イスラーム入門シリーズ
No. 10

M・A・クルバンアリ著


七、女性の服装



 社会の単位を家庭とするイスラームは、健全な家庭を築くため以外の性的交渉をゆるさない。乱交や浮気などすべての結婚以外の性交は、単なる不品行ではなく、社会の基盤をゆるがす犯罪である。そこで、ただ禁止するだけでなく、そのようなことが起こりにくいように定めてもいる。男女のデート、あるいは男女複数によるパーティ などはゆるされていない。男は男同志の会合をもち、女は女同志の会合をもつ。なにかの会議や集会で男女が合流することがあっても、そこではできるだけ性の誘惑を避けるようにする。



 この大前提にたって、男女の服装に関する教えがある。アッラーは男性を強く女性を美しくつくられたというが、女性の姿形は性的魅力にあふれているから、男性同様の服を着るわけにはいかない。



 聖クルアーン第三三草五九節には「預言者よ、妻や娘たちや信者の女性に長衣をまとうようにいえ。(女たちの立場が)知られ、きずつけられないように…」とある。この「長衣をまとう」という言葉から保守派は顔を含めた全身を隠す意味に解釈する。 現代社会において短いスカートや肌を露出するドレスなどで夜道をひとり歩きする女性が性犯罪をひき起こしやすいことをみても、その点はわかる。だが長衣がなぜ顔まで隠すのかは、この旬からは判断できない。



 聖クルアーン第二四章三一節では「外にあらわれるもの以外は、女性の美や飾りを見せてはならない」というが、保守派は通常外にあらわれるのは目と、手首から先と、 足のくるぶしより下だけだと断定する。同じ節で「ベールで胸を覆え」とトップレス は禁止されているが、このベールは髪を覆うもので、当然、顔も隠さねばならないとする。



 預言者の言葉として「外にあらわれるのは、こことここである」とされ、預言者がどこを示したのか学者間の論議の的となっているが、少数の保守派は目と手の平だとし 、大多数は顔と手だとしている。だからイスラーム女性でも顔を隠さない女性は多い。 しかし問題は「通常外にあらわれる美と飾り」である。ある種の社会で女性が顔と全身を隠すのが習慣なら、それは通常外にあらわれないものだ。他国からきた女性もその慣習には従わなければならない。



 いずれにせよ、イスラームは預言者の言葉として「後世において学者たちの間で意見 が分かれる場合があろう。これは信者へのアッラーからの慈悲である。信者はどの学説に従ってもよい」と伝え、信者に自由を与えている、イスラームはゆるされている ことの限度を示し、そこから逸脱してはならないという。そして学者の一部は逸脱することをおそれるあまり、限度より手前に厳しい線をひいてしまう。反面、一部の少数派はあまりにもリベラルにとらえ、限度を越えてしまうようにみえる。どの説を採用するかは信者の良識にまかされている。だが、かりにも学者とされるほどのものなら、自説にたいして聖クルアーンと預言者のハディースから相応の根拠をもつはずで あり、まちがいと断定するわけにはいかない。



 イスラームは異性のあいだがらを大切にする。そして、とくに女性の立場を尊重する 。女性が自分の性的魅力を安売りしなければならないのは正常ではない。女性のヌー ドが本にあふれ、テレビを通じて茶の間にまで入り込むのは、女性にとって(人類にとって)プラスになることではない。その刺激的なムードの中で男性の女性への憧れはかえって消失していく。より直接的、より刺激的な触れ合いを求めるようになり、 その延長線上には性犯罪がある。人類の流れを大切にせず、家庭を社会の基本単位とせず、人間性の個という断片だけをみつめる社会においてはあたりまえの風潮だろう 。そしてその渦は小学生まで巻き込んでしまっている。



 人間は男女ともに、性の問題を大切にし、人類の未来をみつめなけれぱならない、そして、なぜ人間が存在するのか、どこから来てどこへ行くのかを問うべきだ。この姿勢をもって、はじめて世界平和やいろいろな社会問題に対処できるだろう。男女の服装も、性の問題を大切にするひとつのあらわれだ。良識をもって採用すべきだ。







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