二、ザカートの精神


クルアーンでは、富はアッラーの賜わりもの(ファドル)であるとされています。ア ッラーは宇宙の創造主であり、持者であると同時に、人間が占有し使用している万物の真の持ち主でもあられます。



「誰が、天と地を創造したのか。また誰があなたがたのために、天から雨を降らせるのか。それでわれは、美しい果樹園をおい茂らせる。そこの樹木を成長させることは、あなたがたには出来ない。」(第27章60節)



アッラーこそ万物の真の所有者であられ、われわれ人間は受託を受けた者にすぎない のです。富はアッラーのみ心にかなう方法で作り、分け配り、受け入れ、そして費やすべきものです。財産を築くことは、それ自体が目的ではなく、有効に使うこと を考えねばなりません。クルアーンとハディース(預言者、言行録)にも、他人に対して不正や損害を与えるやり方で財産を手に入れることは、アッラーへの不服従の行 為であると、はっきり記されています。一方、アッラーへの清らかな信仰の次に、アッラーの目から見て最も大切なことは、親切心と慈善、忍耐と寛容および他人への思 いやりであると、クルアーンに述べてあります。



「順境においてもまた逆境にあっても、(主の贈物を施しに)使う者、怒りを押えて人びとを寛容する者、本当にアッラーは、善い行いをなす者を愛でられる。」(第3章134節)



このようにアッラーは、創造物に対する謙譲の心、正しい欲求を充たすための中庸の 道、煩悩の制御および寛容と博愛の精神をわれわれ人間に命じておられ、また同時に、尊大と侮蔑の気持ちや、放従と享楽の追求、物質欲と世俗的権力への妄執を控える ように求めておられます。それゆえ、礼拝はすべての心のおごりを清め、斎戒(断食)は肉体的欲望を制御し、そしてザカートはどん欲を克服するための碇として定めら れたものであることがよく判ります。


アッラー崇拝のこれらすべての行為の背後にある本質は、アッラーへの帰依、アッラ ーからのすべての賜り物に対する感謝の念、アッラーの寛容と慈愛への希望の精神でなくてはなりません。


特に、財産的に余裕のあるムスリムが、このザカートの務めを完全に果すことは最高 に感謝すべき喜びです。それは、アッラーからの賜わりものに対する報恩の念と、他人を援助することのできる喜びです。ザカートを施すことは、アッラーへの務めです から、人は、それがザカートを受ける人への特別の好意であるかのように考えてはなりません。まことに、それは困窮者がそれを受けることは正当であり、またそれを与 えることは与える者の義務であるからです。イスラームにおける他の大切な信仰上の行為と同じように、ザカートの授受は、施す側と受ける側との双方が純粋で真摯であ ることが必要条件なのです。


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