第五章 尊崇と礼拝
6、イスラームの防衛とジハード(聖戦)

 イスラームの防衛は本来の教義ではないがクルアーンやハディースに於いてこのことが繰返し強調されている。
 詮ずるにそれはイスラームの信奉者としての我々の誠意と実直さを示すものである。若し我々が自分の友を敵の陰謀や公然たる攻撃から防衛してやりもしないし、又彼の利益にも無頓着で単に利己一点張りで振舞うならば我々は実に偽装の友情の持主といわねばならぬ。同様に我々がイスラームを信ずる限りイスラームの尊貴を守り且つかかげなくてはならぬ。我々の行動の総目標はムスリム大衆の関心事でありその前面に於けるイスラームへの奉仕はこの考慮が深く浸透していなくてはならない。
 ジハードはィスラームの総括的な防衛の一部である。ジハードは個人の能力の最大限の努力を意味する。自己を肉体的に精神的に、神の道に傾注しそのため物質的支出も顧みないことはジハードに専念している姿である。然しシャリーアの言説に依れば特にイスラームの敵として侵略を犯すものに対し『神の御名の下に行われる総ての戦い』として用いられる。此れは最大の犠牲(生命を失うこと)としてイスラーム信者に宣伝されている。然しもし集団の一部のムスリムがジハード参加を申出た場合は全集団の参加は免除される。然し誰も参加するものがない場合は全員有罪である。此の条件はどのイスラーム国家でも非教徒の勢力から攻撃を受けた場合には通用しない。此の場合は誰でもすべてジハードの為立たぬばならぬ。攻撃された国が反撃し返す充分なカがない時は近隣イスラーム国はこれを助ける宗教的義務がある。若しそれでも失敗すれば全世界のムスリムは此の共同の敵に対して立ち上らねばならない。これらのケースに於いてはジハードは日常の礼拝や斎戒と同様にムスリムの基本的な義務となる。これを避けるものは罪である。そしてその人のムスリムとしての存在それ自体が疑問視される。彼は明らか、に偽装者であり誠実のテストと総てのイバーダートの失敗者でありその礼拝は虚偽で無価値でうつろな見世物的なものである。                          

 

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