七、サダカ(慈悲行為)


ザカートは、経済的に余裕のあるムスリム男女に課せられた一つの義務ですが、サダカはそのほかのあらゆる慈善行為をさします。


A、正義の重要な一部としての慈善行為。

多少にかかわらず、自分の能力や所有物を提供して他人を助けることは、アッラーに 創られた人間として、又、アッラーに帰依するムスリムとして極めて重要なことです。クルアーンの第3章、イムラーン家、第92節では次のように述べられています。



「あなたがたは愛するものを(施しに)使わない限り、信仰を全うし得ないであろう。あなたがたが(施しに)使うどんなものでも、アッラ―は必ず御存知である。」



さらに、聖預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)は言われました。「アダムの子よ、なんじ の必要とする以外のものを他人に放出することはなんじ自身にとって良いことであり、必要以上に手離さぬことは良いことではない。しかしなんじが充分な能力を持つこ とは別に非難を受けることではない。最初になんじの扶養をうけている者にまず与えなさい」と。




B、慈善のため用いられるもの。

「またかれらは、何を施すべきかを、あなたに問うであろう。その時は、『何でも余分のものを。』と言ってやるがいい。」(第2章219節)


「信仰する者よ。あなたがたの働いて得たよいものと、われが、大地からあなたがたのために生産したものを借しまず施せ。悪いものを図って、施してはならない。目をつむらずには、あなた(自身)さえ取れないようなものを。」(第2章267節)



預言者(かれの上に平安あれ)は強調されておられます。「使いなさい。使わないで 数えてばかりいたのでは、アッラーはそれだけあなた方の罪を数えられるであろう。財産の貯蓄に専念することをやめなさい。もし他人のために使わず、蓄積ばかりして いれば、やがてアッラーはあなた方から財を奪われるであろう。自分の財物を数えたり蓄えたりばかりせず、少なくても出来るだけの物を他人に与えなさい」と。




C、サダカの施し方。

最も良い施し方は、それを受け取る人の人格を傷つけないように、匿名で施し、また 提供者の動機が心のおごりや称賛を受けたいという欲望を伴わないものであることです。



「信仰する者よ、あなたがたは人びとに見せびらかすため、持物を施す者のように、負担侮辱を感じさせて、自分の施しを無益にしてはならない。」(第2章264節)


「親切な言葉と寛容とは、侮辱を伴う施しものに優る。アッラーは富有にして慈悲深くあられる。」(第2章263節)




D、慈善行為の受給者。

まず自分の家族、扶養者からはじめて、親族、社会の貧者、困窮者、寡婦、孤児、債 務者、旅行者、アッラーの道の布教者、最後には救助を必要とする一般人へと拡大してゆくものです。



「かれらは、如何に施すべきか、あなたに問うであろう。言ってやるがいい。『あなたがたが施してよいのは両親のため、近親、孤児、貧者と旅路にある者のためである。本当にアッラーはあなたがたの善行を、何でも深く知っておられる。』」(第2章215節 および 第9章60節も参照)


「(あなたがたの良い施しは)アッラーの道のために、心をいためながらも、大地を闊歩出来ない困窮者のため(のものである)。かれらは控え目であるから、知らない者は金持であると考える。あなたがたはその様子から察しなければならない。かれらはしつこく人びとに請わないのである。あなたがたがよいものを施せば、アッラーは必ずそれを熟知されておられる。」(第2章273節)



最後に、より広い見地からして、慈善の意義は、援助を必要としている者に対して与 える金や物だけに限られるものではないことが強調されています。それは、他人を助けるためにする行為や言葉のすべてを含んでいるので、例えば、時間、精力、利害関 係、同情心、援助の気持ち、親切な言葉、礼拝などです。隣人が必要としていることに良く気を使い、子供の欲しがっているものをかなえてやり、商人を見舞い、知人の 葬儀に参列し、近親者に死なれた者を慰めること、これらのすべてが慈善の行為なのです。


預言者言行録にも、慈善の意味がいかに広いものであるかを強調した多くの言葉があ ります。その中のいくつかを拾ってみましょう。


「他人に向って微笑みかけ、人の嫌がることはしないようにし、希望を失った者を励 まし、盲人の手を取って助け、路上の石や針や骨などの障害物をとり除き、自分の桶から友人の桶に水を入れてやったりすることはすべて慈善の行いの中に入るのである 。」また、「親切な行為はすべて慈善である。」この慈善行為を通しでわれわれが真のイスラーム友愛精神に徹する最善の努力を尽くし得るよう、至高の神アッラーの お導きを賜りますように。


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