第五章 尊崇と礼拝
2、サラート(礼拝)

 礼拝はイスラームの義務の中で最も重要な第一義的なものである。礼拝とは何か?それは定められた日常のアッラーを讃美して捧げる礼拝をいう、あなたの信仰を確実にするため神の前に毎日五回その信念を反復してそれを刷新し深化更新する行為である。先ず早朝日の出前に起き身体を清めその上で神前に感謝の拝を捧げる。これがその日の第一回の礼拝である。礼拝の時の各種の姿勢は帰順の精神の具現化であり読誦は神への帰依の再認である。あなたは神の導きを請い、その怒りを避け、選ばれた道を進まんことを祈る。主の書クルアーンの章句を誦し予言者の真実性を確証し審判の日とその時に生涯の全記録を神へ提示すべきことを想起して反省する。かくして此の日一日が始まる。これより数時間の後正午の過ぎにその日の第二回目のサラートを捧げる。総て礼拝の時至れは数分間の時間を割愛してその時従事中の仕事や遊び事より離れ一切の雑念、片想を去ってひたすら神を拝すのである。この祈りに依り人生に於けるあなたの真の役割を反省し魂の純化をはかる。礼拝の後は直ちに仕事に復帰する。ついで日傾くころ第三回目の礼拝(午後の礼拝)を行い信仰の誠実にあなたの注意の焦点をあて神を再念する。日落ち夜の幕下れば第四回目の神へのゆるぎない忠順を誓う、夜の暗黒の中に於いてでも義務を忘れないように。
 それより若干の時の後寝に就く前その日の最後の礼拝即ち第五回目の夜の礼拝を行う。
 以上毎日の礼拝の回数と時刻は一定して居り必ず定時随所に於いて之を実行しなくてはならぬ、人はその人生の目的と使命を世俗的な繁忙の迷路の中に見失ってはならぬ。
 毎日の礼拝がどんなにかあなたの信仰の基礎を強め、神への忠誠、徳義の遵守を助け、勇気誠実、希望、心の純潔、魂の浄化の培養に役立つものか。聖予言者の教えられた方法に従い先ずみそぎをしてその後に礼拝する、読誦も又予言者の指示に従って行なう。何如そうするか?唯ムハンマド(彼の上に平安あれ)の予言者たることを信ずればこそである。何故クルアーンの章句をおそれるか?、クルアーンは神の書で故意にその文章から逸脱すれば罪である。礼拝は無言で誦する部分も多い、飛ばしたりしても誰もチェックできない、然し誰も故意にそうしてはならぬ。神は現れごと秘めごとをことごとく知り給うからである。誰も見たり聞いたりして居ない場所で礼拝するのは神が常にあなたを見守って居られる確信に基くものである。何があなたを重要な事務や他の仕事をけって礼拝のためにモスクに急がすか。何があなたを早朝快い眠りからゆり起こし或は熱い真昼にモスクに向わさせ又は夕方の娯楽より礼拝に去らしめるのか?それはあなたの認識即ち何はともあれ主に対する責任を果そうとする義務感に他ならない。なぜ礼拝に於けるミスに気を払うか?、それは神に対する畏れと審判の日にはどんな些細な事柄良い事悪い事も裁かれるのを知るからである。考えても御覧なさい、礼拝にまさる道徳と精神の訓練が他にあるだろうか。これこそムスリムの人格を完成させる絶好の習練である。それは人を予言者に従わしめ、自己の義務を守らす。それは理想を実現するための厳格な訓練である。若し人が創造主に対する義務感を他の如何なる利益より重要視し礼拝を通じて常にそれを清浄化すればその人の心と行いに重りがない。彼の信念によれば礼拝の怠りは神の不興を被ること必定でありそれこそ最も気に掛けて来た点だったのである。彼は全生涯を神の法則に従って毎日五回の礼拝を継続しつづける。恰かも毎日三回の食事を採ることを忘れない如く、彼は人生活動の他の分野に於いても人から信頼される。何故なら彼は罪悪や欺瞞の誘惑が自分に近ずいても常に心の中にある神への畏れのため之を拒否する。
 特に金曜日(安息日)の礼拝は集団的に行われることが望ましい、この礼拝はムスリムの間に相互理解と愛の到来を約し、互いに団結の観念を呼び起こし民族的親善を助成する。会同者の総ては同一行動の礼拝を捧げ兄弟愛の深い感情にめざめる、礼拝は反平等公平の象徴であり神の前には、貧富の別も、身分の上下も、支配者被支配者の境も、教育の差も、皮膚の黒白も、人種の相違も老若の開きもする強なく全く平等に一線上に並んで平身するのである。彼等は皆の選んだリーダーの方針に従順する強いセンスの下に一糸乱れぬ共同礼拝を行うのである。結局礼拝は個人生活と集団生活の豊かさを発展せしめる多くの徳性の訓練である。
 以上が日常礼拝より得られる諸徳の一部である。若し礼拝を避ければ損をするのは他の誰でもない避けた人その者である。礼拝を避けるのはそれを義務と認めないか或は義務と認めても実行をにげるかの何れかである。前者の場合は信仰を持つものとしては恥知らずのたわごとである。なぜなら神の命令を拒否することは最早神の権威を認めない結果となる。後者の場合は神の権威を認めて神の命令を愚弄するもの従って地上に住む生物として最も不信極まるものである。なぜなら全宇宙の最高至上なのものに対しての愚弄は言語同断で他の人間に対して同様の行為は許し難く、社会の秩序を破壊し落ち行く先は不統一の地獄のみしかない。

 

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