イスラームの祭日と儀式

イスラミックセンター編著

三、イスラームの儀式
イスラームの教えでは、イスラーム教徒は結婚し、相互の愛情、協調そして尊敬の念 をもって共に生活し、子供を生んで敬虔なイスラーム教徒に育て上げるよう、人びとにすすめている。イスラームでいう結婚とは、一つの市民契約、すなわち神と人の前 で誓った二人の人間の相互協約であって、そこには何ら神秘的とか聖礼典的な意味は含まれていない。
イスラームでは、職業的な僧職は存在しないので、もちろん結婚そのものの形をとと のえるためには必要なことではあるが、新郎と新婦の間を司どる専門職の人は必要としない。二人の結婚にとって必ず必要なことは、結婚の誓いを交す時の証人として、 成人イスラーム教徒二人の立会いと、その結婚を一般に公表することである。これが、イスラーム法で定められている最低限の必要とされる手続きである。しかし、これ までの慣習としては、結婚の日どりをあらかじめ公表し、結婚式には双方の友人や縁者が出席することになっている。式の形式や飾りつけは、当事者の好み通りにして、 どのような形式で行ってもよいが、いずれにしても、二人の結婚はクルアーンに示されているように、神によって命じられたものであることを心に念じ、自己の財力を人 に誇示したり、浪費に走ったりしてはならない。
結婚の式は、適当な集会所で挙式してもよい、さらにイスラーム法を知っている者なら、誰でも結婚の誓約交換を司会してもよいとされている。その人はクルアーンの数節を唱え、(この場合、第一章ファーティハと二十八章の第二二‐二八節が最適 である)、結婚の社会的宗教的意義、夫と妻の責任と義務を説き、そして新しく結ばれたカップルに神の祝福を祈るのである。誓約の交換には、次の言葉か、またはこれ に準ずるものが良いとされている。
「新郎(新婦)、私、(名前)は、なんじ新婦(新郎)(名前)、(名前)の娘(息子)、を神のみ前、そして立ち合いの者の前で、クルアーンとスンナの教えに従って妻(夫)とする。私はこの結婚を神への従属の一つの行為とみなし、相互の愛情、慈 愛、平和、真実および協力関係をもつことに最善の努力をすることを誓う。アッラーよ、わが証人となりたまえ。神はあらゆるものの最高の証人であられる。アーミン。」
口頭によるこの誓約の取り交わしのほかに、新郎と新婦は契約書一二通にサインし、 立合人のほかに少くとも二人の証人がこれにサインするものとする。イスラーム諸国では、うち一通を最寄りの裁判所に提出し、他の二通は当事者二人がそれぞれ一通ず つ保持する。(わが国では、このほかに法的手続きとして役所へ婚姻届けを提出するのはもちろんである。)
夫は妻に対して、結婚の贈物(マハル)をすることが、クルアーンでも定められてい る。金銭や財物、または何かほかのかたちのこの贈物は、妻の法定財産となり、夫はいかなる時でもこれに手をつけることはできない。この贈物については、次の話が伝 えられている。あるとき一人の信者が預言者(かれの上に平安あれ)の所に来て「私はとても貧しくて、私の婚約者に何も与えることができません」というと、預言者は 「クルアーンの章をとれか知っているか」と聞いた。男が「知っております」と答えると、預言者は「妻への贈物として、この知っているクルアーンを彼女に教えなさい 」と命じたのである。
イトコ同志の結婚はイスラームでは許されている。クルアーンには、結婚を禁じられ ている間柄の男女について、次のように記されている。
あなたがたの父が結婚したことのある女と
結婚してはならぬ。
過ぎ去った昔のことは問わない。
それは恥ずべき憎むべきこと。
忌まわしい道である。
あなたがたに禁じられている(結婚)は
あなたがたの母・女児・姉妹・おば・姪・乳母・乳母の姉妹・妻の母・妻の生んだ養育中の養
女−妻との性関係がないうちならよいー・息子の妻である。
また同時にふたりの姉妹をめとることも禁じられている。
また夫ある女も禁じられている。
だが、なんじらの右手の所有するものは別である。
これはなんじらに対する
アッラーのおきてである
(第四婦人章二二−二四節)
イスラム教徒の男性は、キリスト教やユダヤ教の女と結婚することが許される。
また信者の貞節な女
ならびになんじら以前に
経典を授けられた民の中の貞節な女は
なんじらがこれに妥当の婚資を与えたとき
両人がみだらにながれず
また秘密の情事もないとき
(結婚の相手として合法である。)
(第五食卓章五節)
2、出生
子供の誕生は祝福の時であり、イスラーム教徒は、子供は神からの授かりもので、神 より託されたものとみなしている。イスラーム諸国では、子供の命名は特別な事として、出生の日から七日目に行う。縁者や友人が両親の家に集まり、クルアーンの数章 を朗調したのち、父親が子供の名前を発表し、その後、祝いの宴を催すことになっている。
預言者イブラーヒーム(アブラハム)(かれの上に平安あれ)の慣習に従って、男の 子に割礼をするのがよいと、預言者ムハンマドのスンナに記されている。
出生の日から七日目、十四日目および二十一日目に子供の頭髪を剃り、このとき貧し い人々に喜捨を与えることも、スンナに定められている。
3、死亡
死は現世での生涯の終着点である。しかし、来世の存在を信じているイスラーム教徒 にとって、死は人生の最終点ではなくて、ただ愛するものとの一時の別離であり、審判の日に再びよみがえり、もし神が許されるなら、再び家族とまみえることができる のである。もちろん縁者や友人の死は悲しい事ではあるが、ひどく嘆き悲しんだり、大声で泣きわめいたりしてとり乱し、過度に悲しみをアッラー表わしてはならないと されている。このような行為は神の意志に反するものである。イスラーム教徒は人の死の知らせを受けたら、まず次のように唱える。
インナー リッラーヒ ワ インナー イライヒ ラージウーン
本当にわたしたちは、アッラーのもの。
かれの御許にわたしたちは帰ります。
(第二章雌牛一五六節)

親類の者や友人たちは死者の家に集って、遺族をなぐさめ、クルアーンを吟唱し、死者のため神の許しと慈悲を祈る。

聖預言者(かれの上に平安あれ)は、イスラーム教徒は死者をすみやかに埋葬せよと 命じている。遺体の埋葬に当っては、死者の身体を洗い(死者が男の場合は男が、女のときは女がこれを行う)、一枚か二枚の清潔な白布で包み、担架に載せ(棺に納め るのもよい)、人の肩にかついでモスクか墓地に違び、埋葬の礼拝(サラート=ル=ジャナーザ)を行う。この埋葬の礼拝は、イスラーム教徒の誰かが行わなければなら ない務め(ファルド・キファーヤ)であり、少くとも数人が加わるが、関係者全員が参加することは特に必要とされていない。埋葬の礼拝は集団で行うが、頭を深く垂れ たり(ルクウ)平伏(サジダ)はしないことになっている。

礼拝の最後に、平安のための挨拶(アッサラーム・アライクム・ワ・ラフマトッラー )をのべ、それからむ体を埋葬する。

地上にある万物は消滅する。

だが(永遠に)変らないものは、尊厳と栄誉に満ちたあなたの主の慈顔である、

尊厳と栄養に満ちたなんじの主の慈顔である。

(第五五仁慈者章二六−二七節)

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