人間の霊的側面

ムハンマド・バーキルッ=サドル著
黒田壽郎訳




ここでわれわれは、重要な結論に到達する。つまり人間は、二つの側面を持つという ことである。一方は有機的組成の中に現われる物質的な側面であり、他方は非物質的 、霊的側面である。そしてこの後者が、知的、精神的活動の場なのである。人間は決 して単なる複雑に構成された物質なのではなく、物質的、非物質的要素を二つながら に持つ人格なのである。


この二元性は、人間の物質的、非物質的側面の関連、絆の解明を困難なものにしてい る。先ずわれわれは、これら二つの関係が強固なものであり、一方が絶えず他に影響 を与えていることを認めている。例えばひとは暗闇に幽霊を見たと相濠すると、身体 を震わせる。人前で話をしなければならなくなると、汗をかき始める。またなにかを 考え始めると、神経システムである種の活動が行なわれる。これは精神、ないしは霊 の、肉体に及ぼす影響である。同様に肉体も、精神に対して影響力を持っている。老 年が肉体に忍び込むと、精神的活動は弱まっていく。酒飲みが酔っぱらうと、一つの ものが二つに見えてくる。肉体と精神が異なったものであり、なんらかの形で関わり を持っていないとしたならば、いかにして両者は互いに影響を与え合うのであろうか 。肉体は重さ、量、形、大きさのような特質を備えた一片の物質である。そしてそれ は、物理学の法則に従がっている。他方精神、ないしは霊は、物質の世界を越えた世 界にふさわしい存在者なのである。二つの側面を切り離すこの断絶は、両者相互の間 の関係の説明を困難にさせている。石は大地に生えた草を押し潰す。これは双方が物 質であるためである。また二つの石はぶつかり、互いに影響を与え合う。しかし二つ の世界に属する二つのものがいかにぶつかり、影響を与え合うかについてなんらかの 説明を行なう必要があろう。これが恐らく現代ヨーロッパの思想家たちをして、この ような二元的な考えを採用することを躊躇させている原因であろう。彼らはっとに、 霊魂と肉体との関係を、御者と彼の操る馬車との関係で説明する、古いプラトン的な 考えを退けている。プラトンは、霊魂が物質から切り離された古い実体であり、超自 然の世界に存在すると考えていた。その後それは下界に下り、肉体に宿ってその運営 にあたることになった。それは御者が家を離れ、馬車に乗ってそれを操り、導くこと になぞらえられるというわけである。プラトンの説明における霊魂と肉体を切り離す この二元論、深い溝は、あらゆる人間に自分が一つで、二つの異なった世界からやっ てきて後に合体した二つのものではないと理解させる、両者の密接な関係を説明しえ ないのである。


プラトン的な説明は、その後形相と質料という観念を導入したアリストテレスや、精 神と肉体の平行説を唱えたデカルトが修正を加えているにも拘らず、問題を解決しな いままである。デカルトの理論は、精神と肉体、〈霊魂と物質〉は平行線上を運動し 、その一方に起こったあらゆる事件は、それと対応して他に起こる事件を伴っている 。このような精神的事件と、肉体的事件の必然的同伴性は、いずれかの一方が他の原 因であることを意味しない。物質的なものと、非物質的なものとの相互的影響などと いうことは、意味をなさないのである。これら二種類の事件の必然的同伴性は、神慮 によるものである。それは飢えを感じたさいには必ず、この感覚がそれに伴う原因で あるということなしに、食料を求めて伸ばされる手の動きが伴うように望まれている のである。この平行理論が、精神と肉体を切り離すプラトンの二元論、深い溝の新し い表現であることは明白である。


精神と肉体の統合を基礎に置く人間の説明に由来する難問は、単一の要素を基礎にす る人間の説明を結晶させる新しい機運を、ヨーロッパの思想界にもたらした。そして 哲学的心理学における唯物主義は、人間が物質そのものに他ならない、と主張するに 至っているのである。同様に観念論も台頭し、人間のすべてを精神的に説明しようと 企てている。


最後に人間を、精神と物質の二つの要素を基礎に説明する最も良い例としては、ムス リムの哲学者、サドル。アル、ムタアツリピーソ・アッ=シーラージーが挙げられる 。この偉大な哲学者は、自然のただ中に実体的な運動を認めているのである。この運 動は、自然がたたえているあらゆる感覚的運動の、最も根元的な源なのである。それ はアッ、シーラージーが、物質と霊魂を結び付けるものとして見出した架け橋である 。実体的運動を行なう物質は、その存在の完成を追い求め、その完成を継続させる。 そして最後にそれは、特定の条件の下に物質性から切り離され、非物質的な、つまり 霊的な存在になる。その際には精神性と物質性を隔てる境界線は、もはや存在しない のである。両者は、存在と霊魂という二つの段階に属している。霊魂は物質的ではな いが、実体的運動の最高度の完成であるため、物質との関係を保持し続けているので ある。


われわれはこのような観点から、精神と肉体の関係を理解しうるであろう。精神と肉 体、〈霊魂と物質〉が、相互に影響し合うものであることは当然のように思われる。 なぜならば精神と物質は、デカルトが互いの影響を否定し、両者の単なる平行を必要 としたさいに考えていたような、深い溝で切り離されてはいないからである。精神そ れ自体は、実体的運動によって高みに向かう物質的な像以外のなにものでもない。物 質性と精神性との相違は、高温と低温の遠いのように、段階の相違に過ぎない。


しかしこれは、霊魂が物質の産物であり、その結果の一つであることを意味するもの ではない。それは物質に由来するものではない実体的運動の結果なのである。それは あらゆる運動が、弁証法に基づく発展について論じたさいに検討したように、事物の 可能態から現実態への段階的な出現であるという理由によっている。可能態は、現実 態をもたらすことはない。また可能性は、存在を作り出すことはない。それゆえ実体 的運動は、運動する物質の外にその原因を持っている。人間の物質的側面に他ならぬ 霊魂は、この運動の産物である。ところでこの運動自体は、物質性と精神性の架け橋 なのである。




書名

著者

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定価
イスラーム哲学
ISBN: 4915841146
ムハンマド・バーキルッ=サドル著
黒田壽郎訳
東京・未知谷 1992 本体6000



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