シャハーダ
イスラームの支柱、シヤハーダ

 イスラームにおけるイパーダ(アッラーに仕えるための信仰行為)の代表的な5本の柱はよくテントに例えられます。テントの四隅に打つ4本の杭は、サラート(礼拝)・ザカート(喜捨)・サウム(断食)・ハッジ(巡礼)であり、真ん中の支柱はシャハーダ(信仰告白)です。四隅全部に杭を打ち込んだとしても、真ん中の支柱なしではテントは形を成しません。サラートの務めを守り、定めのザカートを為し、聖ラマダーン月の断食を全うし、そして聖なるカアバヘ巡礼したとしても、もしその人がシヤハーダしていなけれぱ、それら4つのイバーダはアッラーのもとで受け入れられません。なぜなら、イバーダというものは、私たちがアッラーに仕えるしもべであることを表すための行為であって、その前提として、アッラーを私たちの主として認めることなしには、成り立たないからです。
 
アッラーは唯一の存在である
 日本人ムスリムの大半が”改宗ムスリム”といわれるカテゴリーに属します。ムスリムを両親に持ち、その環境からイスラーム教育を受けてムスリムとして成長した人々とは違い、大人になってから自分自身の思考によってイスラームに帰依する人々のことです。ご存じの通り、イスラームに帰依する改宗者は、シャハーダ(信柳告自)とよぱれる言葉を心で信じ、ロに出して証言することで、ムスリムとなりますから、改宗ムスリムであれぱ誰でも、アッラーのヒダーヤ(御導き)によって、このシャハーダの言葉を口にしているはずです。

(1)Ash-had an-la ilaha illa-llah (2)wa ash-had anna Muhammadan Rasuwlu-llah
(1)アッラー以外に私たちが崇拝すぺき存在はなく、アッラーは私たちが仕えるべき唯一の神であることを証言しますAそして、ムハンマドがアッラーの使徒であることを証言します

 このシヤハーダの言葉の(1)アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラーという言葉は、自分という存在がアッラーの御意志によってこの世にもたらされ、いつか又、アッラーが御決めになった日に、いずれはアッラーのもとへ帰らされるのだ、という事実を認めます、ということです。つまり、アッラーを、私たちの創造主であり、私たちの存在理由として認識するということの表明です。これは次のように考えれぱわかりやすいかもしれません。
 この世に自分自身の意志でやってきた人間はひとりもいません。そして、自分自身の力で自らの命を創った人間もひとりもいません。私たちはある“意志”によって、この世にもたらされ、私たちが人生と呼んでいるある一定の時間を生き、その“意志”によってこの世を引き揚げさせられます。私たち人間は、自分の舌でものを味わい、自分の身体で日々行動しているにもかかわらず、何かの拍子でそれがままならなくなるときがあります。その一つの例として病気があげられます。今まで自分が動かしていると思っていた身体が、急に思うようにならなくなる…、それは人間の受け身性を実感する顕著な例です。実際に舌であれ、身体であれ、アッラーの許可なしに動いているものは何もないのです。そのことは、聖クルアーンの有名なスーラ(章)のごく短い言葉で示唆されています。

『アッラーは自存され』(純正章2節)

 ”アッラーは自存者であられる”とは、アッラーは永遠であり、アッラーにとって必要な者はなにもなく、御自身ですべてのことを完結される“与える御方”であるということであり、それは私たち人間(人間に限らずすべての被創造物)が、“依存者”であることの対照をあらわしています。私たち“依存者”は,たとえ空気さえもアッラーがお取り上げになれば、たった数分間で自らの存在を失ってしまいます。私たちにはこの世で暮らしていくために必要なものが限りなくあり、それを白らの手で創造することができない存在であることを考えると、私たちが“依存者”であることは明白な事実です。私たちのこの世での必要を満たし、御与えになっているのは“自存者”であられる創造主アッラーです。ですからシヤハーダの言葉にある“アッラーは私たちが仕えるぺき唯一の神である”ことを証言する、つまり認めることが信仰の第一歩となるわけであり、自分をアッラーに創造されたしもぺとしての立場をこの言葉で表明することによって“ムスリム(アッラーに帰依する者)”となるのです。

アッラーという言葉
 
シヤハーダの言葉(1)には、上で述ぺたこと以外に、イスラームを理解する上でもう一つの鍵があります。それは私たちムスリムが創造主であり神である御方のことをアッラーとよんでいることに関係があります。
 “ラー イラーハ イッラッラー”に出てくるイラーハのもとの言葉であるilahはアラビア語で、“神”と訳されています。このアラピア語のilahという言葉の本来のニュアンスは、“人間が神として崇拝する対象”です。そうすると当然その中には、本来の神―つまり創造主―だけでなく、人間が神格化する存在すぺてが入ることになります。アッラーだけが本当のilahなんだとシャハーダでは言っているわけです。では、このアッラーという言葉が示すものは実際何なんでしようか。
 アッラーという言葉は聖クルアーンの言語であるアラビア語で、“唯一の神”“万有の主”“創造主”をあらわす言葉です。聖預言者ムハンマド以前の預言者たちの下った啓示の中では、彼らの言語であったヘプライ語で“ヤハウェ”としてでてきます。私たちムスリムは、アラピア語圏のムスリムに限らず、他の言語を話すムスリムたちも創造主のことを“アッラー”とよぴます。非アラプ圏のムスリムがそれをそれぞれの言語で表現せず、聖典の言葉どおり“アッラー”とよぶのは、それによって聖クルアーンを主からの最後のメッセージだと認識していることをも表しています。このように“アッラー”という言葉は私たちムスリムの宗教的アイデンティテイーを表す役目を果たしている言葉であり、私たちの宗教にとって最も大切な言葉なのです。そして又,聖クルアーン『純正章』の中にもでてくるように、それはアッラー御自身の御意志でもあるのです。

『言ってやるがいい、「かれはアッラー、唯一の御方であられる」』(純正章1節)


ムハンマドはアッラーの使徒である
シャハーダの言葉(2)“ムハンマドがアッラーの使徒であることを証言します”は、前半の言葉(1)を支え、完結する役目をしています。それは、聖クルアーンを啓示されたムハンマド(SAW)を使徒として位置付けている大切な言葉です。ムハンマドがアッラーの使徒であることを認めることで、ムハンマドが歴史的預言者達の封印である一つまり預言者たちの最終の者であることを認め、その歴史的流れを明証している聖クルアーンを最終の聖なる書であると認めているわけです。私たちムスリムはその最終の聖典をアッラーの最終的な御意志として、日々その教えに従おうと努力しています。なぜなら最後の聖預言者ムハンマドに封印として下された教えは、最後の審判の日まで変わることのないヒダーヤであるからです。イスラームにおいてイパーダと呼ぱれる宗教行為が人間生活の全般にいきわたり、しかも比較的詳細にわたっているのは、私たちが最後の審判の日まで道を迷わずにアッラーのしもぺとしての生活が送るために必要なものが、その中に全部詰まっているからなのです。
 以上のように一対になった2つのシャハーダの言葉はただ単に神様を信じます、ということだけでなく、神様とは何であるか、またそれを証明するものはなんであるか、そして神様のお示しになっている情報は何であるかを表したものです。そして、それは、イスラームにおけるアキーダ(信仰の内容)の根っこであり、その根っこからすぺての教えに命が吹き込まれているのです。
 私たちムスリムは入信の時に唱えたシヤハーダの言葉を、毎日5回のサラート(礼拝)時のタシャッフドとして唱えています。そして、その数を計算すると、フアルドのサラートだけでも一日に9回も口にしています。スンナのサラートを含わせると、さらにその倍もの数になります。イカーマの際にも自分で唱えるか、集団礼拝において他の人が唱えるのを聞くかの違いはあれ、日に5回はその言葉を言うか聞くかしています。ムスリム社会を持つ国なら、モスクから流れるアザーンの中でも日に5回、その言葉を聞きます。要するに私たちは、日に20回前後、この言葉をロにするか耳にするかしていることになります。私たちは、それによって日に何度も、アッラーあっての自分であることを思い出すようにできています。それは、この言葉が私たちをイスラームのアイデンティティーに立ち返らせてくれる直接的な言葉であるからに他なりません。
アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラー
アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー

 この言葉は、私たちムスリムの命であり、誇りです。サラートの時やイカーマの時だけでなく、毎日の生活の中で事あるごとに口に出してみてください。きっと私たちの心の負担をこの言葉は軽くし下くれるはずです。人生において何が起ころうと、少なくとも私たちはこの言葉の意味を知るムスリムなのですから。
 私たちが、アッラーとその使徒を知っていることで、すべての問題を解決できるムスリムになれますように。私たちがアッラーの下さったイスラームの力で自らを光らせることができますように。
アルハムドゥリッラーヒ ラッビルアーラミーン

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