隠された中国イスラムの秘密資料
「ラシュフ(熱什哈爾)」


張承志先生
東洋学報

第七十三巻 ページ七七ー八二




中国のイスラム教は一〇個の民族の間に広がり、一五〇〇万の人口を擁するが、その 中の一つである同族は七〇〇万の人口を持っている。近代に入って以来その回族は中 国社会の中で注目を集める存在になっており、近年いっそう研究が進んでいる。
中国イスラム(回教)の中には様々な教派がある。もっとも簡単に総括すれば、三つ に分類される。まず、唐ー元時代から古い伝統儀礼を持つ派がカディーム(古典の意 味)と呼ばれる。次に、アラビア半島に起ったワッハーブ宗教運動の影響をうけて中 国で盛んになってきた原理主義教派がイフワーニー(兄弟の意味)と名付けられる。 その他、多数のイスラム神秘主義すなわちスーフィズムと認められる教派が存在する。
スーフィズムすなわちイスラム神秘主義教派を信ずる中国回族は、百万人くらいにの ぼると思われる。それらはクブラウィーヤ、カーディリーヤ、フフィーヤ、ジャフリ ーヤの四つの系統になるが、細かく数えると何十もの分派も認められる。中国イスラ ムの中心地域は歴史的にいっても甘肅(清末の甘肅には今の寧夏と青海東部をも含め るので、ここでは旧甘肅の意味で使う)、新疆、雲南の三つの地域に集中して、そこ から全国に影響をもたらしている。




(一)



中国イスラムの中で、ジャフリーヤほど悲惨で重い歴史を持ち、またそれだけに厳密 な宗教組織を持つ宗教集団は他にないと思う。それにジャフリーヤほど豊かな教内資 料を持つ宗教集団もあまりないだろう。以下にはジャフリーヤ教派の重要典籍の一つ である「ラシュフ」を紹介したい。
ジャフリーヤ教理は一八世紀に馬明心によって西アジアから中国に伝来されたスーフ ィズムの一つである。馬明心のこの新しいイスラムは貧しい中国回族に大きな影響を 及ぼし、大勢の信者を集めたのである。ジャフリーヤは、一つの教派として中国に現 れたばかりの頃には異端とみなされ、清朝政府に弾圧を受けた教派である。それから 二百年程の歴史の流れの中で、ジャフリーヤ教派は相変わらず政府に禁止、あるいは 圧迫される一方、何回にも互る反乱を起こした教派であるから、この世を信じず自ら の秘密を何よりも尊重して、絶えず書かれてはいても、その教内の宗教資料を公開し ないようにしている。宗教の清潔さを保ち、他人に読まれないために、この種の教内 資料は大体アラビア語とペルシア語で書かれたのである。
ジャフリーヤ回族のこの姿整はかなり徹底したものと思う。中国の政治や社会の中で 目立った歴史を持つという理由でジャフリーヤ教派は注目されつづけてはいるが、政 府や学者が差別的な意識を持つかぎり、ジャフリーヤ回族にとっては、自分たちに対 する彼らの政策も、自分たちに関する彼らの研究も自分立ちを傷つけるものでしかな い。役人や知識人を含む教外の世界にどれほど多くの議論があっても、ジャフリーヤ の民衆は自分たちの秘密資料を持っていることによってある意味でのバランスが取れ 、さらに自分の民衆に自らの歴史と世界観を教えられるのである。
言うまでもなく、「ラシュフ」という教科書は今まで世に知られなかったものである 。したがって、この本の持っている宗教的観点、文章の形式、歴史の物語、不可思議 ともいえるスーフィー的な精神は、それを伝えてきたジャフリーヤの人にとってだけ でなく、教外の人にとってもまさしく新鮮なものといえる。




(二)



「ラシュフ」は乾隆四六年と四九年のジャフリーヤ宗教戦争が弾圧された後、この教 派が禁止されていた嘉慶−道光年間に書かれた書物である。前半はアラビア語、後半 はペルシア語からなっている。時にアラビア−ペルシア文字で中国語(とくに人名と 地名)を転写する。この本は印刷されることもなく、ただ中国の九つの省に散在して いるジャフリーヤ教派の回族の間に手抄の形で伝えられつづけたのである。
著者は甘肅の伏羌(現甘肅甘谷県)の馬姓だが、回族地域でよく見られるように、こ の著者の漢字の名前は忘れられ、宗教の名前すなわち教名しか残されていない。彼の 教名はアブドゥル・ラフマーン・アブドゥル・カーディルであり、普通には「関里爺 」と呼ばれている。伝えられているのは、彼の家が県城の東関の裏側にあったためこ のように名付けられたというのであるが、甘肅の山地に住むジャフリーヤは甘肅の南 、天水の向こうの地域を「関里」と呼ぶからこの呼称があるのかもしれない。
関里爺は一九世紀の甘肅イスラム史における重要な人物であった。一冊の「ラシュフ 」を著わしたためだけでなく、関里爺はその頃、甘肅南の回族イスラムの指導者でも あったからである。
書名の「ラシュフ」はアラビア語の動詞rashaha'すなわち「汗が流れる」、「水が浸 み通る」に基づく言葉であるが、この書名の「ラシュフ」は西アジアのスーフィズム の書物に同名のものも見られる。例えば、ナクシュバンディーヤの「Rashahat 'Aynal-Hayat」はよく知られている。しかし、「ラシュフ」には実は書名などはない のである。この本の本文の第一語にラシャハという言葉を使ったので、この本そのも のが「ラシュフ」と呼ばれるようになったと、ジャフリーヤの宗教者は教えているの である。この点だけにおいてもスーフィズムの一つの特徴として研究に値するものと 考えられる。




(三)



乾隆四九年以来、ジャフリーヤ教派は清の政府に厳しく禁止されたが、自分の教統を 維持するために非常に秘密の活動をしていた。しかしその具体的な事情についてはこ の書物に触れないかぎり誰にも分からなかった。関里爺の「ラシュフ」の中で、丁度 その時期とその活動に関する部分が、わざわざアラビア語から中国のアホンたちもあ まり読めないペルシア語に変わっていることも、意味深いものと思われる。
乾隆四九年以後に作られた戦時の軍事文書修「欽定石峰堡記略」には、乾隆帝本人が 細かく指揮してジャフリーヤの指導者、なかでも乾隆四六年に政府に殺されたジャフ リーヤの創始者、第一代の宗教導師馬明心の後を継ぐ人物を捜したことが記録されて いる。寧夏北部の田舎の王(ワン)アホンという人が疑われ、絶えず取り調べを受け ついに獄死した物語が、この「欽定石峰堡記略」に見られるのである。しかしその神 秘な「第二代」はどうしても発見されなかった。そればかりか、二〇〇年近くに及ぶ 長い時間の流れの間、ジャフリーヤ教派の第二代の指導者および伝教の系譜のことに ついては、教外の人には誰にも知られなかったのである。
しかし、たとえばジャフリーヤの雲南の教統に関して、関里爺は、その頃流罪になっ た人々がどのように雲南馬三爺と呼ばれるアブドゥル・カリームに指導され、そして ジャフリーヤを雲南に根付かせたかということについて、本書に記録した。

関里爺の「ラシュフ」は馬明心の奇跡と伝教の歴史を記した後、丁度第二代の導師の ことを記録する所をペルシア語に変えて書いたのである。さらに関里爺とジャフリー ヤの第二代の宗教導師、平涼の穆憲章とは同時代の人であることを考えに入れれば、 「ラシュフ」からは関里爺の心理と当時の雰囲気も感じられるのである。

宗教はもちろん信者がいるかぎり存在するものである。しかし、記録というものがも し一つも残されないならば、その歴史は空白になってしまうかもしれない。関里爺の 「ラシュフ」がなくてもジャフリーヤ教派は存在しないはずはないが、この一冊がも しなければ、差別された側および迫害された側の発言はまったく無くなるとも言える であろう。「ラシュフ」は中国回族のアラビア−ペルシア語による著作活動の最初の ものであり、回族の内部史の第一冊とも認識すべき重要な資料なのである。




(四)



「ラシュフ」の文体についても紹介しておきたい。
この文体は中国にある様々の文章の中においては特殊なものである。もちろん西アジ アのスーフィズムの影響が見られるが、中国西北地域の力強い方言と素朴な表意方法 の強い影響のもとで書かれているこの著作は中国的なものと認められる。生き生きし た田舎の人情と風景、それに一八世紀末から一九世紀前半においての中国西北農村の 生活のこまごましたことが全書に溢れている。一〇億の漢族をも含めた世界でいつも 理解されがたい問題点、すなわちイスラムの信仰は中国人の中にどういう風に根をお ろしているかについても、非常に具体的に描き込まれているのである。
本の形式は並列するたくさんの段落からなっている。すべての段落が「伝えられる」 というタイトルらしい言葉で始まる。文章の流れに従って、内容は自由に展開してい く。それは時には全く不思議なスーフィーたちの奇跡の記録であり、時には田舎のア ホンたちの宗教活動と生活の実況である。スーフィズムの陶酔に沈んだ著者の自由な 発想が、この散文体の書物にみごとに表現されたのである。
文学の面でも本書は高く評価すべきであると思われる。いままでのいわゆる作家文学 と全く違うものであるばかりでなく、中国のいたるところにある民間文学とも違うも のである。アラビア−ペルシア語からもたらされる文章の鮮やかさ、本に溢れる黄土 高原の生活の匂い、不可思議な観点、生き生きしている物語、これらが一体となって 「ラシュフ」を盛り上げているのである。中国で私の紹介を読んで、この「ラシュフ 」にまず驚いたのが研究者ではなく作家であった現象も、意味深いものと思う。
しかし「ラシュフ」は決して一冊の個人的な作品で終わるものではない。残酷な弾圧 と禁止という社会環境が、歴史の具体的な事件についての寡黙と奇跡に対する追求と 堅信で書かれた文章から逆説的に読み取れるのである。
奇跡という言葉はアラビア語でカラーマである。中国のスーフィズム各教派の人々に はこの言葉を知らない人はいない。「ラシュフ」は歴史文献であるが、著者本人は歴 史そのものについてあまり興味がなかったと感じられる。関里爺がもっとも重視した のはカラーマすなわち奇跡であった。「伝えられる」で始まる一つ一つの散文には馬 明心と穆憲章の不思議な言葉と行為について書かれ、さらにそれがカラーマだと証言 されていくのである。ある意味で言うと、「ラシュフ」という書物はカラーマの記録 であると言ってもよいと思われるが、カラーマという不可知の概念は絶望的な民衆の ただ一つの希望であることが、「ラシュフ」を味わいながら強く感じられる。




(五)



「ラシュフ」は、ジャフリーヤ教派のアホンたちのアラビア−ペルシア語による著作 活動の始まりである。関里爺の後にジャフリーヤ教派に多数の本が現れてきたのであ る。ジャフリーヤ教派の影響でかなりのスーフィズム教派も自分たちの宗教史を書く ようになり、この教派内部著作活動は中国におけるイスラム発展の一つの特徴にもな ったのである。
一九八八年から「ラシュフ」がジャフリーヤ派の若いアホン楊万宝と馬学凱の手によ って翻訳され始め、一九九〇年に第一段階の翻訳すなわち漢語の訳が出来上がり、そ れを北京の三聯書店が出版する予定である。漢訳の書名は「熱什哈爾」である。「ラ シュフ」のテキストの校正と注釈、それに他のいくつかの宗教書の翻訳をも含む研究 が、ジャフリーヤ教派に依頼され、私が「ラシュフ」の漢訳本に書いた前書きは、「 読書」(一九九〇年第一〇号、北京)に「心霊模式」のタイトルで発表したことを付 記する。



(「ラシュフ」のテキストに書名はなし、漢訳本の書名は「熱什哈爾」)


一九九一年九月 東洋文庫にて



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