スーフィズムと哲学的思惟



井筒俊彦(Izutsu Toshihiko)先生




以上、私はスーフィズムの修行過程を、いちばん初歩的階段から始 めて、最後にスーフィー的主体性が確立されるところまでたどってまいりました。こ のスーフィー的主体、神秘主義的主体が、この最高の「神的われ」の絶対境地から、 人間的理性の次元まで降りてきまして哲学的に思惟し始めたらどんなことになるか、 それがわれわれに最後に残された問題であります。

もちろんこのスーフ ィー的主体は必ずしも哲学的思索の道に入るとはかぎっておりませんので、というよ りは、むしろ大多数のスーフィーは、この道に入ることを潔しとせず、むしろ哲学以 前の領域にとどまって、先ほどお話いたしました意識の第四層、第五層でのヴィジョ ンを「シャタハート」=酔っぱらいの言葉、酔言として表現するにとどめておくか─ そしてこれがスーフィズムの歴史の最初期に表われた巨匠たちの多くがとった道なの ですが─そうでなければ中期・後期のスーフィーたちの多くに見られますように、自 分がたどってきた修行の道程において体験したことを詩的言語に移して表現する─そ れがペルシア文学の一大特徴をなす神秘主義的象徴文学なのですが─、そのどちらか の場合であることのほうがずっと多いのです。しかし、なかには道の蘊奥をきわめた のちに、哲学的衝動のおもむくまま、自分の体験にもとづいて積極的に哲学を始める 人もあったのであります。その結果が前回申しましたイルファーンという特別の哲学 であり、その最初の、そしておそらく最も偉大な代表者がイブン・アラビーとスフラ ワルディーの二人であります。時間の都合もありますので、この二人のうちでイブン ・アラビーのほうを主といたしまして、イルファーン的哲学の基礎をお話したいと思 います。と申しましても、もちろんごく簡単な初歩的な見取図を描くことしかできま せんが。

一般に神秘主義といわれているもの、とくにイスラームの神秘 主義、スーフィズムはどのような点で哲学思惟と結びついていくか、どこに両者の本 質構造的な接点があるか、まずそのへんから考え始めてみたいと思います。
そもそもわれわれの世界との認識的な出会いは、さまざまな感覚的印象の渾沌た る渦を知覚的に整理するところから始まるとみてよろしいかと思います。感覚と知覚 、それがわれわれの日常的経験の世界を構成します。ふつうの人にとってはそれが現 実であり、それだけでけっこうなのですが、しかし、それだけでは満足できない人た ちもあります。われわれが感覚・知覚を通じて接触する現実、いわゆる経験世界は、 それはそれなりにその次元においてはたしかにリアリティーではありましょうけれど も、それは本当のリアリティーの一部であり、表層であって、この表層の下にはどこ まで続いていくかちょっとわからないような深層がある。この存在の深みを知ってこ そ存在を知ったということになる。そしてそういう存在の深みを含んだ多層的構造こ そが、本当の意味での現実というものであるというわけであります。

日 常的経験の次元におけるわれわれの世界との出会いは、いま申しましたように、感覚 器官を通じて生起する無数の感性的印象の入り乱れ、錯綜する渾沌であります。われ われはふつうこの感性的渾沌の諸要素のあるものを知覚的に選択しまして、一定の形 で整理することによって、そこにわれわれにとって意味のある一つの存在秩序、すな わち「世界」をつくり上げます。この知覚的選択と整理の過程には言語の意味的カテ ゴライゼーション、つまり類別的対象化というものが内面から大きく働いていると考 えます。現代言語理論でよく近ごろ問題にされておりますフランスのマルティネ(And re Martinet)の提唱する二重分節(la double articulation)理論にしたがって申しますならば、言語の第一分節の存在論的作用と いうようなことになりましょうか。つまりわれわれの経験する存在界、われわれにと っての有意味的な存在秩序としての世界は、第一次的に知覚とともに、知覚によって つくり出されるのでありますが、その知覚の作用そのもののなかに言語が範疇的に、 あるいは第一分節的に入り込んできて、はじめからその構造を規定していると考える のであります。簡単にいいますと、われわれは現実をなまのままとらえているのでは なくて、われわれがそれを意識するときには、すでにもう言語的記号単位、あるいは 第一分節単位、つまり「赤い」とか「白い」とか、「花」とか「山」とかいう語の分 節作用によってあらかじめ意味的に整理されている。そういう形で経験されたものが いわゆる現実の表層であります。しかし、その整理の仕方、すなわち第一分節体系の あり方は、言語ごとに微妙に違ってきます。

こうしてみますと、われわ れがふつうに経験するいわゆる現実なるものが存在のきわめて極限された、歪曲され た形象にすぎないということになります。神秘家─われわれの場合にはスーフィーで すが─とは哲学的に申しますと、まず第一に、このような言語習慣からくる限定を取 り払って、存在のなまの姿にじかにぶつかりたい、また、そういう形而上的実在体験 が実際に可能であると信じている人たちであります。「赤い」とか「白い」とか、「 花」とか「山」だとかいういっさいの言語的な限定をきれいに取り払ってしまって、 その向うにあるXをXとして見るということであります。それがすなわち実在の深層を 見るということであります。そうして、そうしたあとで、改めて「赤」とか「白」と か「山」とか「花」とかとして限定された姿において現実を見直す。すなわち無限定 のXがしだいにさまざまに自己を限定していくありさまを、Xの立場から新し く眺める、そういう過程を経ることによって、存在世界の真のあり方が把握できると 考えるのであります。

つまりまず最初に形而上的体験がなければならな い。そういうものがあって、そのうえではじめてそれの自己展開として形而上学とか 、存在論が可能になってくる。しかし、たびたび申しましたように、形而上的経験と はいわゆる現実の深層を直接に見るということであります。スーフィズムにいわせま すと、現実の深層を見るためには、認識主体としてのわれわれの意識が変らなければ ならない。つまり意識そのものが深化されなければならない。言い換えますと、意識 の表面ではなくて深層が開かれなければならない。そのための方法が、さっきややく わしくご説明しましたズィクルの修行であります。心が観想状態、三昧に入ってしだ いに深まっていくにしたがって、感覚、知覚、理性とはまったくちがった異質の認識 能力が発動し始める。これは誰でも実際に経験できることです。そしてそれに応じて 事物、あるいは世界のいままで隠れていた側面が見えてくる。そして神秘家にとって はそれが現実の真相、真の姿でもあり、また深層でもあることです。通常の意識が拡 大されてその地平が広くなるといってもいいかと思いますが、神秘家スーフィーの感 じ方にもっと忠実にいいますと、意識の深い層が開かれて、そこに存在の深みが現わ れてくると表現したほうがいいと思います。つまり前にも申しましたように、意識の 浅い層は現実の浅い層を見る。意識の深い層は現実の深い層を見るということです。 そして観想状態において開かれる意識のこの新しい地平に、そしてそこにのみ存在の 深みが開示される、ということは、神秘家たちのゆるがすことのできない確信であり まして、彼らにとってはそれが観想体験の実在認識的な価値あるいは意義であります 。したがって、またそれこそ神秘主義が哲学と切っても切れない縁(えにし)で結ばれ るところ、神秘主義が哲学として展開する始点(アルケー)なのであります。
もし、哲学なるものが、一般的に言って、事物・世界、あるいは現実を真にそれ らがあるままに、つまり仏教でいう「如実(じょじつ)に」把握することと深く関わる ものであるとすれば、そしてまた神秘主義的主体において開かれた意識の深層が事物 の真のあり方(深層=真相)を知るものであるとすれば、神秘主義に決定的な哲学的価 値のあることは当然でありまして、むしろイブン・アラビーやスフラワルディーが断 言していますように、そういう体験知をのぞいては、存在論も形而上学も成立し得な いとすら言えるのではないかと思います。もちろん、観想意識に開示されるものこそ 真実在であり、存在の真相であるということを理論的に証明することはできない。そ こに問題があると言えば言えましょう。要するに、神秘家たちの哲学的立場は、ヤス ペルスの表現を使えば一つの「哲学的信仰」(philosophischer Glaube)であります。しかしここまでくれば、どんな哲学もそれぞれの「哲学的信仰 」の基礎の上にうち立てられたものといわざるを得ません。経験論者、実証主義者に も彼ら独特の「哲学的信仰」があります。素朴実在論ですら、疑いもなく一つの「哲 学的信仰」であります。ですから私はこの問題はここではもうこれ以上追求しないこ とにして、事実上、イスラームの神秘主義において成立した観想的主体が哲学的にコ ギトを宣言し、哲学的に思惟し始めるとき、その思惟はどんな形をとり、どんな構造 をもつ哲学として展開するかという問題に注意の方向を移してまいりたいと思います 。


「井筒俊彦著作集5・イスラーム哲学」、「イスラーム哲 学の原像」からの引用(ページ417)
東京:中央公論社、1995年、ISBN: 4-12-403051-7、定6796価円

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