ハディース
アブー アプドッラハマーン アブドッラー イブン マスウード(RA)によると『私は聖預言者(SAW)にこう訊ねました。「アッラーに最も愛される行いは何ですか?」すると彼はこうお答えになりました。「時聞どおりのサラート(礼拝)です。」私は再びこう訊ねました。「次はどんな行いですか?」すると彼は「親孝行です。」とお答えになり、私が再ぴ、「次はどんな行いですか?」と訊ねると「アッラーの道のためのジハード(努力)です。」とお答えになりました。』(ブハーリー/ムスリム)

 このハディースは、イスラームにおけるイーマーン(信仰)のあり方を数えている重要なハディースです。私達ムスリムがアッラーと聖預言者(SAW)から教わったイバーダ(アッラーに仕えるための行為)の種類は、たいへんたくさんあります。ラマダーン月の断食であつたり、アッラーに禁じられたものを食ぺないことであつたり、又、聖クルアーンを読み、学ぷことてあったり、ムスリムの兄弟たちを助けることであったり….アッラーのお言葉や、聖預言者のスンナ(聖行)に従ってするすぺての行為は、イバーダとよばれます。どのイバーダもアッラーへの信仰心を表すためのものですから、私達のニーヤ(意志)が純粋なものである限り、アッラーのもとで必ず報いられます。上のハディースは、その数あるイバーダの中での位置付けが述べられています。聖預言者が挙げられた上の3つのイバーダについて、順番にお話していこうと恩います。

時間どおりのサラート(礼拝)
 『イスラームの五つの柱』とよばれる代表的なイバーダの中で、サラート(礼拝)・ザカート(喜捨)・サウム(断食)・ハッジ(巡礼)の4つは、最も大切な支柱であるシャハーダの内容を、実際に生活のなかであらわすためのものです。この4つの中て最も重要なイバーダとされているのがサラート(礼拝)です。それはサラートが他の3つに比べ、より日常的であり、かつ継続的なものだからです。一日5回のファルド(義務)のサラートを一生怠らないで続けるのには、少なからぬ努カが必要です。では、どうしてアッラーはこのエネルギーを要することを、私達ムスリムに義務付けられたのでしょうか?その答えは、サラートの義務を完全に遂行するために必要な手間を考えてみることで見えてきます。まず、サラートをきちんと行なうためには、サラートに関する基礎的な知識が必要です。その中には、タハーラ(洗浄)の知識も入りますし、キブラの知識も、そしてサラートの時の服装の知識も入ります。タハーラをきちんとするためには、シャリーアにおける身体の汚れの種類(大汚・小汚)を知らなけれぱなりませんし、キブラを意識するためには、聖なるカアパがどんな意味を持つ場所な のか知る必要があります。そして服装を整えるためには、シヤリーアでいうアウラ(人に見せるべきではない身体の部分)について学ぶことから入ります。今、私が挙げたことだけでも、結構たくさんの知識を要しますが、これでもまだ、これらはサラートを始めるための準備に要る知識でしかありません。実際のサラートをするためには、その中で暗誦する聖クルアーンのアーヤ(節)やドウアーの数々、そしてその動作やきまり事の数々を覚えなけれぱなりません。これらの知識を身につけた後、5回のサラートをきちんと棒げようと思っている人は、日に30分から50分程度の時間をアッラーに捧げるだけではなく、常にサラートに向かうためのタハーラを頭において、時を過ごしているわけです。このハデイースで指摘されている『時間どおりのサラート』を守るためには、その上、常に『次のサラートの時間』を念頭において行動するわけですから、次のサラートの時間を気にしている心理状態をイバーダのひとつと数えれぱ時間どおりのサラートを行なう人は、ほぼ一日中、イバーダの中にいることになります。それを一生続ける人は、死ぬまでの時間をイバーダの状態ですごし人生を全うするわけ です。そして、その時間と心のエネルギーは、アッラーのためだけに使われているのですから、その行為に対し、アッラーが最も愛情を注がれるのも当然と言えます。アッラーが私達ムスリムに規定のサラートを義務付けられたのは、その準備や手間、そして努カに携わっている限り、私達の頭の中からは、『アッラー』という言葉が出て行かないようになっているからです。サラートの多くの決まりごとを守ることに心のエネルギーを使う毎日を送ることによって、シヤイターンの入る隙をできるだけなくし、必要のない考えが頭に浮かぷ心の隙間を作らないためなのです。時間どおりのサラートを守る人の生活は、アッラーを中心とした生活です。1日5回のサラートは、私達ムスリムにとって、感謝すべき「手間」であり、それによって自分を浄めることのできる最も有効なイバーダであることを考えると、それはアッラーが私達を導いて下さるためのラハマ(御慈悲)であり、ヒクマ(知恵)だと言えるのです。その上、アッラーはその努力をないがしろになさらず、大きく報いてくださるのですから、アルハムドゥリッラー、サラートはジャンナ(天国)を私達に近付けてくれる大きな味方でもあるわけ です。

親孝行
 時間どおりのサラートの次にアッラーが好まれる行為として、ここでは親孝行があげられています。サラートに次ぐ行為として挙げられているのが、ザカートやサウムではなく親孝行であるというのは、ちよっと意外な感じがするかもしれません。ここで、聖預言者が、この順序立てを通しておっしゃりたかったことを考えてみましよう。
 『時間どおりのサラート』は、アッラーとのダイレクトな関係の強さを表しています。これは宗教を宗教ならしめる第一義であるため、聖預言者は、それを第一に挙げられたと考えられます。
 『親孝行』が象徴するものは、人間関係です。アッラーとの関係が確立できた人間にとって、次に大切なことは、人間同志の関係の確立、つまりモラルです。アッラーとその使徒の次に私達が大切にしなけれぱならないのは、両親です。なぜなら、彼らは私達を育てるために最も犠牲を払ってくれた存在であり、私達の幸福を誰よりも喜び、私達の不幸に誰よりも心を傷める人達であるからです。しかも何の報酬も望まないで。
 私達のために自己犠牲を払って、何の報酬も望まず、年老いていった人達を大切にせず、社会生活上のまわりの人々を優先して、親に対するよりいい行ないをするとすれば、その人の人間としての優しさとは一体なんでしようか。私達がいくら彼らに親切にしたとしても、彼らが私達を育てるためにしてきてくれたことの数々や、私達に向けられ続けた愛情の限りなさに報いることなど、到底かなわぬことです。しかしながら、少なくともその労苦や愛情に答える努力をすることによって、アッラーは私達の二ーヤ(意志)をわかってくださり、大きなハサナ(善行)として記して下さるのです。アッラーの使徒が、親孝行をサラートの次に挙げられたのは、それが人間としてのモラルの中で最も大切なことてあり、美しい社会の基本となるからです。それは親孝行が、愛と慈悲と責任の集約であるハサナ(善行)であるからなのです。
 イスラームにおいて、親不孝をすることは『大罪(カバーイル)』の一つに数えられていて、聖クルアーンの中でもこのように教えられています。

あなたの主は命じられる。かれの外何者をも崇拝してはならない。また両親に孝行しなさい。もし両親かまたそのどちらかが、あなたと一緒にいて老齢に達しても、かれらに「ちえっ」とか荒い言葉を使わず、親切な言棄で話しなさい。(夜の旅章23)
そして敬愛の情を込め、両親に対し謙虚に翼を低く垂れ(優しくし)て、「主よ、幼少の頃、私を愛育してくれたように、2人の上にご慈悲を御授け下さい」と(祈りを)言うがいい。(同24)
われは、両親への態度を人間に指示した。人間の母親は、苦労にやつれてその(子)を胎内で養い、更に離乳まで2年かかる。「われとあなたの父母に感謝しなさい。われに(最後の)帰り所はあるのてある」(ルクマーン章14)

ここで注目すぺきことは、アッラーヘの従順と両親への従順が同列に並べられていることてす。それが、親不孝がシルク(アッラーに相対者を配すること)と同じく大罪(カバーイル)とみなされている所以となっているのです。アッラーは聖クルアーンの中で、幾つかこのようなスタイルで啓示されました。つまり、2つの事柄を信仰上、切り離せないものとしてお示しになっている部分です。たとえば、次の2つの例がそうです。

アッラーに従え、また使徒に従え。(み光章54)
礼拝(サラート)の務めを守り、定めの施し(ザカート)をなし(雌牛章43)

 上の節は、アッラーに従い、その使徒に従わないということは、ありうべからざることであり、それはアッラーの許では受け入れられない、ということを表します。下の節も同様、サラートの務めを守る信者たる者が、同じくアッラーから下された義務であるザカートを拒否するということは、ありうぺからざることであり、それはアッラーの許では受け入れられないということを表します。ということは、親孝行についてのアーヤも同様で、アツラーに仕え、かれに相対者を置かないしもべたる著が、親をないがしろにしたり、敬愛しなかったりすることはありうぺからざることであり、それはアッラーの許で受け入れられないということです。
ハデイースでも同じく、聖預言者はこのアッラーの御意志を確証されていて、次のように述べられています。

『カバーイル(大罪)のなかで、最も重い罪を教ましょうか?それは、アッラーに相対者を配ること(シルク)、そして親不孝です』(プハーリ/ムスリム)
アッラーの御満足は両親の満足のうちにあり、アッラーの御怒りは両親の怒りのうちにある。

 親孝行がサラートに次ぐ重要事項として挙げられているのは、アッラーとの関係を、いちしもべとして確立したならば、その信仰心を社会生活に強く反映させるべきであり、社会生活における人間としての最重要モラルは、自分を産んで育ててくれた人達に対する敬愛にほかならないからです。親不孝は社会の乱れの第一歩です。自らを犠牲にして自分を育んでくれた人達を大切にできないということは、本当の愛というものを知らないということです。本当の愛の何たるかを知らず、その愛に伴う責任を知らない人間たちがつくる社会が、豊かで美しいものになるはずがありません。イスラームの説く愛は、尊敬であり、かつ貴任のあるものです。愛の基本は、その人を大切にすることだからです。

アッラーの道のためのジハード(努カ)
 聖預言者が3番目に挙げられた、アッラーに好まれる行ないは、ジハード、つまりアツラーの道のために奮闘努力することでした。ジハードにはたくさんの種類が有りますが、ここでは3つ取り上げてみます。

A)ジハード=ツ=サイフ
 
ジハードッサイフはアッラーの道のための戦闘行為を指しますが、世間で言われているような安易な戦聞やテロ行為を指すわけではありません。「アッラーの道のため」というからには、アッラーの御定めになった法に則ったものでなくてはなりません。イスラムでは正当な理由なく人を殺めたり、傷つけたりすることをを禁止しています。攻撃的行為が許されるのは、それがムスリムウンマを守るための自衛のものである時です。特に、「ムスリムである」という理由でムスリムのウンマが侵略されたり、攻撃されたりする場合、私達ムスリムは信仰の自由とウンマの安全を守るために、立ち上がらなけれぱなりません。ウンマの中には女性や子供たち、老人や病人もいるわけですから、話し合いを受け入れない侵略行為から彼らを守るのは、ムスリム全体の義務なのです。ムスリムであるという理由で攻められたり、社会を壊されるいわれは無いからです。

戦いをし向ける者に対し(戦闘を)許される。それはかれらが悪を行うためである。アッラーは彼ら(信者)を力強く援助なされる。(巡礼章39)(かれらは)只「私達の主はアッラーです。」と言っただけで、正当な理由もなくその家から追われた者たちである。(同40節)

 さらに、実際に戦闘行為に入ったとしても、その中でもたくさんの決まり事があります。例えば、戦闘による自然破壊の禁止や、命乞いする敵兵の保護をすること。捕虜の人権を守ること。また女性や子供に手をかける事も、もちろん禁止されています。そして相手側が停戦を申し入れれぱ、それが相手の作戦だとしても、ただちに受け入れなければなりません。戦闘そのものが目的ではないのですから、その中には必ずルールがなくてはならないのてす。

B)ジハード=ン=ナフス
 「ナフス」には「自身」とか「魂」という意味があります。ジハード=ン=ナフスとは、アッラーの道のために自分自身が努カすること、つまり自分自身と戦ってアッラーの道に尽くすことを指します。このジハードの精神は、実生活上のあらゆるイバーダにおいて必要です。日に5回のサラートや、ラマダーン月の断食の遵守も、常に自分の弱さと戦わなければ全うできませんし、貧しい人々に施しをするのも自分の貪欲さと戦わなければなりません。ハラームから身を遠ざけるにしても、自分をコントロールしなけれぱなりませんし、ムスリムの兄弟同志がイスラームの教えどおりにお互いを愛し尊敬しあうためにも、心の中を清潔に保ち、忍酎強くなる努カをしなけれぱなりません。これらすべての努カを、ジハード=ン=ナフスというのです。

C)ジハード=ル=クッファール
 クッファールとは不信者の意味です。ジハード=ル=クッフアールは、人々をイスラームに招くこと=つまりダアワのための努カです。一人でも多くの人がアッラーに仕えることによって、現世と来世の幸せを得られるように、イスラームをまわりの人々に正しく知らせる努カをすることは,私達すべてのムスリムの義務です。アッラーは聖クルアーンの中でこのようにおっしやっています。

われがもし望んだならば、どの町にも警告者を一人ずつ遣わしたであろう。(識別章51)だから不信者に従ってはならない。かれらに対しこの(クルアーン)をもって、大いに奮闘努力しなさい。(同52)

 ダアワとは人々にイスラームについて語ることだと思われがちですが、ダアワは言棄によるものに限りません。実際にイスラ一ムを語らなくても、ムスリムの美しい行動が周りの人々に影響することはめずらしくはありませんし、自分の子供にきちんとイスラーム教育を与え、ムスリムとして世に送り出すことも、偉大なダアワです。そして、人々にイスラームが誤解を受けないよう、身を正したり学んだりすることもダアワの一環です。
 さらに、ダアワとはノンムスリムに対してのものだけではありません。ムスリムがイスラームの教えから逸れている同胞に対して、アッラーのもとへと誘い励ますことや」彼らに足りない知識を教えることも含まれます。ですから、ジハード=ル=クッファールの間口はとても広いと言えるのです。
 そして、すぺてのジハードの中で要となるのは、ジハード=ン=ナフスです。まずは、自分と戦ってアッラーの教えを全うし信仰心を高めなければ、周りの人に良い影響を与えたり、ムスリムの同胞たちを正しい道へ導いたり、ましてやウンマを守るために立ち上がることなど無理な話だからです。次のハディースは、そのことを教えたものです。

『ムジャーヒド(ジハードする者)とは、アッラーに従うために自分自身と戦い努力する者でムハージル(ヒジュラする者)とは、アッラーがお禁じになったものから離れる者のことです。』(アフマドによる)


結び
 今までお話してきたアッラーのもとで愛される3つのイパータの順位付けは、その重要度をあらわすと共に、あたかもピラミッドのように順位が下がる程、わたしたちの手の届く範囲でできることを多く含むようになっています。時間どおりのサラートは日本の社会で仕事や活動をもっている人達にとって、大きな努力を要することかもしれません。ですが、できるだけそれに自分を近付けるために周りの人々の理解を得ていく過程で、はからずも大きなダアワができるかもしれません。
 親孝行はそれよりももっと手近なところにあります。日本人ムスリムの大半が改宗によるものだとすれぱ、その親達はまだノンムスリムであるケースがほとんどではないかと思います。そのことから、親に従うことの徳と、宗教的なことを守ることとの狭間に、私達日本人ムスリムはしよっちゆう身を置かなければならず、大変つらい思いをしていらっしゃる方々も多いのではないかと思います。もちろん一人の人間、そして被創造物として私達は、アッラーを何より優先しなけれぱなりませんが、私達は自分自身の改宗前、あるいはイスラームに興味を持つ前のことをまず考えるぺきてす。私達自身も最初からイスラームについて全部理解できた訳ではなく、さまざまなステップを踏んだ末に、アッラーに導かれたのではなかったでしようか。人は自分と遠い考え方に対して、すぐに興味を持てる訳ではありませんし、自分と両親とでは年代も、育った環境も随分違うわけですから、理解の仕方やペースが違うのは当然のことです。ムスリムである私達の側が、そして子供である私達の側がそれを汲み取って我慢すること、辛抱強く尊敬をもって接することが私達のできる親孝行の第一歩です。アッラーはそ の忍耐や努カを、そしてその板挟みの状態をだれよりも良く御存じです。私達の両親がアッラーのヒダーヤをいただけるようドゥアーして、彼らのペースや環境に合わせてダアワをしてゆくこと、そして私達のイスラームを見てもらって理解を求めることが、私達にとっての大きな課題なのです。
 ジハードについては、その目指す方向性さえ見失わなけれぱ、私達がアッラーのためにできる努力は山ほどあります。ある意味では、親孝行よりさらに易しく、身近な行為をたくさん含んでいますから、自分が意識することによって、生活の中でいくらでも拾ってゆくことがてきるのです。アルハムドウリッラー。
 このようにアッラーは大きな御慈悲をもって、私達のあらゆる努力を汲み取って下さり、それに対し必ず報奨を下さり、それによって私達のさまざまな罪を拭って下さいます。それは、これらの行為が美しい人間と社会をつくるからだけではなく、アッラー,自身の名前によつてなされていることを知って下さっているからなのです。
 私達がアッラーのもとで愛される行為を、アッラーに与えられた限られた時間のなかで、できるだけたくさん果たせますように。そしてそのすぺての行為のもたらす果実を、現世でも来世でも味わうことができますように。インシャーアッラー。

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