神秘階梯
スーフィズムの修行法と神秘の光への道

学研編




神へといたる六つの階梯


スーフィズムにとっての修行とは、人間が神に近づくための準備以外のなにものでも ない。修行の眼目は自己の行為を神の土里心に金面的に一致させるとともに、内面的 に人間と神とを隔てる一切のものを徹頭徹尾排除することにある。そのための修行法 を体系づけたものが、マカーマート(神秘階梯)である。


スーフィーの修行は、初歩から奥義まで、通常6つの階梯(段階)をひとつひとつ順 を追って進められる。それらはきわめて厳格精綴なシステムに則っている。階梯の数 や階梯ごとの修行法は宗派によって差異があるものの、基本構造はおおむね共通して いる。


スーフィーの修行は、チベット密教などの修行同様、勝手に自分のみで行うものでは なく、必ずムルシドやシャイフないしはピールとよばれる導師の指導のもとで師貧相 承されるのである。


本稿では、代表的な第6までの階梯、さらにスーフィズムの終着点ともいうべきファ ナー(神秘的合一)にいたる道程について述べていくことにする。



第一階梯・懺悔(タウバ)


スーフィー志願者は、まず神に対して従来の世俗的欲望に満ちた生活習慣や今まで犯 した罪に対する全面的な悔い改め(改俊)を行わなければならない。と同時に、今後 スーフィーとしての禁欲的な生活を送り続けることを誓う。いわばスーフィーとして の新生のスタートである。自らの意志でスーフィーを志願する場合もあるが、今まで まったくスーフィーと関係のなかった者が、霊夢やある種のヴィジョンを体験するこ とによって回心し、入門することもあるという。また、入門後、もし誓いを守れなか った場合は神に許しを請い、再度スーフィーとして生きるべく決意表明する。有名な スーフィーの中には70回悔い改めたのち、やっと永続的な回心を遂げた者もいるという。



第二階梯・律法遵守(ワラア)


自分の言動が四六時中、神に注視されているという自覚を持ちつつ、ムスリムとして の義務とスンナを厳格に遵守する。



第三階梯・隠遁(ハルワ)と独居(ウズラ)


現世の束縛や人々との交わりのすべてを絶ち、世俗的な欲望の一切を捨て、独居する 。独居中は師の指導に従って断食や徹夜の祈り、コーランの読誦や沈黙の誓いなどを 行う。


エジプト生まれのスーフィー、ズー・アンヌーンは「ひとりでいる荷は神以外のもの を見ることなく、神以外のものを見ることがなければ、神の意志以外のなにものも彼 を動かさない」と述べ、独居の重、異性について強調している。


隠遁と独居に際しては、自分で生活のかて糧を得ながら修行しなければならない。そ れはムハンマドが、礼拝に没頭するあまり、食事の準備や家畜の世話などを他人任せ にする人を非難している(『ハディース』)ためである。


また、乞食は基本的に許されない。イスラムでは原則的に乞食が禁じられているから だ。ただし、地域などにもよるが、修行者や聖者が乞食をすることはある程度黙認さ れていたようである。有名なイスラム神秘学者ジュナイドは、その弟子シブリーの自 尊心を打ち砕くために、あえて1年間乞食をさせているほどだ。



第四階梯・清貧(ファクル)と禁欲(ズフド)


スーフィーの別名がファキール(貧者をいう原義。転じて聖者)であることからも明 らかなように、清貧と禁欲の修行は、諸階梯中、最も重要とされている。


清貧とは、生活していくうえで最低限必要なもの以外は一切所有せず、富や名誉権力 などに対する欲望を全面的に否定することである。あるスーフィーの修行者は、寝る ためのゴザと枕用の煉瓦一個、それに食事用と洗面用を兼ねた皮製の器しか持たなか ったという。


また、禁欲というのは情欲を捨て去ることはもとより、食欲や睡眠欲などの人生にと もなう欲望や快楽を滅し、あえて難行や苦行を行うということである。


イギリスのイスラム学の泰斗R・A・ニコルソンがスーフィー修行者の教訓を記録して いるので紹介しておこう。


「金持ちが富を失うことを恐れる以上に、貧しさを失うことを恐れよ」


「善良にして不平を言わず、神に汝の貧しさを感謝せよ」(中村廣治郎訳)


それでは本当の貧者とスーフィーとはどのように違うのかという疑問を持つ方もおら れよう。スーフィーは貧者であると同時に、後述するように通常の「自我」が消滅し ている存在であるところが根本的に違うのである。


ともあれ、スーフィーたちはこの清貧と禁欲の遺徳的修練が神の大いなる功徳が得ら れる根本的な鍵であると考えている。



第五階梯・心との戦い(ムジャーハダ)


いかに外面的形式的にスーフィーとしての修行に明け暮れた生しても、内面がともな っていなければまったく無意味である。そのため、この階梯においては、人間の内面 の悪い心、つまり、嫉妬、敵意、高慢、傲慢、怒りなどと戦い、それらの矯正、克服 に努める。


ただし、この心との戦いは至難であるという。スーフィズムは人間の自我を悪しき欲 望の棲処三見なし、それらの悪しき欲望をナフスと名づけている。このナフスこそ、 現世的欲望や悪魔と親しく、スーフィーが神と合一することを妨げる最大の障害物で ある。


ナフスは修行によって追い出すことが可能である。その場合、ナフスは、多く動物の 形をとるといわれる。


ムハンマド・イブン・ウルヤーンというスーフィーは、修行中、その口から若い小さ な狐のようなものが飛び出すのが見えた。「それはナフスである」と神が教えたので 、彼は思わず、踏みづけたという。しかし、奇妙なことに、踏みつければ踏みつける ほど、そのナフスは大きくなった。


そこで彼が「他のものは苦痛や打撃を与えれば壊れるのに、どうしてお前は大きくな るのか」と聞いた。すると、ナフスは「私は天の邪鬼に作られだからです。私にとっ て他の者の苦痛が快楽であり、他の者の快楽が苦痛になります」と言ったという。


このナフスは狐だけではなく、犬や風や蛇などの姿になることがスーフィズム文献に 記されているバグダードで刑死した著名なスーフィーハッラージュのナフスは犬の姿 をとって逃げていったと伝えられている。


こうしたナフスを滅却させるためにもスーフィーは瞑想などの苦行に励むのである。


瞑想は、神を目の当たりにするかのように意識を高めながら礼拝するのが原則である 。11世紀のホラーサーン地方(イラン)出身のスーフィー、アブー・サイード・イブ ン・アビー・ハイルは、つねに視線を自分の隣のあたりに下げて瞑想していたと伝え られる。また、インド経由とされる調息法も交える場合もあり、ヒンドゥー教や仏教 の禅定三昧などとの関連性も指摘されている。



第六階梯・神への絶対的信頼(タワックル)


心との戦いに打ち勝つことは、自己の首里心=主体性の根絶に成功したこととほとん ど同じであると、スーフィズムでは考える。その段階で修行者は、自己の利害関係に は完全に無関心となっている。


残りの修行は、神に対して全面的に帰依し、その定めに全面的に従うだけである。つ まり、すべての現象は神の意志であり、計らいであると心得、食べ物の心配をせず、 病気になっても自ら進んで医者に見てもらうこともせず、完全に受動的な生活態度に 終始するのである。


これらの第1から第6までの階梯をすべて昇り終えると、ようやく神に接近するための 準備が整ったと見なされる。これらすべての神秘階梯を通過したスーフィーは、神に よって霊知(マーリファ)と真理(ハキーカ)と呼ばれる一段高いレベルの意識に引 き上げられるのである。




◇◇◇◇◇




◇ズィクル(連唱)とファナー(消滅)


その次に、いよいよ、ズィクルの段階へと進む。ズィクルの原意は「思念」、「想起 」だが、スーフィズムにおけるズィクルとは、一切の難行や雑念を廃し、ただひたす ら神の名(アッラー)を唱えるなどして、神に思念を集中することである。


ズィクルの方法は宗派などによっても違うが、大まかにいえば、一定の身振りによる ヨーガ的な所作とともに、意識を極度に集中しながら、独特の抑揚をつけて「アッラ ー」や「アッラーは偉大なり」あるいは「アッラーに栄光あれ」「アッラー以外に神 はない」などの章句を延々と反復しつづけるのである。


ズィクルに関して伝説的な逸話がある。サフル・イブン・アブディラーの弟子は一日 中「アッラー・アッラー…」と連唱していた。やがて師から睡眠中もズィクルを命じ られたので、それこそ無我夢中で唱えつづけた。ある日のこと、その弟子の頭の上に 材木が落ちてきて、出血した。驚くべきことに、その滴り落ちる血の中に「アッラー ・アッラー…」という文字が見えたという。この逸話は、この弟子が神の思し召しに かなっていることを物語るものであるが、同時にスーフィーたちが、いかにズィクル に一意専心、没入していたかが窺われるではあるまいか。


ズィクルは一人で行う場合もあるし、集団で行う場合もある。また、心に神を念ずる だけで、口に出して唱えないズィクルもある。


いずれにせよ、ズィクルは神秘的合一に到達する方法としてきわめて重要であり、ス ーフィズム信奉者の多くはこのズィクルを、神と接している時間がいっそう長いとい う理由から、ムスリムの義務である一日5回の礼拝よりも高く評価しているといわれる。


スーフィズムの理論家ガザーリーはズィクルについて次のように述べている。「孤独 の中で坐しながら『神よ、神よ』と口に出して繰返し繰返し増え続け、あたかも言葉 だけが舌の上を流れるような状態に至るまで心を集中し続ける……一次に、運動の痕 跡が舌から完全に消えているのに、心はズィクルを続けているような状態になるまで この行を続ける。さらにこの行を継続すると、その言葉のイメージ・文字・形が心か ら消え、言葉の観念のみが、あたかも心に癒着したかのように心から離れることなく 残るようになる」(中村廣治邦訳)


その後はスーフィーは「ただ神の息吹きを坐して待つだけである」という。もはやス ーフィーの人為的な修行はズィクルまでであって、それから先は神の意向あるのみと いうのが、正統的なスーフィズムの立場だからだ。


それでは何を待つのかといえば、神が預言者や聖者に示した「慈悲」(啓示)にほか ならない。「もしスーフィーの期待(神の恩寵を得ること)が真実なるものであり、 彼の願いが純粋であり、その修行が健全であり、さらに自己の欲望が心を乱し、雑念 が彼を現世の絆に引き戻すことがなければ、真実在(なる神)の光が心の中に照り輝 く……」


この光の顕現こそ、神の慈悲であり、恩寵の証である。「神の真性が完全に啓示され 、その結果、全宇宙を裏目し、そのすべてを知り尽くし、あらゆる存在の形式が心の 中に開示される程に心は広げられる。この瞬間、全宇宙があるがままに開示されるた めに、心の神秘の光が明るく輝く。」


このとき、スーフィーはまさに「タウヒード(神の唯一性)の中に没入している」( ガザーリー)のである。それはいわば神人一体の妙境である。


同時にこの状態は、自他の区別がない、まったくの恍惚状態、エクスタシーに満ちた 忘我の境地であるという。このような自己も他者も消滅し、融解している神秘的合一 状態をスーフィズムではファナー(消滅・消融)と呼んでいる。


誤解のないようにいえば、このファナーの状態は失神や無意識とはまったく別次元の もので、自己が神の中に包含され一体化している歓喜に満ちた高次元の状態である。 このファナーこそ、スーフィズムの修行にともなう最高目的であることは改めて述べ るまでもないだろう。


スーフィズムの立場からすれば、預言者ムハンマドは、このファナーの状態で神の言 葉を伝えたのである。ムハンマドの伝承には「真の信仰者の識見に注目せよ。という のは彼はアッラーの光によって見るのであるから」とある。「アッラーの光」とはフ ァナーの際、心中で見られる光とされている。



◇修行の究極に顕現する「絶対我」


前述のニコルソンによれば、ファナーは一種の悟りであり、それを体験したものは神 の恩寵によって超自然的識別力=霊感が得られるという。実際、スーフィーは霊感の 持ち主とされ、また自らそう公言する場合もある。


スーフィーはファナーを体験することによってムハンマドの原体験を追体験し、それ によって各自がムハンマドのミニチュア、すなわち小ムハンマドを自認するようにな っていった。


だからスーフィーたちは、たとえばバスターミーのように、自ら体験した境地をその まま「我は真理(=神)である」と叫び、またそのため処刑された者もいた。伝統的 なイスラム教の立場では、神を名のることは冒涜以外のなにものでもないからである。


イスラム学者の中村廣治郎氏が指摘するように、この場合の「我」は「人間の神への 従属性の極致を表す逆説的な表現」であり、いわば「我性を超えた絶対我」であった ことは間違いない。スーフィーはファナーにおいて、その「絶対我」を体験せんとす るのである。


しかしファナーが持続する時間については、スーフィーによって個人差がある。数分 から数時間、あるいは1日から数時間などまちまちである。長い記録ではサフル・イ ブン・アブディッラーの25日間連続というものもある。冬であったにもかかわらず、 彼のシャツはいつも汗はみ、しかもその間、食事は一切とらずに、神学者の質問にも 笈早見ることができたという。


ファナーの持統時間を各自が制御可能であったと考えられる記録もある。ファナーの 恍惚状態にあったバスターミーやジブリーなどの聖者は、礼拝の時間になると、恍惚 状態から戻り、滞りなく礼拝を行った後、ふたたび恍惚の境地へ没入したという。


ちなみに、ファナーの際には肉体的感覚が失われることも少なくない。足に壊疽がで きていたアブー・ハイル・アクタゥというスーフィーは、医者から切断しなければな らないといわれていたが、そうさせなかった。そのため、医者はアクタゥがファナー の状態のときに、切断の手術を行った。アクタゥがファナーから戻ると、すでに手術 は終わっていた。まったくの無痛であったという。


このようにファナーの状態はきわめて特別な神秘体験であるが、永続的なものではな い。したがってスーフィはそのファナーの体験を何度も繰り返しながら、神との触れ 合いを深めていくのである。やがて意志の上で神との不一致がなくなる極点まで行き 着く。そのような境地はきわめて稀であるが、その段階に達したスーフィーは聖者以 外の何者でもないと見なされる。


ファナーを仏教の涅槃の境地と結びつけて考える方がいるかもしれないが、両者は個 我=煩悩の消滅という点で共通しているのは確かである。ニコルソンによれば、涅槃 は否定的なものであるが、ファナーは神の永続的生命を意味するバカーをともなった 肯定的なものであり、両者は根本的には対照的であるという。無神論と有神論との違 いといえばそれまでであるが、スーフィズムの神秘体験は、ファナーにきわまるので ある。


スーフィズムの最高の境地がファナーであることは間違いないが、スーフィーによっ てはファナーを最終目的とするかどラかで解釈が異なっていた。


10世紀初めに没したジュナイドによれば、ファナーは正気と自制を失った異常な状態 であり、スーフィーの唯一の目的とすべきではないとした。一方、バスターミーは、 ファナーは神と人間の垣根を取り払うものであるとしてこの「酔える」状態を重視した。


ファナー重視は危険も孕んでいた。


というのは、ファナーに達すればすべてこと足りるという即席主義がはびこり、前段 階の神秘階梯の修行などがなおざりにされたり、無視される場合が往々にしてあった からである。


そのため、スーフィズムの趨勢としては、ファナーの体験を経たのち、その状態にと どまるのではなく、ふたたび世俗の中に入り、神の御心にまかせて奉仕生活をするこ とが重要視されるようになっていったのである。それは正統的イスラムに対するすり あわせでもあった。


ファナーは本来的に神の慈悲が不可欠とされるが、そのために認知されていた伝統的 な方法論たるズィクル以外に、サマーとよばれる熱狂的な歌舞音曲が用いられる場合 が少なくない。実際、それによって人工的にファナーの境地を獲得させることができ るからで、修行する時間のない民衆などの支持を集めた。だが、サマーは過激なエク スタシーを追求する要素が強いため、激しい批判に晒されることも多い。正統的なタ リーカ(教団)では、サマーを廃止したところもある。


いずれにせよ、スーフィズムの修行は伝統的正統的な流れがある一方、時代とともに 世俗化や呪術化の路線追求もなされ、結果的にスーフィズム信奉者の裾野を大きく広 げることになったのである。




書名

著者

出版社

出版年

定価
イスラム教の本
ISBN: 405601101X
学研編 東京・学習研究社 1995 本体1165


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