ペルシャといえば、多くの人は先ず詩を憶い、ペルシャの詩といえば先ずハーフィズ とルーミーを憶う。ペルシャは詩の国、詩の花園だ。古来、幾人のすぐれた詩人がこ の国に現われたか分らない。ペルシャ文学は−ルーミー自身の表現を使えば−詩歌の 花繚乱と咲き、ポエジーの芳草かぐわしく薫るところ。だが、抒情詩、叙事詩、物語 詩、等々と様々に形と精神を異にする詩の世界で、詩と神秘主義(スーフィズム)の内 面的合一という点では、ルーミーを抜く人は一人もいない。そういえば、ペルシャは また伝統的にイスラームの神秘主義、世にいわゆるスーフィズムの中心地でもある。



ルーミー語録・談話 其の三十九
井筒俊彦(Izutsu Toshihiko)訳



ホサーム・ッ・ディーン・アルザンジャーニー(不明)という人は、托鉢僧に近づい てその仲間入りする前は、それはもう大変な議論好きだった。どこへ行っても、坐る や否や議論をしかけ、猛烈に論争する。それがまた実に弁舌さわやかで、議論がうま かった。ところが、托鉢僧と交わるようになると、すっかりその議論熱がさめてしま った。

一つの情熱を断ち切るためには
もう一つ別の情熱が要る。(ファハル・ッ・ディーン・グルガーニーの詩句)

と言われるゆえんである。「いと高き神と坐を共にしたい人は、スーフィーたちと坐 を共にせよ」(ハディースとしてスーフィーの間に伝えられた言葉。もちろん預言者 ムハンマドの本当の言葉では有り得ない)とはこのことだ。

世の人はいろいろな学問に熱中する。しかし、スーフィーの内的体験に比すれば、ほ んの子供だましみたいなもの、人生の無駄遣いにすぎない。

どうせこの世は束の間の遊び、ただひと時の戯れだ。(コーラン四七章三八節)

だが人間も大人になり、理性が発達し、人間として完成の域に達すると、もうやたら に遊びはしない。遊ぶなら、恥ずかしいので、誰にも見られないようにそっこりやる。

この世にあって人はやれ学問だ議論だ情熱だと憂き身をやつす。そんなものはみんな 一陣の風。人間は舞い上る塵。風が塵に混じって吹きまくれば、至るところで目が痛 む。痛み痛みと大騒ぎになるばかり。だがしかし、塵土のごとき身ながら、人間はほ んのちょっとした言葉を耳にしてもすぐ感動して泣き出し、涙は流れる水のごとくめ どない。

見るがよい、この人々、感激の涙が目に溢れ出る。(コーラン五章八六節)

けれど、この同じ塵土に風でなくて雨が降り灑ぐ時、まるで反対のことが起るのだ。 言うまでもない。土が雨に遭えば、木々は実り、青草は萌え、馥郁と香草は匂い、す みれが芽生え、薔薇園に薔薇が花開く。

心中無一物の道、これこそはあらゆる願いを叶えてくれる道。どんなことでも、望む ことはこのごとく叶えられる。押し寄せる大軍を打ち破りたい、敵を負かしたい、国 々を攻略したい、人々を屈服させたい、己れの仲間の上に出たい、美しい言葉を喋り たい、弁舌巧みでありたい−その他これに類する何であれ、すべては思いのまま。無 一物の道を選びさえすれば、こんなことはなんでもたやすく手に入る。この道を辿っ て、後でしまったと思った人など見たことがない。

別の道ではとてもこうはいかない。別の道を取れば、どんなに苦労したところで、万 に一つも目的を達すればいい方で、それも到底気が晴々として、これですっかり落ち 着いたなどということはない。無一物以外の道の場合には、必ず縁因というものがあ り、それぞれの目標に到達する特別の方法がある。縁因を通してでなければ決して目 標には行き着けぬ。これは実に迂遠な道だ。至るところに陥穽があり障碍が待ってい る。それに縁因なるものがそう思い通りに現われてこないことがある。

しかしお前がたがこうして無一物の世界に踏み入り、無一物を事とする身となった上 は、いと高きにいます神が、今まで想像だにしたこともないような国々を、いや全宇 宙をお前がたに授けて下さるのだ。昔、願っていたこと、欲しがっていたものが恥か しくなって、「やれやれ、なんとしたことだ、こんなに素晴しいものがあるのに、あ んなけちなものを追い廻していたとは」と嘆く。すると神様がこうおっしゃる、「今 でこそ、そなた、あんなものに用がない、要らない、いやらしい、などと言っておる が、あの頃はあれがそなたの念願であった。それをわしのためにこうして潔く棄てて くれたからには、わしも無限の好意を示してつかわそう。そなたの棄てたものをきっ とわしがそなたに返してやろう」と。

預言者にも正にそういうことが起った。預言者は、まだ有名になられない以前、アラ ビア人特有のあの美しく力強い言葉の使い方を見て羨ましく思い、「なんぞしてわし もあんなに弁舌爽やかになりたいもの」と願っておられた。それが、いよいよ不可視 の世界が開示され、自らは神に酔いしめる身となられるや、そんな熱はすっかりさめ てしまった。

「そなたが常日頃願い求めておった美しい言葉、爽やかな弁舌を授けてつかわしたぞ 」と神がおっしゃる。

「主よ、あんなものが私になんの役に立ちましょう。御免こうむります。要りませぬ 」と言う。

「思い煩うことはない。受けておけ。それでそなたの心が乱れるわけではない。なん の害にもなりはせぬ」と神がおっしゃる。

こうして神様が授けて下さったあの言葉、それを世界中があの頃から現代に至るまで 寄ってたかって註釈し、浩瀚ただならぬ書物を書き、今なお書いているが、それでも 解明しきれない。

その上、神様が抑せられることには、「そなたに従う者どもは、気が弱く、生命が惜 しく、敵の嫉みが恐ろしさに、そなたの名を公けに口にするのもこれまでは憚ってき た。だが今や、わしはそなたの真価を広く世界に知らせよう。世界の至るところで、 高い塔の上から、日に五回、朗々たる音声(おんじょう)と美しいメロディーを以て、 そなたの名を呼ばせ、西にも東にも弘めてとらせようぞ」と。

こういうわけで、およそこの(無一物の)道に身を投ずる者は、すべて心に願うことを 必ず叶えられるのだ、来世に関わる願いごとであろうと、現世に関わる願いごとであ ろうと。この道を行って、後悔した者はかつてなかた。

わしの言葉はすべてこれ本物の金貨。余人の言葉はそれの写しだ。写しは所詮、第二 義に堕す。本物の金貨を人間の足そのものとすれば、それの写し(naqdをnaqlと読む) は木で作った足型に当る。本物の足から形を盗み、寸法を取って木の足型を作る。世 に足というものがなかったら、どこから足型を取ってこよう。というわけで、本もの の言葉もあれば、それの真似ものもある。両方よく似ているので、本ものを真似もの から見分けるには鑑識眼を備えた専門家が要る。鑑識眼は信仰だ。無信仰では鑑識で きない。

考えてみるがいい。古代エジプトぼファラオの時代に、モーセの杖は蛇に変幻した。 しかし、(モーセと術を競った)妖術師どもの杖や縄も蛇に変ったのだ。鑑識力のない 者の目にはどっちも同じに映った。全然見分けがつかなかった。鑑識力のある者だけ が妖術と真実とを識別し、この鑑識眼のお蔭で正しい信者になった。信仰が鑑識力で あるということがこれではっきり分る。

お前がたも御存知のイスラーム法、あれも源(もと)は啓示(具体的にはコーランを指 す)だった。だが人間の思惟と感覚に混じり、いろいろ人間にひねくられているうち に本来の清純さはなくなってしまった。現に行われているイスラーム法は啓示のもと もともっていた幽玄さとは似ても似つかぬものである。

同様に、今ここ、トルート(コニャの一地方)の地を都に向って流れてゆくこの川。水 源の泉のところでは、見るがいい、水がどんなに清らかで澄みきっていることか。と ころがこの水が流れ流れて都に入って庭園を通り町々を過ぎ、町の住民の家々を通過 して行くうちに、人々が手を洗い、顔を洗い、足を洗い、身体を洗う。着物も洗えば 絨毯も洗う。人が小便をする。馬や駱駝の糞尿が流れ込む。こういうものがみんな水 に混じる。この川が都の向う側から流れ出てくるところを見るがいい。相変わらず涸 れた地を湿らせ、喉のかわいた人の渇をいやし、砂漠をば縁にする。この水には様々 なの汚物が混入していて、もとの清純さはもうないのだということは、よほどしっか りした鑑識眼をそなえた人でなくては分らない。「信仰者とは、目利きで、明察力が あって、正しくものを考えることのできる人」(ハディース。前出、談話其の二十六) というわけである。

幾ら年を取っていても、遊び惚けているような者は決して「正しくものを考えられる 人」ではない。百歳になってもまだ未熟だ。子供にすぎない。子供だって遊びにうつ つを抜かさなければ、本当は大人である。この場合、年齢など問題ではない。

ここで一番大切なのは「絶対に腐ることのない水」(コーラン四七章一六節)というも のだ。腐らぬ水とは、この世のあらゆる汚れを浄め、いかなる汚れにも染まず、いつ までも清く澄みきって、胃の中に入っても本性を 失わず、変質せず、腐敗しない水のこと。「生命(いのち)の水」とはこのことである。

礼拝の最中に突然絶叫したかと思うとわっかばかり泣きだした男がいる。その男の礼 拝は無効になったかどうか。

この問題に対する答えは具体的な事情によって異る。もし何か超感覚的形象の世界が 見えたので泣いたのであれば、その涙を特に「目の水」(スーフィーの用語。『マス ナワィー』五巻、一二六以下に詳論)と呼び、何を見たかによってその意義が決まる 。もし特に礼拝と同質で礼拝を完璧にするたぐいのものを見たであれば、それで礼拝 の目的はとどこおりなく達成されたわけであり、その人のその礼拝は完全であり、完 全以上ですらある。だが、もしこれとは反対のものを見て、浮世のために泣いたとか 、敵にやられたので悔し(くやし)泣きに泣いたとか、または誰かに嫉妬して、「あい つはあんなにいっぱい持っているのに、俺にはなんにもない」などと言って泣いたと かいうのであれば、その礼拝は偏頗で疵物で、無効である。

以上のように考えてみれば、信仰とは真偽を分ち、本物の金貨と贋金を区別する鑑識 力であることが納得できよう。鑑識力を欠く人は哀れな者だ。わしがこうして喋って いる言葉も鑑識力のある人なればこそその有難味が分るのであって、本物と贋物の区 別のつかぬ人に言って聞かせても役には立たぬ。

田舎者が気の毒だというので、頭のいい都(まち)の有資格者が二人して出ていって証 言台に立ってやる。だが田舎者の方は馬鹿だから二人の言うことと反対のことをべら べら喋る。そこでせっかくの二人の証言も無駄になってしまう。それを見て世の人は 言う、「あの田舎者、立派な証言を得ておきながら、酒に酔ったみたいに頭ももう朧 として、一体本当に鑑識力のある人がいるのかいないのか、こういう証言をするだけ の資格が立派にあるのかないのか、ということを考えてみてもせずに、自分で出鱈目 な言葉を吐き散らす」と。乳がひどく張った女が、痛くてたまらず、苦しまぎれに近 所の犬の仔をみんな呼び集めて乳を飲ませるようなものだ。

たまたまわしの言葉も、鑑識力のない人に聞かれてしまった。まるで、高貴な真珠が 、値打ちを知らない子供に偶然道で拾われた、といったところか。だが、その子が先 へ歩いてゆくうちに、誰かに林檎を握らされて、まんまと真珠を取り上げられてしま う。鑑識力がないからそんなことになる。いや、鑑識力というのは大したものだ。

バーヤジード(バスターミー。前出。初期スーフィズムの巨匠)がまだ幼少のころ、法 律を勉強させようというのでお父さんが学校に連れていった。先生の前に連れていか れるや、「それはアッラーの法律ですか」と尋ねる。先生が、「これはアブー・ハニ ーファー(西暦八世紀の法学者。イスラーム正統派の四大学派の一つ、ハナフィー派 法学の始祖)の法律じゃ」と答えると、「僕の勉強したいのはアッラーの法律です」 と言う。

今度は、文法の先生のところへ連れてゆくと、「それはアッラーの文法ですか」と尋 ねる。「いや、これはスィーバワイヒ(西暦八世紀ペルシャの大文法学者。古典アラ ビア文法の大成者)の文法学じゃ。」すると「僕の勉強したいのはアッラーの文法で す」と言う。

こんな調子で、どこへ連れていっても同じようなことを言う。さすがの父親もほとほ と手を焼いて、もう勝手にしろと言った。

後日、志を立ててバグダードの都にやってきたバーヤジードは、そこでジュナイド( 初期スーフィズム・バグダード派の最高峰。西暦九一〇年歿)にめぐり逢った時、「 これこそアッラーの法律だ」と叫んだとか(但しバスターミーは八七四年、遅くとも 八七七年には死んでいるので、この話は歴史的には問題である)。

自分がその乳を吸って育った生みの母を見忘れる仔羊がどこにあろう。この自然の認 知こそ知性と鑑識眼から生まれるもの。形なんかどうでもいいのだ。

(とは言え、形には形の意義がある。)昔、自分の門弟たちに、いつも恭しく胸に手を 組ませ、立ちっぱなしにさせておく神秘道の師があった。

「先生、なんでこの連中を坐らせてやりなさらんのか。これは托鉢僧の慣習(しきた り)ではありません。王侯貴族のやり方です」と言われて師はこう答えという。

「いや、いや。差し出口御無用に願いたい。わしはこの者どもにこのやり方の有難味 を分らせてやりたいのじゃ。こうやっておれば必ず得るところがある。もちろん、( 己が師に対する)尊敬は心内のことではあるが、しかし『外面(おもて)は内面(うち) の標識』とも(諺に)言われておる。標識とはなんのためにあるのか。手紙の上書を見 れば、その手紙がなんのために書かれたものか、誰に宛てたものか、すぐ分る。本の 表題を見れば、その本が何を扱いどんな問題を論じているのか、すぐ分る。形に尊敬 を表わし、頭を下げ、じっと立っている−それで(師に対して)内心どの程度の尊敬が あるのか、つまりどんなふうに神を尊敬しているのか、がすぐ分る。もし外面(おも て)になんの尊敬も表わさないようであれば、それはこの連中が内心では傍若無人、 神に仕える人々(神秘道の師)になんの尊敬も抱いておらぬことの何よりの証拠じゃ」と。


井筒俊彦著作集11・ルーミー語録」、(引用: ページ257)
東京:中央公論社、1995年、ISBN: 4-12-403057-6、定6602価円


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