神の預言者たち

イスラミックセンター編著


三、ムーサー(モーゼ)


そしてムーサーには、じきじきにアッラーは語りかけたもうた。(クルアーン第四章 一六四節)


ムーサーの生涯における活動は、クルアーンの多くの章節に述べられているが、次の 項が主である。第七章一〇三〜一五六節、第一〇章七五〜九二節、第一八章六〇〜八 二節、第二〇章九〜九八節、第二六章一〇〜六九節、第二八章四〜三五節、第四〇章 二三〜四六節、第四三章四六〜五六節。



●歴史的背景


ユースフ(イブラーヒームのひ孫であり、預言者の一人)と彼の両親、兄弟とその家 族がエジプトに住みついて約四百年が経った。彼らの子孫であるイスラエル人(預言 者でもあるユースフの父ヤアクーブの子孫)は人口が増えた。ヤアクーブには十二人 の息子があり、イスラエル人はこの息子達の血筋により一二の部族に分けられた。


エジプト王(ファラオ=ラムゼー二世<B・C一三〇〇〜一二三四>)は大変な暴君で あった。王、議会、僧侶達は一般市民、特にイスラエル人に対し苛酷で、しきりに迫 害を加えた。ファラオや彼の顧門は、イスラエル人の反乱を恐れ、イスラエル人を奴 隷の身分として扱い、重労働に就かせ、手に余るほどに仕事を増やしていった。そし て、ついにはイスラエル人の増加を恐れたファラオは、部下に命じ、イスラエル人に 生まれた男の子をナイル河に捨てたのである。



●ムーサーの幼年期


以上がムーサーが生まれた当時のエジプトの社会的状況である。神の導きにより、ム ーサーは母親の手により数ケ月の間かくまわれていた。しかし、そこも危なくなると 、母親はムーサーを章の寵に入れ、ナイル河へと流した。母親は娘ミリアムに籠の後 をつけさせ、何が起るか見とどけさせた。


河を少し下ったところで、ファラオの妻が偶然この範を見つけて水から拾い上げた。 中に可愛いい男の子を発見した彼女は、宮殿に連れて帰り、ファラオの反対を説得し 、命を助けたばかりか自分の養子とした。そこで、この子の世話をする女が必要とな った。その時ムーサーの姉のミリアムが前に進み出て、こう言った。


あなたがたに、かれを育てる家人をお知らせしましょうか、かれにねんごろに付き添 う者であります。こうしてわれは、かれをその母に返し……(クルアーン第二八章一 二〜一三節)


このようにして神の導きにより、ムーサ,はファラオの家で育てられた。ファラオの 家族の一員として成長したムーサ正は、イスラエル人に対する同情心を母親から受け 継いだことは想像に難くない。


ある日、ムーサーが街を歩いていると、エジプト人とイスラエル人が喧嘩をしている のに出くわした。イスラエル人が彼に助けを求めた。ムーサーがエジプト人を一撃す ると、エジプト人は偶然にも死んでしまった。ムーサーは大いに嘆き悲しみ、声を出 して神に許しを乞うた。


「主よ、まことにわたしは魂をそこないました。どうかわたしをお許し下さい」。そ れでアッラーはかれを許したもうた。まことにかれは寛容者、慈悲者であられる。( クルアーン第二八章一六節)


翌日、この事件は街中に広まった。復讐に燃えムーサーを殺そうとする者達は、彼を 捜し歩いた。このことを知ったムーサーは、西アラビアのマディアンへと逃れた。そ して、彼が羊の水飲み場で休息をとっているとき、少し離れた場所に二人の娘が羊の 群の中にいるのを見て、ムーサーは荒々しい羊飼いの男達の中をかきわけ、順番を待 っていた娘の羊に水を与えた。その後、彼は日陰に戻り神に祈って言った。


主よ、あなたがわたしにお授けになる、何でも善いものが欲しゅうございます。(ク ルアーン第二八章二四節)


しばらくすると、娘の一人が彼のところへ来て、父親のところへ来てくれるよう恥か しげに言った。ムーサーは彼女の後について行き、彼女の父親に自らの身の上話をし た。大いに同情した父親は、娘の提案により二つの申し出をした。それはムーサーが 父親のもとで働き、もし八年以上働いてくれるなら、娘の一人と結婚してはどうかと いうことであった。ムーサーは喜んでこの申し出を受け入れた。



●使者への呼びかけ


顧用期間を務め終えた後、ムーサーは家族と共に他の場所へと旅立った。旅の途中、 彼は山の向うに火を見た。


かれは家人に言った、「おまえたちは待っておいで、わたしは火を認めた、あそこか らおまえたちに消息を持って来よう、または火把(ほだ)を持ち返って、おまえたち を暖めよう」。


だがかれがそこに来たとき、谷間の右かわの、祝福された地にある、一本の木から声 がして、「おおムーサーよ、まことわれは、よろずの主、アッラーであるぞ」。


「さ、なんじの杖を投げよ」。するとかれはそれがヘビのように動くのを見て、踵を 返して逃げ、後も見なかった、(その時また声がして仰せられた)「ムーサーよ、近 寄れ、そして恐れるな、まことになんじは、かたく守られている者である」。


「なんじの手をふところに差しこめ、なんのさわりもないのにそれは白くなろう。恐 れにさいしては、腕をなんじの両わきにしめつけよ、それらは、なんじの主からの、 ファラオとその首領たちに対する、二つのしるしである、まことにかれらは、反逆の 民である」。(クルアーン第二八章二九〜三三節)


神はそれからムーサーに彼の使命を伝えた。ムーサーはファラオの許に行き、天地の 創造主に服従し、イスラエルの民を奴隷から解放するよう説かねばならなかった。


ムーサーは彼の弟ハールーン(アーロン、預言者の一人)を助手にするよう神に頼ん だ。ハールーンは弁舌にたけていたからである。(ムーサーには子供の頃、真赤に燃 える炭火で舌を火傷し、言語障害があったという伝えがある)。神はムーサーの要望 をきき入れて言った。


それでなんじとその兄弟は、わしのしるしを携えて行け、そしてわしを念ずることを 怠ってはならぬ。


なんじら両人はファラオに行け、まことにかれは高慢非道である。


しかしかれに、ものやわらかな説き方で語れ。だぶん訓戒を受け入れ、または主を畏 れるであろう。


「それでなんじら両人は行って、かれに言え、まことにわたしたちは、あなたの主の 使者である。それでわたしたちと一緒に、イスラエルの子らを釈放し、かれらを苦し めてはならぬ。まことにわたしたちは、しるしを携えてあなたの主から来た者である 。お導きに従う者は、平安である」。(クルアーン第二〇章四二〜四四・四七節)


このようにして、彼等はファラオの許に行った。ファラオは「おまえたちの主はたれ であるか、ムーサーよ」と言った。


かれは言った「わたしの主こそは、それぞれのつくられたものに、姿や資質その他を 賦与され、さらに指導を賜う方であられる」。


「かれは、大地をあなたがたの床(ふしど)とされ、あなたがたのため、その上に道 を開き、また天から雨を降らせたもう。」(クルアーン第二〇章四九〜五〇、五三節)


こうしてムーサーは、神の唯一性を説くメッセージをファラオに伝え、イスラエル人 を解放しようとした。だがファラオは「もしお前が、私以外の者を神と考えるのなら 投獄する」と言って脅した。神はそこで一連のしるしとして、様々な災害を起した。 これはファラオをはじめ、人民達を苦しめたので、ついにファラオはムーサーの指揮 のもとイスラエル人達のエジプト出国を認めた。


われはムーサーに黙示して「わしのしもべと共に夜に旅立って、イスラエルのために 、海の中にかわいた道を打ち出し、追いつかれることを心配せず、また恐れてはなら ぬ」と命じた。


そこで、ファラオは、その軍勢をひきいて、イスラエルを追ったが、水が、かれらを 完全に水中に沈めおおってしまった。


こうしてファラオはその民を迷わせ、正しく導かなかったのである。(クルアーン第 二〇章七七〜七九節)


●荒野の生活


荒野の生活については、クルアーンの各所、特にクルアーン第一一章五一〜八三節、 第七章一三八〜一六二節、第二〇章八六〜九八節に述べられている。


神の導きによってムーサーは人々をシナイ半島の荒野に連れて行った。旅は困難をき わめた。水は乏しく、食物は足りず、いつ死んでしまうかわからない状態であった。 そこに不平、不満、内部闘争、ムーサーに対する反抗があり、信仰の欠如していた時 期でもあった。なかでもムーサーが山へ行き、四十日そこに閉じこもり神の十戒を受 けた時、イスラエル人達はエジプトで馴じんでいた偶像崇拝に戻ってしまった、ムー サーの留守をあずかる指導者である弟ハールーンの反対を押しきり、彼らは金の装飾 品をつぶし、牛の像をつくってそれを崇拝した。しかし、神の助けと導きは下るので ある。それは水と食物(樹液とうずらの群)と、人々が生きるべき道徳律であった。


イスラエルの子らよ、われがなんじらに与えた恩典と、わが啓小を万民に先んじて下 したことを念え。


そしてわれが、なんじらをファラオの徒党から救ったときを思え、かれらはなんじら を悪い刑に服させ、なんじらの男児を殺し、女児を生かしておいた。その中にはなん じらの主からのきびしい試練があった。


またわれは、なんじらのために海を分けて、なんじらを救い、なんじらが見ている前 で、ファラオの徒党をおぼれさせたときのことを思え。


また、われが四十夜にわたり、ムーサーと約束を結んだときを思え、その時なんじち はかれのいない間に、子牛を拝し、不義を行なった。


それでも、その後われはなんじらを許した。おそらくなんじらは感謝するであろう。


またわれがムーサーに、経典と正邪の識別〈フルクアーン〉を与えたことを思え、お そらくなんじらは、導かれるであろう。


われは雲の影をなんじらの上におくり、そしてマンナとウズラとを下し、「われが授 ける善いものを食べよ」……


またムーサーがその民のために、水を求めて祈ったときを思え。われは「なんじのつ えで岩を打て」と言った。するとそこから、十二の泉がわき出て……


なんじらが「ムーサーよ、わしらは、一色の食物には耐えられないから、地上に産す るものを、わしらに賜わるよう、おまえの主に祈ってくれ。それは野菜・きうり・穀 物・れんず豆と玉ねぎ」と、言ったときを思え。かれは言った「おまえたちは、良い ものの代りにつまらぬものを求めるのか。それならおまえたちの望むものが、求めら れるような、どの町にでも降りて行くがよい」。……(クルアーン第二章四七〜六一節)


このようにして、四十年以上にわたって神の導きと助けを得たムーサーは、奴隷であ った多くの人々を神を畏敬する民へと解放したのである。ムーサーと供に出エジプト を果した人間達は、最後まで優柔不断で憶病であった。それゆえ神は、彼らが以前約 東していた土地に入ることを拒んだ。


またムーサーが、己れの人びとにこう言ったときを思え。「わたしの人ひとよ、おま えたちに賜わったアッラーの恩恵を心に銘せよ……


「わたしの人ひとよ、アッラーがおまえたちのために定められた、聖地にはいれ、き びすを返して退いてはならぬ、そうしたらおまえたちは失敗者になるであろう」。か れらは言った、「ムーサーよ、まことにそこには、強大な民がいる、かれらが出て行 かなければ、わしらは決してそこに、はいることはできない。もしかれらがそこから 去ったならば、わしらはきっとはいるであろう」。


アッラーの恩恵に浴して、主を畏れるふたりが言った、「正門からはいってかれらに 当たれ。一たびはいれば、まことにおまえたちが勝利者であろう。おまえたちがもし 真の信者ならば、アッラーに信頼しまつれ」。


だがかれらは言った、「ムーサーよ、まことにかれらがそこにとどまる間は、決して わしらはそこに、はいることはできない。おまえとおまえの主は、行ってふたりで戦 え、わしらはここにすわっているであろう」。


かれは申し上げた「主よ、まことにわたしは、わたし自身と兄弟のほかは制御できま せん。それでわたしたちを、この反逆の衆から離して下さい」。主は仰せられた「そ のためにこの国土は、四十年の間かれに禁じられよう。かれらは地上をさまようであ ろう。なんじは反逆の民のために悲しんではならぬ」。(クルアーン第五章二〇〜二 六節)


ムーサーはいまや老い、そして彼の任務は完了した。旧約聖書の出エジプト記によれ ば、。彼は一二〇才で死んだ。彼の死後、イスラエル人はついにパレスチナの地を踏 みしめた。



●トーラの問題


三九冊あるユダヤ教の経典の中で、巻頭の五書−創生記、出エジプト記、レビ記、反 数記、申命記−は、ユダヤ人にトーラ(律法)と呼ばれている。この五書は別名1− ペンタチュークとか=モーゼ(ムーサー)とも呼ばれている。


しかし、ムーサーがこれらの書を書いたのではなく、またムーサーに下った啓示(ク ルアーン中にはタウラッーと述べてある)もユダヤ教のトーラと全く同じものではな い。(同様に、クルアーンの中でのダーウードへの啓示と旧約聖書中のダーウードの 詩篇も同じものではない。)クルアーンは言っている。


災いあれ、自分の手で経典をしたため、ささやかな代償を得るために「これはアッラ ーから下ったものだLと言う者に。(クルアーン第二章七九節)


この言葉はユダヤ教の経典に関して述べられたものである。


何世紀もの間、ユダヤ教徒やキリスト教徒は、自分達の経典に加筆や改ざんすること を厳しく拒んできた。しかし、過去二百年以上にわたり、聖書学者はキリスト教とユ ダヤ教両派の経典の出所や信憑性について、多くの研究を行なってきた。


トーラに関する現代聖書研究家の意見によると、ペンタチュークは幾つかの作品が寄 せ集められて出来た混成作品である、というのが支配的である。二百年以上に及ぶ研 究により提出されたこの仮説によれば、そこには四つの文学的要素があり、それらが 複雑に絡み合い、紀元前五世紀頃ペンタチュークは最終的な形となったとされている。


それでは神のムーサーへの啓示とイスラエル人との契約は何だったのであろうか。ク ルアーンには次のように述べられている。


われがイスラエルの子らと、約束を結んだときのことを思え(そのときわれは言った )「なんじらはアッラーのほかに、何ものにも仕えてはならぬ。父母に孝行し、近親 、孤児、貧者には親切をつくし、人びとに善い言葉で話し、礼拝のつとめを守り、定 めの喜捨をせよ」。その後、なんじらのうちの少数の者を除いては、そむき去り堕落 者である。


またわれが、なんじらと約束を結んだことを思え、「なんじらは仲間で血を流しては ならない。またなんじらの同胞を、その家から追放してはならぬ」。そこでなんじら は、これを厳粛に軍記し、自ら証言したのである。(クルアーン第二章八三〜八四節)


いま我々が知っている十戒を、右に引用したクルアーンの節と比較してみると、それ はムーサーに下った啓示には違いないが、現在のように拡大されたものではない、と の結論に達するであろう。


啓示と神が与えた洞察力、そしてイスラエル人に対して発揮した指導力でもって、ム ーサーは神の掟を守るための共同体を作った。しかし、時が経るにつれ神の掟は忘れ 去られ、変化し、無視されるようになった。神が導いてきた共同体は神の教えを忘れ さろうとしていた。だが神の指導の中で存続したものは、後世の預言者達、特にイー サーやムハンマドを通じて下る教えを受け入れる土壌となった。同時に神がイスラー ムのために定めた、直き道へと人類が歩む舞台をつくったのである。





ホームページへ戻る