市伏尾196の、社会福祉法人福生園の中辻園長の筆になるもので、「山岡さんが不遇ながらも元気に暮していること、また若い頃の思出で秋の夜長の物語に、他の老人たちを喜ばせていること、さらにこの数年間(入園以来五年)は『パレスチナのアラブとユダヤ』の著述を老の情熱を傾け『ワシには妻も子もない、金もなければ歌もない。ただ歌といえば執筆中の原稿が本になることだけだ』と、始終その著述が日の目を見るのを楽しみにしているようです」云々と、伝えてありました。

 そこで早速照会したところ、折返し中辻園長さんから次の訃報に接し愕然としました。「山岡光太郎老はまことに残念の至りですが昨34年9月23日老衰のため79才で逝去されました、軽い中風気味で二度ばかり転倒し、引続き迎転約一ケ月、自然に食慾衰え静に大往生をとげられました。遺著勲記等保存しています、遺族の方もわかりませんし、故人の最も喜びそうな処置をとりたいと存じます云々」ご令姉が一人郷里の岡山県にいられると聞いたが、それもずいぶん古いことである。イスラームの道のために東奔西走されて、おちついて暮す服とてなく永い奉仕の人生に何等報いることなく逆かれた、眼のうちが熱くなるのを禁じ得ない時勢の変転にも因るとはいえ、われわれとして申訳ないことです。

 顧れば大正10年も暮れに迫った或日、何回目かの世界漫遊を終えて静に執筆中の山岡さんを、鎌倉の仮寓にお訪ねした。私も数年にわたり中国の田舎をチクッて、ムスリム連の生活の実際に触れて大いに魅せられていたのでイスラームに関しお高見を伺ったところ、あの元気さに似ない物静かな愛情が溢れた当日のお話しは終生忘れる事はできない。

 その大陸で度々会う機会があった、なかんずく終戦前後の北京に於る御消息については先日も小村兄によって本紙上に一部紹介されたが、どんなことでも氏に関する思い出は、ほほ笑ましい。

 引揚後東京に於ける生活は更に徹底したものであったらしい。その間九州の私の任地にも三回来られたが、最後昭和25年冬の西下のときはだいぶ疲労されているようであった。翌26年私が東京に居を移したときは、もう氏の消息は不明で今回の訃報となった。山岡さんの生涯を挙げてのイスラーム奉仕に対し、謹んで至大の恩恵あらんことをアルラーに祈る次第であります。(三田生)
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