宗教は過去のものか

ムハンマド・アサッド著


六、異論の分析


ここでは現代のヨーロッパ思想家たちの、宗教に対する反論を調べてみよう。クリス トファー・ドーソンはその著書「進歩と宗教」の中で次のように述べている。


「現代の世界の大宗教に対する批判は、決して根拠のないものではない。宗教の精神 絶対論と形而上学的概念への集中は人間を、物質世界を無視するよう、そして実際の 社会活動から離れたものに変えようとしてきた。しかしその「永遠」と「絶対」への 先入観と、そこから派生する「来世的感覚」が相対的知識(自然科学を指す)の価値 、あるいは人間生活自体を終局的に破壊すると思われるため、現代的精神とは相容れ ないのである。したがって、現代が求める宗教とは、急激な発展を遂げた物質文明や 、社会的進歩に適応できる宗教であると思われる」


さて、この宗教への告発を公正に分析してみるならば、その一語一語がキリスト教や 他の神秘的な宗教には、完全に当てはまることが確認できる。しかし、同時にそれが イスラームには決して当てはまらないことも良くわかる、かえって上記の引用文は、 間接的にイスラームの立場を肯定し、そのすべてを確認しているのだ。


理解の困難な、あるいは理解不可能でさえある教義上の主張(例えば三位一体の教義 とか、身代り贖罪の教義)を持つキリスト教には、多くの精神的絶対論があることは 疑いないが、イスラームの教義の中にはその種のものは何も見出すことはできない、 反対にイスラームの倫理概念のすべては常識に訴える力にもとづいている。


それは人間の心を物質の世界から、そして実際の社会活動から離れたものに変えるよ うにはしていない。むしろ、この物質世界は「創造」の実証的様相であり、それゆえ 社会活動、すなわち生活条件を改善しようとする努力は、宗教の欠くことのできない 一部であることを主張している。「永遠」と「絶対」の先入観に閉じこめられること なく、イスラームは相対的科学知識の価値を、そして人間の生活それ自体の価値を強 調しているのである。


イスラームはこのように「行動の奨励と社会的進歩の正当化に関する動機」を人々に 示している。これこそドーソンが「宗教に対する現代の基本的な要求」と述べている ものであり、他の思想家の多くも一致している点であろう。


端的にいえば、科学とイスラームの教義の間には、互いに桐容れない部分はないし、 またこれまでにも決してなかった。そしてそれは、人間の本質とイスラームとの間に は、相反するものは何もないというごく簡単な理由による。イスラームの教義が、生 活のあらゆる側面、すなわち肉体面、心の状態、社会的組織体の活動などのすべてに 、現実的なアクセントを置き、真実と幸福を求める人間の努力に対する効果的な刺激 を与えているからである。


「宗教は過去のものである」という叫びは、その最も深い部分において、西欧社会の 叫びである。イスラームの世界では、このような叫びは結局何の意味も持っていない 。西欧文明を、唯一の「文明そのもの」とみなすことに慣れた、近視眼的な物の見方 だけが、西欧の宗教批判−実は西欧の宗教上の経験によって左右されたもの1がイス ラームとその立場にもあてはまるという錯誤をもたらす。というのは、イスラームの 主張のうち、いかなるものも、それが人間の真の要求を十分に満たさぬものはないか らである。


訳注=アラビア語の「イルム」は学問全般を指すが「物事を確実に知る」という意味 を合むので、「アーリム」はたとえ神学者であろうとも、やはり科学的な心構えを忘 れてはならない。






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