宗教は過去のものか

ムハンマド・アサッド著


二、宗教=倫理と道徳の源泉


 この「なにか」とは信仰をもつ者だけが認識し得るひとつの最終的な真理である。すべての宗教の核は、まず第一にこの世の中に存在するすべてのものは、創造者の意志によって造られたものであるということ、次に人間はその「意志」によって生活を送る存在であるということになる。なぜならば、もしわれわれ人間が、ある一つの絶対的な創造者の意志をすべての物の根源と考えない限り、人間の目的と行動が本質的に正しいか否か、また道徳的か否かを判断する基準を失うからである。
 人間には何か一つ中心となる信仰(核)がなくては、道相マはその正確さを失う。それはまず曖昧な信念となり、次に単なる何かの「方便」になりさがって、遂には消滅してしまうのである。


 すなわち、ひとつの目的や行動が特定の人間や社会(国家)にとって有益かどうかと いう問題になってしまうのである。そして最後には「善と悪」の価値基準は相対的な概念となり、個人(または共同体)の要請によって都合の良いように解釈され、時代 の経済的情況の変化にともない揺れ動き、ついには風化してしまうのである。
 道徳の領域に関する宗教的思索は、とくに現代の反宗教的傾向をみる限り、たしかに 最重要のテーマであろう。今日、一部の知識人たちは、宗教が未開時代の遺物であり、「科学の時代」を生きる現代人にとって、全く無意味な存在であると説いている。 「科学」は過去の抜殻のような「宗教」にとって代わるものであり、無限に進歩し、純粋理性に従って生きることを教え、最終的には形而上学的な拘束を受けることなく 、新しい道徳基準を作ることを助けるものであると主張している。しかし、このような主張は、十八世紀から十九世紀にかけての愚かなヨーロッパ的楽天主義の無批判な 受け売りにすぎない。その時代、とくに十九世紀の後半において、ヨーロッパの多くの科学者たちは、宇宙の神秘を解明すること、そして人間があらゆるものから自立し 、神のように完全な理性を獲得することは、目前に迫っていると考えていた。しかし最近、思想家たちは、この考えを完全に否定してはいないが、多少違った考えを持つ ようになってきた。


すなわち「完成された科学」でさえも、精神的な希望を、完全に満たし得ないことを 認識し始めたのである。


この大宇宙がいかにして成り立ち、生命がどのようにして誕生したかを、人間の科学 で簡単に解決できないことは、日々明らかになってきている。同様に、人間存在の本質やその目的を解明することはなおさら不可能であろう。しかしわれわれは、そこに 回答を与えないかぎり「善」と「悪」とを明確に区別することはできない。このような基準は、人間存在への洞察(真実であれ、間違いであれ)にもとづかないかぎり、 全く意味がないからである。



したがって「善」と「悪」とを定められないならば、道徳の規範も失われてしまう。 このことを現代の進歩的な科学者たちは、明白な事実として認識し始めている。かれらは自然科学が人間の諸問題を解明できないことを認識し、過去二世紀の子供じみた 「科学万能思想」を捨てた。科学を軽視しているわけではない。科学の進歩は人類に多くの新事実を提供する。しかしそれは人間の道徳的生活と直接の関係はもたない。



科学はたしかに人間の心理や、取り巻く環境をより深く理解するためには必要なもの である。しかし森羅万象を分析し、その法則を見出そうとするだけでは、人間存在の目的(そのようなものがあるとして)を解明し、人間に道徳的自覚を与えることはで きない。科学的思索をいかに深くめぐらしてみても、道徳の問題は科学の範囲には見つからない。それは宗教の領域にしかないのである。



その正誤は別として、我々は宗教的経験を通して、日々の生活のなかから道徳的規範 と倫理的価値を見出してきたのであり、決して科学的知識によって認識してきたのではない。ここで「正誤は別として」と特に述べたのは、いかなる宗教でもその形而上 の前提が間違っている可能性は充分に考えられることであり、その宗教を信じるか否かはつまるところ経験と理性にたよるしかないからである。またそれによってこそ人 間は、特定の宗教がどの程度肉体的精神的な要求を満たしてくれるかを知ることができる。経験と理性を用いることは絶対必要ではあるが、人間の生活を意義あらしめる ものは、あくまで宗教以外にはない。人びとは宗教を通じてのみ、微視的な生活の断片の連続から独立した、ひとつの定まった道徳価値によって行動しようとする。言い 換えれば、人々のなかに、善なるもの(したがって望ましいもの)、と悪なるもの(したがって忌むむべきもの)についての幅広い合意の基礎を作り上げるのは宗教以外に はないということである。しかも、このような「合意」なくして、人間関係のなかに何らかの秩序を作ることはできない。



このような観点から研究してみると、次のことが考えられる。すなわち最も広い意味 での宗教的衝動というものは、人類発展の歴史のなかで過ぎ去って行くひとつの事象ではなく、また時代が乗り越えてゆく薄っぺらな軽信でもなく、倫理と道徳の永続的 な原動力である。それはあらゆる時代と環境を通して、人間の基本的かつ真実の要求に対する唯一の回答であり、言い換えれば宗教的な衝動こそ人間の本能といえるであ ろう。







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