イスラームにおけるハラールとハラーム(2)

 ここで私は、許されるものというのは、物事だけでなく、イバーダ(礼拝、断食など信仰にかかわる行為)を除く人間の行動やふるまいすべて、つまりアーダート、又はムアーマラート(日常の生活習慣や社会生活)と呼ぱれるものを含んでいるということを強調したいと思います。それらについては、法をお定めになる方、至高なるアッラーによって禁じられたごく少数のことを除いては、禁じられてもいないし、制限もされていないというのが原則です。至高なるアッラーは、物事や行動についてこう言っておられます。

『かれは、あなたがたに禁じられるものを明示されたではないか。』(家畜章119節)

 ただし、イバーダに関しては話は別です。イバーダは,アッラーご自身が啓示なさったものからのみ取られ得る純粋な信仰行為なのです。これについては、次のような正統なハディースがあります。

「イバーダに新しいことをつけ加える者は、拒否されるべきである。」(1)

 真の信仰とは、アッラー以外の何者にも従わない、アッラーがお定めになった以外のことには従わない、という2つの命令に従うことなのです。
 自分自身でイバーダのやり方を発明したり創作したりするものは誰でも、迷える者として、拒まれるぺきです。なぜならアッラーのみが、人間がご自分に近づくことのできるイバーダのやり方を作り出す権利をお持ちなのです。しかし日常生活のことは人間自身によって創られ、おこなわれるものです。アッラーはそれらを修王し、適正にし、磨きをかけるため、また時には有害だったり、あるいは争いを招くような習慣を明らかにするためだけに干渉なさるのです。偉大なイスラーム法学者、イブン・タイミーヤ(1263−1328)は次のように述べています。
 人間の言動には2種類ある。信仰を立証するためのイパーダがそのひとつで、もうひとつは日常生活に必要な習慣的行為である。シャリーアの原則によれば、イバーダは、アッラーによって規定され、あるいは認められた行為であり、そこではシャリーアによるもの以外の行為は承認されない。しかしながら、人間の現世の活動に関しては、日常生活に必要なものであり、原則として行動の自由が認められている。至高なるアッラーが制限なさったこと以外には、何も制限されない。命令も禁止も、どちらもアッラーの御手のうちにあるからである。イバーダに関しては、アッラーからのご命令があるはずである。(アッラーからの)ご命令がなければ何かが承認されない場合に、どうしてそれをご命令なしに制限されていると言うことができるだろうか。アフマド・イプン・ハンバル、その他の法学者,ハデイース学者たちは次ぎのように言っている。「イバーダに関しては『制限』が原則である。」つまり、アッラーがお決めになったこと以外は名にも合法的ではないということである。それ以外のことをするのは、次ぎのアーヤに述べられている危険を犯すことになる。

『かれらに(主の)同位者がお許しになられない宗教をかれらのために立てたのか。』(相談章21章)

 しかし、生活習慣に関しては、原則的には自由である。アッラーが禁じられたこと以外には何も制限されていないのだから,それ以外のことをすることについては、次のようなアッラーの御言葉がある。

『言ってやるがいい。アッラーがみ恵みとしてあなたがたに下されたものを考えてみなさい。なぜあなたがたはその一部を非合法とし、また(一部を)合法としたのか。』(ユーヌス章59章)

 これこそは偉大で有益な原則であり、それに基づいて我々は売買や賃貸、贈与などを、食べたり飲んだり、衣服を着たりすることと同じように、人間の活動に必要なことだと言うことができるのである。シャリーアがこうした現世の間題について述べているのは、良いふるまいについて教えるためである。したがって、争いにつながるようなものは何でも禁じられ、本質的なことは義務となり、必要でないことはマクルーフ(禁止されているわけではないが、しない方がいいこと)となり、有益なことはムスタハップ(推奨されること)となる。何がどれに当たるかは、そのおこないの種類や、その程度や、性質による。
 これがシヤリーアの基準であるから、人々はハラームでさえなけれぱ食べたり飲んだりするのと同じように、自分たちのやり方で売買したり貸したりすることができる。こうしたことのうちには、マクルーフなものもあるが、シヤリーアが禁止していないならぱ許されるという、ハラールの基本原則があるからかまわないのである。〈2)
 この原則はまた、預言者の教友、ジヤービル・イプン・アプダッラーの正統なハディースにおいても支持されています。

「我々はクルアーンが啓示される以前から'azl(性交の際、避妊のために射精を中断すること)の行為を実行していた。それが禁じられたことであるのなら、クルアーンにおいても禁止されるはずだ。」

 つまり彼は、アッラーからの啓示が、ある物事について何も途ぺていないのならば、それは許されるのであり、自由におこなってよいと結論づけたのです。預言者の教友たち(アッラーが彼らを嘉したまいますように)のシヤリーア理解は完全なものであり、どんなイバーダもアッラーの命によらなければ合法化されないし、アッラーの禁止命令がなけれぱどんな行為も禁止されないという偉大な原則を確立したのです。


 (1)このハディースは、2大ハディース学者プハーリーとムスリムによって認められたもの(muttafaq 'alayh)。
 (2)Ibn Taymiyyah, Al-Qawa'id al-Nuraniyah al-Fiqhiyah, pp.112-113
この原則に基づいて、イブン・タイミーヤとその弟子イプヌル・カイイム、及びハンバル派の法学者たちは、ハラームであると認められた問題を何も含んでいない契約であればその契約とそこに書き入れられた条件は本質的に許されるものであるとしている。

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