サラート・礼拝

イスラミックセンター編著


序文と用語解説


礼拝の意義


イスラームには行動規範ともいうべき五つの柱がありますが、礼拝(サラート)はその内でも二番目に重要なものです。勿論第一は信仰の告白(シャハーダ)であります 。断食(サウム)は一年のうち一ケ月これを行い、喜捨(ザカート)は一年に一度、 メッカへの大巡礼(バッジ)は一年のうち一度これを行いますが、礼拝は一日に五回 、すなわち夜明け前、午後早く、午後遅く、日没直後、そして夜に行います。イスラ ームの真髄は神の存在を認め、神に帰依することであり、それを実践するための最も 直接的な手段が礼拝であるともいえます。一週間に一度とか一日に一回の礼拝では不 充分であり、日々の実践的な行動を怠ることによって、われわれは創造主を忘れがち になります。礼拝が一日に五回必要とされている理由はここにあります。


一日に五回の礼拝をすべて、絶え間なく行うことはむずかしいように思えるかも知れ ませんが、創造主(アッラー)の前では無力であり、死後の世界ではアッラーにお会 いできることを信じている者にとっては、礼拝こそ喜びであり楽しみであるのです。 このことについては、イスラームの聖典クルアーンに次のように述べられています。


忍耐と礼拝によってお助けをこいねがえ。だがそれは、主を畏れる謙虚な者でなけれ ば、まことにむずかしいことで、かれらはやがて主に会うこと、またかれのみもとに 帰ることを、かたく心に銘している者たちである。(第2章45・46節)


イスラームの礼拝は、他の宗教の礼拝と同じように、いくつかの形式、すなわち定め られた一連の作法とクルアーンの読唱からなっています。これについては本文で詳し く説明しますが、ここで注意していただきたいことは、礼拝の動作や唱える言葉それ 自体は礼拝の本質ではない、ということです。では、礼拝の本質とは何か。それはイ スラームのすべての務め(喜捨、断食、巡礼)と同様、ムスリムが全身全霊をこめて 神(アッラー)に帰依することなのです。礼拝のたびに神に対する気持のすべてを披 瀝することはできないかもしれませんが、それをするしないかは別として、とにかく 一日五回の礼拝は欠かさず実行しなくてはなりません。


礼拝の義務を完全に怠り、またはたまにしか礼拝しないと、その人は次第に神への帰 依の心を失って行くことは想像にかたくありません。礼拝を無視すれば。たとえその 人がイスラームの信者であると自称したとしても、次第に神や来世を信じないような 考え方や行動をとるようになってくるものです。しかしこれとは反対に、定められた 礼拝を継続して行う者は、次第に自分が主のみ前にあることを深く感じ、心に平和を 覚え、善と悪に対する確固たる信念をもって行動すると同時に、神に対するまことの 帰依の精神を保つようになるのです。常に礼拝を行う者は、自分が限られた能力しか ない一人の人間にすぎず、この地上に生きる時間は僅かであることを認識し、また, 主は絶対的な創造主で宇宙の主権者であり、人間に生命を与えられた方であるから人 間はこの主の許に帰る存在である、という事実を片時も忘れることはないのです。更 に、常に礼拝を行う者は、神によって定められた分を超えないよう注意するようにな り、自分の良い部分を伸ばし、誤った行為や欲望を制御できるようになるのです。そ うしてやがては自分のあらゆる行動において、たやすく、またごく自然に善悪をはっ きりと識別できるようになります。


礼拝(サラート)について述べているクルアーンの数節を以下に抜粋してみましょう。


なんじら信仰する者よ、忍耐と礼拝によって助けを求めよ。まことにアッラーは、耐 え忍ぶ者と共にいましたもう。(第2章153節)


信仰する者たちは、アッラーを唱念して心の満足を得る。アッラーを唱念することに より、心は清められるのである。(第13章28節)


太陽が傾く時から夜のとばりが降りるまで、礼拝の務めを守り、またあかつきにクルアーンを 読唱せよ。まことにあかつきの読唱は、かれらの立証をささえる。また夜のある時間 を起きて礼拝に務めることは、なんじのために余分の功徳がある。主はなんじを、光栄ある地位に登らせたもうであろう。(第17章78・79節)


……太陽が上る前、またそれが沈む前に、なんじの主の栄光をたたえよ。なお夜のひ とときも、また昼の両端にもたたえよ。おそらくなんじらはよろこびを得るであろう 。(第20章130節)


それで、夕暮にまたあかつきに、アッラーの栄光をたたえまつれ。天においても 地にあっても、栄光はかれに属する。午后のおそくに、また日の傾き初めにもたたえ まつれ。(第30章17・18節)


礼拝の務めを守り、定めの喜捨をせよ。なんじらが己れの魂のためになるよう行ったどんな善事も、アッラーのみもとで見だされるであろう。まことにアッラーは、なん じらの行うことをすべてみそなわしたもう。(第2章110節)


アッラーの方では、特にわれわれ人間の礼拝を必要とはして居られないということは 充分心に留めておかねばなりません。というのは、アッラーは何ものをも必要とされ ないお方だからです。人間に関するすべての事象を含めて、全宇宙を統べ給うアッラ ーの権威は、たとえ誰ひとりとしてかれを認めず、またはかれに礼拝を捧げずとも、 いささかもそこなわれることはないのです。アッラーは、その尊厳と栄光を増そうと してわれわれ人間に平伏や称讃の言葉を求められることはありません。礼拝は、われ われ自身のため、われわれ自身の心の安らぎのためのものであって、アッラーの栄光 をたたえ、感謝と称讃の心をもってかれのみ前にぬかづこうとする、われわれ自身の 自然の本能にもとづいて行われるものなのです。


イスラームの礼拝の作法は、このような本能的な願望を端的に形式化し、発展させた ものなのです。礼拝の前にわれわれはウドゥーをして体を洗いますが、これはただ単 に体を清めるというだけでなく、礼拝の行為そのものに対する精神的準備でもあるの です。われわれはアッラーのみ前に立って、かれの導きとお助けを求め、われわれに 正しい道を示し給うよう、繰返しアッラーに祈ります。われわれアッラーの経典(ク ルアーン)を読唱することにより、アッラーの慈悲と公正さ、いつの日かわれわれが アッラーのみもとに帰ってすべてを捧げつくすといった事実を再認識するとともに、 クルアーンのさまざまな道徳的な教え、あるいはアッラーのみ使いであるムハンマド (彼に平安あれ)に対する信仰を改めて心にきざむのです。身をかがめて平伏するこ とは、アッラーに対する謙譲と帰依の心の端的な肉体的表現なのです。


沐浴と礼拝の時に行う動作とクルアーンの読唱は、われわれの預言者が行われたと全 く同じやり方で行われます。全世界のすべてのムスリム(イスラーム教徒)が、かつ て預言者が礼拝されたのと全く同じやり方で礼拝をするのです。かくしてムスリムは 、自分たちとアッラーとそのみ使いが一つの共同体を形成していることを立証するの です。前置きが長くなりましたが、実際の礼拝の作法については、本文を御参照下さい。


ただし写真と文章の説明だけでは、実際の動作を学ぶことは大変難かしいでしょう。 イスラミック・センター・ジャパンでは、常時希望者にたいしサラートの指導を行っ ておりますので、遠慮なく御連絡下さい。またイスラームそのものについて疑問のあ る方も是非お越し下さいますよう。



用語解説


1. サラート (礼拝)。ムスリム(イスラーム教徒)が、定められた時間に行う礼 拝。


2. ドゥアー (アッラーへの祈願をこめた礼拝)。ムスリムが、個人的にアッラー に対して祈願や嘆願するときの礼拝である。


3. ウドゥー(小浄)。礼拝にさきだって、体の露出した部分を定められた順序で、 水を使って洗い浄めること。


4. タヤンムム (水のない場合の小浄)。場所によって水が得られなかったり、病 気などで水が使えないとき、清い土や砂または壁に手をふれて行う浄めの方法をいう 。ウドゥーと同じく、一定の順序で行うことになっている。


5. グスル (全身沐浴)。ウドゥーは各礼拝毎に必ず行いますが、身心が特にけが れたときは、全身を水で洗い浄めます。これをグスルといいます。


6. ファジュル (早朝の礼拝)


7. ズフル (正午すぎの礼拝)


8. アスル (夕方の礼拝)


9. マグリブ (日没後の礼拝)


10. イシャーウ (就寝前の礼拝)。以上の6〜10が毎日の定められた礼拝です。


11. キブラ (メッカのカアバ神殿の方向)。礼拝は正しくキブラに向って行います 。


12. ラカート (礼拝の一単位)


13. スーラ (クルアーンの章)


14. アル=ファーティハ (クルアーンの第一章・開端章)。礼拝の時、必ず一度は この章を読唱します。


15. ファルドの礼拝 クルアーンに述べられている絶対的義務としての礼拝。


16. スンナの礼拝 預言者ムハンマドが行われたとおりに、ファルドの礼拝の前また は後にささげる追加的礼拝。


17. イマーム 集団の礼拝を主宰する人。


18. アザーン 人びとに対する礼拝のよびかけ。


19. ジュムア(金曜日)の礼拝 毎週金曜日には、ムスリムはモスク(礼拝堂)に集 まって、昼の集団礼拝をささげます。


20. イード (イスラームのお祭り)


21. タクビール アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大である)と唱えること。


22. フトバ イマームの行う説教。






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