宗教は過去のものか

ムハンマド・アサッド著


四、宗教と西欧社会


このことはイスラームの世界にもあてはまる。他の人々同様、我々イスラーム教徒も 渦巻く不安の洪水の中で生きている。道徳的混乱の時代である。社会は激しく揺れ動 いている。昔からの慣習の多くは、西欧文明の影響による経済的圧力の下に、いま崩 壊しつつある。本来のイスラームに戻ろうというスローガンにもかかわらず、イスラ ームの教えを生活の原理として適用しようとする者の数は、きわめて少ないのが現実 である。



イスラーム教徒の中でも、西欧化した「進歩主義者たち」はこれを否定してはいない 。かれらは「時代の精神は宗教的思想と相反する」と主張している。まさしくそのと うり、時代の精神は宗教的思想に反してはいる。しかしそれは、西欧社会とその歴史 の中でのみいえることであり、イスラームの世界ではあてはまるはずがない。西欧の 思想家たちが宗教とは別の方向に進むなる、その立場はキリスト教の硬い支配の歴史 から見て、よく理解できる。



イスラームの歴史には、そのような芽を積む圧力はいっさい征かった、イスラームの 宗教概念とその歴史は西欧のそれとは異なった性質のものである。その違いはきわめ て大きく、それを比較する時、はじめて、人々が宗教を捨てたのではなく、西欧が育 んだその特殊な奇形に反発を感じたことが理解できる。



キリスト教は誤りを犯し、失敗しているのである。それは人生の現実的な面、すなわ ち肉体生活、肉体的要求と願望、経済と政治などから、キリスト教そのものを遊離さ せてきたからである。キリスト教では、「神のもの」(すなわち倫理と道徳)と「皇 帝のもの」(すなわち政府、経済および社会組織の分野)との間に、はっきりと境界 線を引いてきた。それは現世での「自然な生活」を悪とみなし、「超自然の霊性」と の間には越えられない溝があると主張する教義の倫理的矛盾であろう。



キリスト教神学は、「精神」と「物質」を本質的に相反する実体としてとらえている 。その考え方は、「物質」を悪の領域に入れ、「物質」への愛着は悪への愛着と同義 であるとみなしている。それゆえキリスト教でいう「贖罪」とは、物質への欲望の罠 から自分自身を解放し、「原罪」と呼ばれる行為によって堕落した人間が、元の理想 の姿に戻ろうと努力することを条件としている。



キリスト教形而上学の創始者パブロは、すべての罪の根源は「肉体」にあるとし、キ リスト教の倫理は肉体的な面を非難することに向けられてきた。キリスト教神学がど のように変化してきても、肉体面への虜視が教えの根本にあることは、疑う余地もない。



教会が倫理の唯一の源泉であったヨーロッパ中世においては、そのような考え方に疑 義を抱く者はいなかった。人間生活の肉体面におけるすべての感覚と欲望は、単に劣 等としてではなく、精神生活に反するものと見なされていた。



キリスト教が西欧の精神世界に与えてきた影響力の多くを失い、肉体の権利が高めら れてきた今日でさえ、「官能的」という表現になおつきまとっている軽蔑的意味は、 キリスト教の倫理背景を十分に物語っている。それについての一つの例をあげよう。



「イスラームの予言者ムハンマドは、精神的に高尚な人物ではなかったはず。なぜな らば、かれは性生活を楽しみ、信者たちにもそれをすすめたのだから」という西欧に 広くゆきわたっている幼稚な仮説の中にみることができる。弁解がましい、キリスト 教の近代解釈においてさえ、その反官能的、反肉体的姿勢が十分見うけられる。



キリスト教が教徒の心に課した苦しい葛藤は、教会が人間存在の最も自然な部分、す なわち男と女の接合を否定したことにあり、それが、「原罪」の永遠のシンボルであ ることを想起すれば十分に理解することができよう。



しかし、当然のことであるが教会は不可能を可能にはできなかった。人間生活から「 性の衝動」を排除することはできなかったし、「物質」を「邪悪」と見なしたにもか かわらず、人間の世俗的かつ自然な興味や、「物質」面での進歩に対する願望を抑制することはできなかった。



中世の初期、一つの妥協が行なわれた。教会は人間の世俗的な欲望を「必要悪」であ る、ということに暗黙の了解を与えた。そして人々はあえて宗教に反対する必要はな く、ただ宗教理念と現実とを区別すればよしとした。このように教会は、人間生活の 実際的現実的側面(すなわち教会が征服できず、認めざるを得なかったもの)を宗教 の領域外に追いやることによって、指導範囲を縮少させながら、人々に対する影響力 の一部だけでも守ろうとした。そこではじめて、宗教とは人生のごく一部にすぎず、 生活のほとんどは宗教とまったく関係がないという、西欧の代表曲考え方を生み出し たのである。



そのようなわけで、ヨーロッパ人やアメリカ人が、実生活において、キリスト教の信 条にしたがえないのは、道徳心が欠落しているからでは決してないことがわかる。教 会が教義の実生活への適用を重視したことはなく、実行不可能な理念を提出すること にのみ終始していたことが、その事実であろう。



近代のキリスト教思想家も、以下の引用文に見られるように、教会のこのような姿勢 に同調している。



「新約聖書の中でのべられている絶対的基準は、キリスト教徒に実行するよう義務づ けられているにもかかわらず、遂行不可能な一つの理想像にすぎない。福音書に記録 されている、道義的教義や絶対的信条は、日常生活に直接適用すべきものではない」 (E・バーカー、R・プレストン共著、「社会の中のキリスト教徒」より)



キリスト教と異なった宗教理念の下で育ったイスラーム教徒にとって、実際問題から 離れた倫理が存在するという考え方は、まったく不思議に聞こえるに逢いない。現在 見られる西洋文明の崩壊現象は、キリスト教が押し進めてきた、この非現実的な二元 論に本質的な原因を求めることができる。千五百年以上もの永い年月にわたって、西 洋の倫理と道徳を培かってきた考え方は、すべてキリスト教から派生したものである 。千五百年以上の間、ヨーロッパ人は道徳が実生活で通用するものではなく、倫理は どこまでも倫理にすぎず、生活は「倫理」に左右されるものではないことを組織的に 教えられてきた。



現在西欧世界に見られる破局は、その原因を「道徳的信念」と、社会やグループの利 益につながる限り、どんな不道徳なことをしても良いという「便宜主義」の間に一線 を画す、二元論的習慣に求めることができる。



西欧の経済人政治家のうち誰一人として「便宜主義」を否定しない者はいないが、そ れを打ち破る道義的信念を持つ者も見あたらない。キリスト教は長い間、美しい理想 を説いてきたが、それは教会で説教をするためには「まことに結構だが、実生活は違 う」と受けとられたものである。



キリスト教は何世紀もの間、。ヨーロッパ人の体験してきた唯一の宗教であったため 、キリスト教がすなわち宗教そのものであると考えるように慣れ育ってきた。そのた め「キリスト教への失望」は、「宗教そのものへの失望」と思い違いされている。か れらはこれまで知っていた唯一の宗教の有り方に、失望するようになってきた。それ は、来世での正義と幸福は約東するが、現世での厳しい要求に答えることのない宗教 への反発なのである。



実際的効果のない、説教に閉じこもった宗教。社会的公正の樹立のためには何も貢献 することのない教会。信仰の形、教義と超越的な希望は持つが、個人や社会生活につ いての積極的な綱領をもたぬ宗教。



教会がしばしば虐待や搾取に力を貸し、弱者を護らず、権力者にとって有益な社会組 織を守ることに奔走したことを、人々は良く覚えている。多くのヨーロッパ人は、宗 教の名のもとで、再び武力と虐待の暗黒が再現されるのではないか、という恐怖を抱 いている。そして、「宗教」という名が、不安の代名詞となりつつある今日である。







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