イスラーム入門シリーズ
聖預言者ムハンマド



十五、マディーナでのイスラーム社会



 預言者とアブー・バクルは、マディーナに着くやいなや多くのムスリムの大歓迎を受けましたが、これらの人々の中には、マディーナ市民のほかに預言者よりも先に家族と共にメッカを脱出してきた多くのムスリムも含まれていました。



 マディーナの人々は、預言者が自分の家に来て住んでくれることを心から願っていたので、預言者は、誰か一人の家に住むことを決めて他の人を悲しませたりしないように、自分の駱駝の手綱をはなして自由にマディーナの市街を歩かせ止まった所に住むことにしました。



 おそらくアッラーの導きによるものと思われますが、駱駝は二人の孤児の所有している空地にとまり、そこで草を食べはじめました。預言者は、その場所に住むことを決め、二人の兄弟に土地の代価を支払い、そこに預言者の住居を兼ねたイスラームで最初のモスクを建てたのです。



 これは、ずっと後世までこのモスクを含めたすべてのモスクは、アッラーへの礼拝の場としてだけでなく、家のない者や旅行者の宿泊所とか一般事柄を討議する集会の場所になったのです。



 マディーナへの到着後まず最初に必要となったのは、メッカからの入国者の生活必需品の供給でした。



 これらのムスリムたちは、自分の財産のほとんどすべてをメッカに残したままになっていたので、マディーナでの生活手段や住居が決まるまでは、多くの援助が必要だったのです。



 アンサール(援助者)という名で呼ばれるようになったマディーナのムスリムたちは、イスラームのために、家族の絆も家も財産もすべて投げ出してメッカからのがれてきたムスリム同胞と兄弟の契りを結び、喜んで財産をわけ与えたのです。



 このようなマディーナ市民の同胞愛によって、この新旧二つのグループは互いにうちとけ合い、一つの社会共同体を形成していきました。ムハンマドとその教友達は、ようやくクライシュ族の絶えざる迫害からも逃がれて安全な日々を送れるようになったのです。



 むろん多くの不信心者達(クライシュ族)は、なおもムハンマドとそのイスラーム社会の破壊を意図してはいましたが、マディーナまでは三二〇キロも離れているためメッカにいる時のような具合いにはいきませんでした。マディーナでの預言者の布教活動は最後の段階に入り、天恵の道に基づいたイスラーム社会の建設に移っていました。



 預言者がメッカで受けた啓示は、信仰に関するものが主でしたが、マディーナでのそれは、人間行為のあらゆる面に関するきわめて広範囲なもので、飲食物からはじまり結婚と家族生活、道徳と作法、取り引きと商業、平和と戦争、罪と罰等に関するものでした。



 ただ預言者に啓示された特別な訓戒や教義は、すべて普遍的なものではありますが、実際にそれを預言者からきいて行動に移したのは預言者の高弟達でした。



 ムスリムの共同体を一つの社会組織として作りあげる事は、最初はクライシュ族の妨害のため非常に困難でしたが、マディーナにおいては、預言者はそれぞれの信者の共同体をまとめて一つのイスラーム社会を作り上げることに成功したのです。



 イスラームは、単なる信仰でもなく個人的な儀式でもありません。



 イスラームは、各個人と共同体のための生活の道であり、人生のすべての面が、その規範と慣習、とに規制されているものなのです。



 良い共同体はそれによって良い個人をつくり、また反対に良い個人の集まりは良い共同体をつくることになり、個人と共同体が互いに他方から影響されているのです。しかしイスラームの共通の信仰と生活用式によって、信者達が団結し一つの強固な組織をつくりあげても、まだ彼等は、多くの敵から脅威を受けていました。



 また異なった部族の中にも、ムスリムを迫害し、また裏切ってクライシュ族と共謀したりしてムスリム社会を破壊しようとする人らがいたのです。



 このように不平分子に対抗しムスリムの共同体は、常に防衛を固め、時にはそれらの敵に対して何らかの手段を講じなくてはならないこともありました。



 さらにクライシュ族は、この真実と正義を愛する人々を抹殺しようと考え続け、ついにはムスリムと一戦交えるために武器をとって立ち上がったのです。



 イスラーム暦二年、突如重武装したクライシュ族の部隊一千人がマディーナにむかって進軍してきました。



 この部隊は、貧弱な武器しか持たないまにあわせの三百人のイスラーム軍とバドルで遭遇しました。



 クライシュ軍は、数と武器の点ですぐれ、また策略にもたけていましたが、イスラーム軍は、アッラーの加護を受け、クライシュ軍をしりぞけました。この戦いは『バドルの戦い』と呼ばれます。この勝利によってムスリムたちは、道徳的精神的に自信をもち、クライシュ族の野望を一時的には撃退することができたのです。しかしわずか一年後には、彼等はムスリム攻撃のため再びマディーナへ軍を進めてきたのです。



 この時は、クライシュ軍は戦いでは勝利を得ましたが、イスラーム側は最後には彼等を追い返すことができました。



 この会戦は、「ウフドの戦い」といわれています。その後クライシュ軍は、マディーナを包囲し、数週間にわたって兵糧攻めにかかりました。その間食糧は極度に欠乏し、人々は胃の上に石をしばりつけ空腹に耐えながら抵抗しつづけました。



 しかしアッラーは、ムスリムに味方し、遂にクライシュ軍を撃退したのです。



 ムスリムはきわめて精神堅固で、自己の生命さえ借しまずイスラームのために喜んで死んでいきました。



 アッラーは、信者達に正義と正道を守るために戦うように命じられたので、彼等は自分の力と資財のすべてを捧げて、アッラーの呼びかけに応えたのです。



 このイスラームの道のため闘うことを、ジハード(聖戦)といいます。ジハードとは、イスラームのために奮闘するという意味ですが、これは単に戦場で戦うことだけでなく、もっと広義の意味があるのです。ジハードとは、自分の時間、力、財産、才能、および人生のすべてを捧げてアッラーのために献身することをいうのです。



 晩年になってから預言者は、大国の首長になりましたが、それでも彼の生活はきわめて質素で厳格なものでした。預言者とその家族も、時には日用品さえ不足することがありました。



 彼のすべての言動はイスラームの生きた例証であり、彼の教えと生活態度を通し人々は自分達の心をしっかりとアッラーに結びつけたのです。



 預言者の言動は彼の高弟達の手で正確に記録され、ハディース(預言者言行録)として編集されて今日まで伝えられてきたため、現代の我々はこれを見て自らの生活の規範にすることが出来まことに幸運といわねばなりません。







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