日本回教界の草分け 山岡光太郎翁終焉の地を訪う 
小村不二男 (日本イスラーム友愛協会々長)

はしがき
 客月某日東都のムスリム協会会長、三田了一先生より、突如山岡翁が堺の老人ホーム福生園で逝去された旨急報があった。敗戦後大陸現地より引揚以来久しく老翁の行方と安否を気遣っていた矢先だけに、彼の訃報を受取って愕然とした。この数年来風の便りに大阪の何処かにおられると聞いていたので、御老体とはいえカクシャクたること壮者を凌ぐ翁のこと、それに当京都とは電車で一時間内外の近距離、案外何かの機会に早くお逢いできるわいと内心楽観していた。ところが昨年頃大阪在の養老院とかで起居されているらしい模様とまた伝え聞き、丁度今から一年前の8月の或日、大阪府庁と市庁の民生局摩生課の福祉係に筆者が出頭して山岡翁の人物を説明して探がして貰った。係職員の話では府下に府立市立併せて大小27ケ所この種の施設があり、当方では管理責任者や職員の名簿はあるが、入院療養者の氏名までは一々判明せぬとのこと。致方なく天王寺のあたりに洋菓子専門に製造している旧北支山西軍時代の戦友F君の店から電話を借用して、大阪市内と市外のめぼしい福祉施設に該当者の有無を問合せたが、いづれも不得要領に終った。その後本紙に依頼して永瀬教兄より関係筋に照会して頂き、筆者自身も10月25日付第15号の一隅に、翁のプロフィルの片鱗を登載して貰ったこともあるので御存じの方も多いと思う。とにかく翁は明治42年暮、日本人として始めて単騎熱砂不毛のアラビア砂漠を縦断、当時お伽の国としか知られていなかったアラビア国王に黒紋付白装姿で拝謁、破格の陪食の栄を賜わって当時年齢30未満の青年が日本男児のため万丈の気焔を吐いた上、回教の聖地メッカ巡礼敢行の邦人ハッジ第一号であった。その後日本の敗戦まで或は先人未踏の中央アジアのステップ地帯にタン王を訪問その王子を帯同して帰るかと思えば、今度は中南米を巡遊するなど、文字通り南船北馬、春燕秋雁を地でゆき、そのスケールの大なること上人(大谷光瑞師)に次ぐかとさえ思われる、日本人としては稀有のコスモポリタンである。然も翁はこの世界的旅行を終えて帰朝せられるや次々と会心の労作を発表され明治天皇皇后両陛下を始めとして布衣の身を以て、当時としては異数の天覧台覧の栄を賜わるなど数十冊の著述は今なお周知の通りである。その一面翁の数々の奇行もまた有名で80年の人生を終始独身で貫徹され、性来物慾名誉慾などさらさらなく、常に身辺簡素清貧に甘じられたことも知る人ぞ知るである。翁逝いてここに近く満1年、明治、大正、昭和の三代にわたり幾多の波欄と曲折に富んだ、春風秋雨八十星霜における最後の幕を閉じられた地をくしくも筆者が訪れることになったのも何かの因縁であろう。
京都より堺へ
 7月25日早朝、京都の自宅を出て大阪へ向う。今日は日本三大祭りの一つである大阪の天神祭で夏祭のフィナーレ、天満へんはこの炎天下の猛暑も物かわ、人また人の渦巻く波で大混雑、やっと地下鉄で難波に向う。南海東線で堺駅まで急行、それよりバスにて堺京駅へ、ここより三号線バスに乗換る。但しこの路線は朝夕を除き毎時一回のみなれば不便至極。午后1時やっと発車、歴代皇陵中随一の規模をもつ仁徳帝の陵墓を傍に見つつ。車は満目青田の河内平野を横切って東へ東へと向う。走行20分途中道路決潰箇所あるため乗客皆下車して歩行1キロ、前方より迎えのバスに乗るまで、盛夏の炎天下放流汗沐り熱湯を全身に浴びるが如し、先程駅待合室のラジオが本年最高気温の34度6分と放送したのを想起す。伏尾(ふせお)にて下車、近くの旗亭に憩う老爺にきけば此処よりさして遠からずと、めざす『福生園』は水田中の小高き台地に在り、武者造りの豪壮なる門構え四周に高き囲壁をめぐらし凡そ筆者が当初想像していた鉄筋近代建物とは全然趣を異にす。
福生園
 名刺を通じ来意を告くれば既に三田先生より連絡ありたる為か直ちに広き中庭を通って園長のいられる奥座敷に案内さる。型の如く中辻園長に一通りの挨拶の辞を述べれば氏も亦遠路筆者の来訪をねぎらわれる。年の頃50過ぎ、五尺七、八寸もあろうかと思われる堂々たる偉丈夫、戦時中は司政官として海南島にて現地民政を指導された由。又この屋敷は天保年間の建築にして幕臣久世大和守の旧邸の一部にして当時の代官所跡ときく。又隣家は元侍従長、海軍大将鈴木貫太郎総理が誕生され6才までの幼童時代を過された由緒ある処。雲龍の彫物ある欄間の下には総理から園長の厳父に贈られし書簡が表装されて掲げられてあり、真夏の日中なれば襖障子は左右に広くあけられ十二畳、十畳、八畳の部屋に通風よく外気の暑熱もさして感ぜず。唯蝉しぐれのみ間断的に聞ゆるのみ。
老翁の福生園入り
 さて話は本論に入り、園長は事務室より日記など関係書類を取寄せられ、翁にゆかりのある箇所を翻きつつ楼々語られる。それによれば山岡翁は昭和29年春4月10日不浪者として収容されていた大阪梅田の原生館より転属されて本園にこられた由(それ以前は伊豆の国立療養所にいられた)。何分前記梅田原生館と申せば大阪市中の住所不定のルンペンを専ら対象して保護収容する施設故、翁が関東より来阪されてからの動静に就いては遺憾ながら不詳である。唯想像可能なことは予想以上に翁は困窮されてまともに宿泊される知人宅や一時の暇寓もなかったのではないかということ位である。否後述する如く先生のこと故、この京阪神地区にも我々と異り、随分知人朋友中には縁戚に当る人士も決して少なくなかったのであるが、諸種の事情が先生自身をしてそれを許容させなかったのではないかと憶測される。ともあれ此処へ来所された時は春たけなわの美に、古めかしい冬外套を着用され、両手に二箇の古ぼけた風呂敷包を携行されたきりの、文字通り着た切り雀の姿で飄然として入所された。然しこの二箇の古風呂敷こそ翁の全財産であり、且翁にとって何物にも優る至宝の玉稿が包まれてあったのだ。
 
翁の日常起居(1)
 何しろ翁の晩年は人も知る天下の奇人である。蓬頭垢髪肩まで垂れ、春夏秋冬殆ど入浴などされなかった由、齢既に喜寿を過ぎてもカクシャクたること壮者を凌ぐ元気さ、加うるに眼光ケイケイとして見る人を射る鋭さは、まず二天宮本武蔵の晩年の自画像を想像して貰えば大体見当がつく。
 事実武蔵の門人の聞書には『師はいつも水拭きして生涯風呂に入らず』とある。“身の垢は手桶の水にてもそそぐ可し心の垢はそそぐに由なし”武蔵自伝より
 恐らく先生の入浴されなかった境地もそれと大差なかったのではないかと思索する。これは余談であるが筆者は先年博多の岩田屋百貨店で偶然武蔵の遺品を展観するの機を得たが、その中で武蔵自身の筆になる肖像画は、正にその眼光といい上背のある肩巾といい、櫛けずらざる総髪といい、荷佛として山岡老師に一脈近似するものがあるように今連想される。さもあれ、同室の老人達は先生のこの風貌に僻易していずれも同居を忌避した由、園長始め係職員は衛生上逐次入浴に勧められたが余りこの点効果はなかったらしい。しまいに永年砂漠生活をされた習慣上常人とはやはり違うと言われて余り口喧かましく辛されなかったとか。
日常起居(2)
 それでも新聞だけは毎日朝夕丹念に眼を通され、殊に中近東関係事情の報道記事は一字一句ゆるがせなく精読されていたとのことむべなるかな、先生の念頭には、終生中近東に於ける回教民族問題と猶太民族問題の研究より外何物もなかったのであるから。又時には中辻園長より足代を借用され、バスに揺られて大阪市中へ所用に赴かれたことも珍らしいことではなかったと。行先は某新聞社が多く、目的は先生執筆の原稿の出版に関する用件らしかったとのこと。いつも大きな旧軍隊靴を穿かれて外出、帰園されるとそれを片手に下げたまま上へあがられるのと、食堂で一同が食事をする時多年櫛らざる長髪に手をやられるとフケが落下するので、さすがの同園の老人達も先生との同席には僻易した模様である。
 それから暁天に起床せられて中庭に出られ、大声で何事か叫ばれつつ西方へ向って脆坐礼拝される先生の姿を不図同宿の老人が小用に立って帰りがけに見受けたことも、奇異の感に打たれたことも一再ならずであったとのこと。(つまりムスリムの第1回の暁の礼拝を西方メッカに向ってアラビア語でコーランを念謂されたのである。
翁の遺書と遺留品(3)
 翁が中風気味で、逝去2箇月程前両度食堂で卒倒された様子は7月5日付本紙第40号にて、三田会長が記載されている通りである。臥床三旬余血圧高まり、流石の翁もいよいよ自己の最期が近づいたことを自覚せられたらしい。そこで園長さん始め係の方が、今のうちに何処か知らせる処があれば遠慮なく申されたいと言われたが、翁は臨終の間際にも何人にも通知下されるなと、ハッキリ臥床しつつこれを固辞された由。これから推しても、又、例の風呂敷包みの中に入れてある数冊の手帳(その殆んどが住所録)には無慮数百名に上る知人朋友その他、生前関係のあるとおぼしき人々のアドレスが刻明に細字で記入されてある。にも拘らず、翁は絶対に重態にある自分のことを他に一言も伝えてくれと残さなかった訳は一体何か。吋度するに翁が来阪された頃より心境に何等かの変化があって、何人にも厄介になることを忌避されていたのか、今や幽明境を異にして翁自身によりその真相をきくよすがもない次第である。
 翁の遺品は前途の如くたった二箇の風呂敷包みで、中辻園長のご厚意で見せて頂いたがその一つは濃緑色のいづれも無地のもので、前者には手帳数冊、何処でもよく見受ける小学生や御用聞きの若者が持っているあの小型ノートを犬養本堂からの端書手紙等、いわゆる断簡零編が多く、後者にはこれぞ翁が年来の心血を傾注された珠玉の原稿が三部首題は左の如きものである。
 パレスチナのアラブとユダヤ742頁
 パレスチナ問題の決定版450頁、
 マンデスフランスと総選挙12頁
 以上である。
 外に明治37年4月1日付、東京外国語学校露語第一期生の卒業証書が文学博土高楠順次郎校長の名であり、右卒業と殆ど同時に陸軍通訳官として従軍した功に依り勲六等単光旭日章授与の勲記並に勲章がある。それといつ書き残されたものか原稿用紙三枚に赤インクで『遺書』として生前の翁の著作の版権の委譲に関する内容のものが記述されてあるきりで他には何も書かれていない。遺髪が中辻園長の手で封筒の中から発見された。中辻園長さんは若し筆者がこれらの遺品を持ち帰るお渡しすると申され、筆者自身も、過日、三田先生より翁の遺稿云々の御書面を頂載しているので潜越ながらお預りして帰り、改めて東京のムスリム協会、三田了一会長宛、転送仕る存念で家を出たのであるが、翁の門弟でもなく又親戚でもない筆者がそれには余りにも不躾と思い、今回は遠慮申上ることにして今暫くそのまま保管方を懇望した。
あとがき
 園長さんと生前の老翁の想出話をこの暑さも忘れて交互に語り且拝しているうちに、流石に長い夏の陽も斯くかげり、けたたましかったヒグラシの蹄声もいつしか止みあたりは暮色が迫っていた。同園を辞去するにあたり、この庭この部屋で古武士の如き枯厳の風格ある翁が五年の日子を或は散策し、或は思索冥想に耽られたかと思うと低徊去る能わず高感まことに無量胸を打つものがあった。
 それにつけせめてこれが昨年の今頃なればと悔いられてならなかった。かくて日本回教の大先覚者、山岡光太郎先生は恰も寛政の三奇人の一人である六無斉こと林子平の如く親もなく子もなく、勿論財もなく文字通り天涯孤独最後の息を引き取られるまでこれを一貫された。
 先生が生前のわが国回教界に印せられた偉大なる足跡を偲ぶにつけても、この衣鉢を継承して将来日本におけるイスラームの道を拡延する新進の輩出を祈念してやまない。又それが先生の霊を慰める唯一の道ではなかろうか。(終)

 
追記
 翁の遺骨はこの福生園に近い無縁仏のみを祀る共同墓地に埋葬してあり又、当京都市上京区下総町小山181には翁の唯一の令妹が居住されているとかで中辻園長より通知されたが返信はなかったと。(「瓦方の道」昭和35年9月5日、第46号)