第4章信仰箇条
5、死後の世界を信ずること

  イスラームの第五番目の信仰箇条は死後の世界を信ずることである。予言者ムハンマド(彼の上に御栄あれ)は我々に、死後の復活と最後の審判の日を信ずるように指示している。この信仰の根本的な要因は、彼によって我々に教えられているところによれば、次の如くである。

 1、 この世の寿命とこの世に現存する一切のものの生命が、ある定められた日に、終焉するということ。その時には地上のありとあらゆるものが絶滅し地上の生物界は終焉となる。その日が、キヤーマ即ち「最後の日」と呼ばれる。

 2、 この世の始まりから最後の日までに、この世に生を受けたあらゆる人間がその時に生命を復活し、至高者アッラーの前で最後の日の審判の座に立たされる。これがハシュル、即ち、「復活」である。

 3、 あらゆる男女の全記録−−−彼等の生前の行為の全て善行と罪業との完全な記録−−−が最後の審判のために神の御前に出される。

 4、 神はあらゆる人間の報いを最終的に決められる。

 神は各人の善悪を衡秤され善行に対しては良き果報を悪事非行に対しては罰を降し給う。神の賞罰は微塵のくるいがない。此の審判にパスせる者には永遠の楽園の門が開かれその悪行のため有罪を宜告されたものは地獄−火と苦しみの場−へ送られる。以上が死後の世界に関する基本的な確信である。

 A 此の確信の重要性

 死後の世界に於ける生命の存在については今迄の諸予言者によって常に説かれて来ている。どの予言者もその信者達に向かってこれを信ずるように説いた。
 最後のムハンマド(彼の上に平安あれ)もその例外ではなかった。これを信じることはイスラーム信者の基本的条件でもある。総ての予言者は『これに疑問を抱くものはカーフィルである』と宣言している事実死後の生命の否定は信仰の他の要素を無意味にし善果を破懐し人を無知と不信の淵へ追いやる。
 一寸考えればこの点はすぐ明白となる。日常生活に於いてあなたがた他人から何かやってほしいと頼まれた時はそれをやる利益と、それをやらない不利益とをすぐに考えてみるだろう。これは極めて自然のことで誰でも無駄な行為は本能的にやりたがらない。あなただって無益で効果のない仕事に時間と精力を費すことはしないにちがいない。同様に無害なものに気を配る努力も必要でない、概して利用せんとする決心が強ければ強い程それに対する関心は深まるし効果が疑わしければあなたの態度も尻込みせざるを得ない。子供が何故火の中へ手を入れるか、それは火が危険であることを知らぬからである。子供が何故勉強をしたがらないか、それは勉強が安易なものでない他に彼が教育の重要性と効果を充分に把握せず又先輩の云うことを信用しないからである。さてここで『最後の審判』を信じない人について考えてみよう。彼は神そのものや神の経典による死後の世界についても信じないのか。彼にとっては神への従順も何等利益はないし神への反逆も何等損失がない。それゆえに彼は神、その予言者及聖典の禁止事項を注意深く守ろうとすることが出来ないのか。世俗的な快楽の追求のみに汲々とせず人生の試練や犠牲に耐え一定のコースを力強く生き抜かんとする発想がないのだろうか。若し人が神の掟に従わないで自己の好き嫌いだけで生きるとせば一体彼は神についてどのような考え方を持っているのか。
 然し彼が若し少し掘下げて冷静に考察すれば『死後の生命の存在を信じることは現世に於ける最大の決定的要素である』との結論に到達する筈である。それを信ずるか信じないかでその人の人生コースの暮し方が決定ずけられる。
 此の世の成功と失敗だけを対象にもの事を考える人はその生涯に起こる利害にのみに関心がかけられる。或る現実的な利益を得る望みがない限り彼は決して善行をしようと心掛けないし又如何なる不正不義でも自分の利益が侵害されない限りこれを避けたり拒んだりすることもしない。之に反し来世を信じ自分の行無の結末に確信を持つ者は総て此の世の得失は臨時且暫定的なもので永遠の天国へ持ち運べるものでないことを知っている。彼は物を巾広い見方で眺め利害に対し遠い慮りの見解を持つ、彼はそれが世俗的収益の点よりすれば如何に高価であろうとも又現実の利害関係よりすれば如何に不利であろうとも必ず善を行い悪を避ける。たとえそれが如何に魅力があろうとも、彼は物事をもって長い目(現世来世を通じて)で判断し決して自分の気まぐれや好き嫌いで決めない。このように両者の間には信仰、行動、生活の上に根本的な開きがある。彼の善行に関する考え方もはかないこの世の金銭、財宝、社会的貴賎又は他の同様のものたとえば地位、権力、名声及び世俗的幸福という形で得られる範囲内の恩恵に限られたものである。個人の願望の充足、富の増大が彼の生涯の幸せとなる。そのためには残酷不正な手段もしいて辞さない、同様に悪事に関する概念も此の世に於いて彼の利益に害の慮あるもの例えば生命財産のそう失、健康の破壊、名声の失遂又はその他の不愉快な結果を招到するもの等を指すことになる。
 これに反し信仰者の善悪についての考え方は全く異るものである。彼に依れば総て神を喜ばすものは草であり神の不興を買うものは総て悪である。たとえ此の世で彼に何の利益もあたえず又危害を伴ったり、所有物を失う結果になってもやはり善事は善事であると彼は考える。彼は神が必ず善事に対して此の世或は来世に於いて果報がいれられることを信じそしてそれが真の目的達成だと確信する。従って彼は決して此の世の物質的な収益の為に悪事に加担することをしない。たとえ短いこの世で罰を免れても神の法廷に於て結局失敗者となることを知るからである。彼は道徳の相関関係を認めないで神の啓示に依る絶対的規準を厳守し現世の利害得失は第二義的とする。
 このように死後の生命を信ずることと否とは人の一生に異ったコースを与える。最後の審判を信じない者にはイスラーム的人生を送ることは絶対的に不可能である。例へばイスラームでは『貧者にザカート(喜捨)を施せ』という、これに対し彼等は『ノー・喜捨をすれば自分の富が減る。逆に金利が欲しい位だ』。金儲けにかけては情容赦はなく借手が貧乏で飢えていても元利の回収に躊躇するような彼ではない。イスラームは『常に真実を語れ。たとえ虚言に依って利し真実を語って損することありとも』彼の答は『今すぐ何の役にも立たぬ真実などとうしようもない。まして損失を受けるに至っては真っ平、リスクも悪評も受けずに得られる場合、何故ウソをつくのがよくないのか』と反撃する。かりに人気ない場所で貴金属を見付けた場合、イスラームは『それは貴君の財産ではないから手をつけてはならぬ』と言い、彼は「ここには誰一人警察へ報告する人も、法廷で私の反対に立つ証人も、公衆に告げ口する人もいない何故この価値あるものを私が利用して悪いのか』と答う。或人が此の男に秘かに何かを預託しその後死亡したとする。イスラームは『託せられた財産について公正であれ。それは預託者の遺族に返してやりなさい』と、彼は反問して曰く『何故に? 私が彼の財産を預っている何の証拠もないし、彼の遺族達は何も知らされて居ない。私は何の困難も、法に問はれる心配も、又名前も傷つけることもなくこれを自分のものとすることが出来るのに何故そうしてはいけないのか?』
 要するに人生行動の一つ一つに於いてイスラームは或る特定の方向と態度と在り方を要請する。然し不信者は全く逆のコースを採ることが多い、イスラームは判断の標準を永遠の目標に定める。一方前の例の人物の如きは常にせつな的な欲望に基づく個人的見解の下に行動する。ここに大きな開きがある。ここで諸君は『最後の審判を信じない者はムスリムたり得ない』ことがお判りになったであろう。イスラーム信者となるのは偉大なことである。信仰なくして真の善者にはなり得ない。その善行に確固たる根処がないからである。最後の審判の否定は人間を最低の動物の地位に立たしめることになる。

 B、死後の生命

 私々はここで信仰の構成要素が理論的に理解され得るよう考慮を払って見たい。
 ムハンマド(彼の上に平安がありますように)が死後の生命に関して我々に語られた所は明らかに理由が存在する。我々のその日についての信念は神の使者を固く信頼することに因っているが然し一方理論的に考案すれば此の信念を再確認するのみならず此の面に於けるムハンマド(彼の上に平安あれ)の教えは他の総ての人の死後の生命に関する見解よりも妥当且理解され易いものであった。死後の生命については此の世に於いて凡そ左の諸見解が行なわれている。
 1、或る一部の人々は言う『人の死後は何も残されない。従って此の人生の終焉は総ての終りで他の生命なぞあり得ない』と、彼等に従えば死後の世界なぞ存在の可能性がないしそんな信念は非科学的であるという。これは所詮無神論者の見解である。結局純彼等は自分連の考え方は科学的であり近代西欧文明に立脚することを主張する。
 2、 他の一派の人々は自己の行為の結果に依って比の世へ何回も復活して来るという考え方を持つ。若し彼が良ろしからぬ生涯を過した時は次の生れ変わりは動物の形、例えば犬とか猫とか或は植物の形又は或種の下等人間となり彼の一生が善だった時は高級の人間に再生して来る。この見解は東洋の宗教の中に見出される。
 3、 第三番目の見解は最後の審判(復活、神の法廷への出廷、神の賞罰)を信ずる人々である。これはすべての預言者達の共通の信念でもあった。

 さて以上の見解を検討して見ると、1、は科学の権威と支持にかけて死後の生命の存在を否定する。死人が死後帰ったのを見た人は誰も居らぬし、復活のケースは唯の一回もなかったと主張する。人は死んで土と化す。それが人生の最後であり死後の生命などないしとする。然し乍らこれはほんとの科学的な論法だろうか?此の主張は正当な理論付けによるものだろうか?死者の復活を見たことがないという理由で死後の生命を否定するのは明らかに論理の飛躍である。此の場合『死後何が起きるのか我々には分らない』と述ぺるのが正しい態度であろう、若し此の態度をとるならばイエスでもノウでもなく今の本論よりはずされるが然し彼等は前記の限界より一歩も出ないで『死後何事も起こらない』と言い切る。彼等は知識の高さに誇りを以って斯く言う。然し此の場合科学は肯定も否定もし得ない筈である。彼等の主張は恰かも飛行機を見たことのない者がその知識に基づいて飛行機はないと断言するのに似ている。見たことがないからそのものがないとは言えない。これこそ正に幻影的で非科学的である、ものの分る人は此の説にウエートを置けない。
 次に2は別言すれば人間に生れるのも動物になるのも前代に於ける本人の行為の結果であるとする考え方であるが一体最初にどちらが在ったのか、人か動物か植物かで、若し人間が動物より先に在ったというならその人の前身は動物だったがその昔行によりて人となったといふ理屈も通る。動物が先だと言っても今の論の逆が通ずることになる。これは結局堂々めぐりとなり此の信仰の主唱者は初めの型が何れよとも決定出来ない。唯前代の行為の結果によって死後の生れが定まるという見解でありこれは条理が立っていない。
 3の見解を要約すると『此の世はいつか最後の日が来る。神は現在の宇宙を破壊し絶滅し新たに遥かに高級な宇宙を創られる』。この声明は否定の余地なく全く正しい。その真実性に疑いをかける者はいない。宇宙の姿を研究すればする程現世の組織は永久不変のものでないことが判る。何故ならその中に動く総ての力は有限でありいつの日か完全に停止する時が来る。太陽もいつかは冷却して運動のエネルギーを失い星は互に衝突し合ってやがて宇宙の組織が破壊される時が来ることを現代の科学者は認めている。現在の宇宙の構成要素の場合に於いて進化論に誤りがないとせば如何これが総ての場合に適用されないのか?宇宙が全面的に非存在(消滅)の方向に向っているというのに別の面に於いてはそれが進化過程をたどり更に一層進歩した理想的秩序が到来するであろうとは一層納得し兼ねる。此の信念の第二の点は『人は再び生命を授けられる』である。これは不可能か?若し不可能なら今の人間に如何に生命が授けられたのか?今の世に生を授け給うた神(創造主)が次の世ではそれが不可能であろうか?これは単に可能性の問題ではなく、後述の通り更に必要性の問題である。
 第三の点は『現世に於ける人の行為の総ての記録は復活の日に提示される』については今日の科学に依って証明され得る。例えば音は当初は空中に生ずる波状の運働体でやがて消滅すると考えられた。今はそれは周囲の物体に影響を残し又育成し得ることが判った。蓄音器は此の原理の応用から発明された。人の運動(行為)の記録もその運動波と接解した総ての物の上に残されている筈である。さすれば我々の行動の総てが完全に保存され再成され得るものであることは架空でない。
 第四点の『復活の日、神が審判の座に就かれ人間が生前の苦行悪行に対する貴簡を裁かれる』ことについて納得がわかぬだろうか?神は公平に裁かれるというが現に善事をしても此の世では全く報いられなかった人の例も我々は知っている。又さんざん悪業を重ねても何のとがも受けなかった例も知っている。以上の例のみにあらず善行のゆえに眼前の不幸を招き非業悪徳が却って満足と幸せをもたらした幾百千のケースを見ている。日常これを見るにつけ此の世の裁きはつくづく不完全なものと思う、そして我々の正義に対する理性を感覚し神の真の正邪両断的裁判の来る日を希求して止まぬのである。現状の秩序は物質的法則の下に立っているから悪を行なう手段を持つ者は望む時にそれが出来る。その悪の結果が彼の上に全体的に又は部分的にはね返すかどうかは彼は知らない。若し石油缶一個とマッチ一箱あれば君の反対者の家へ火を放つことが出来る。そして此の世のカが君に味方せば君は此の行為の結果から逃れられる。その時は斯る行為は結局何でもなかったのか?その通り何んでもなかったのだ。唯物質的結果が現われて道徳的結果が表面に出なかった。そして此の道徳的結果がそのまま葬られてしまうのは当を得ているだろうか?、若しそれが不当ならば問題は何時、何処かへ姿を表わすだろう。多分現世ではない。物質的現世に於いては行為の物質的結果のみが具現され理性的道徳的結果は影をひそめる。此の高度の範疇の結果は理性的道徳的法則が最高に活用され物質的法則はそれの下に立つような地の秩序の世界に於いて始めて充分な効力を発揮するのである。先に述べた通りそれは宇宙の次期の進化の過程たる来世に起きることである。それは物質的法則より寧ろ道徳律に支配される点に於いて進化的と謂える。現世に於て全面的又は部分的に残された人の行為の理性的結果はそこに姿を現わす。此の試練の現世に於ける自己の行為に関連して裁決された理性及び道徳的価値に依って人間の真の地位が決定付けられる。
 此の信念の最後の命題は天国と地獄の存在である。その存在は不可能か?神が太陽、月、星、地球を創られたのに何故天国と地獄が造れないのか。神が審判の法廷に於いて最後の裁きを行い人の善悪を賞罰される際善者に対する報償、栄誉、幸福を享受する場所即ち天国と罰を破った者達の刑に服するところ即ち地獄は当然必要となる。以上諸問題を詳察検討するに死後の生命を信ずることは条理の立った常識のある人ならば誰でも容認し得る所である。その上ムハンマド(彼の上に平安あれ)のような真の予言者がこれは事実なることを述べられているし知恵はそれを信ずることの中に在り反対する中にはない。以上が信仰の五箇条でイスラームの屋台骨となるものである。それの主旨はカリマ、タイイバと呼ばれる短い文章の中に含まれている。『ラー、イラーハ、イッラッラーハ』(アラー以外に神なし)を唱える時あなたはすぺての誤れる崇拝の対象を捨て唯一の神アッラーの被造者なることを真に自覚し更に語を添える時ムスリムとして完全なものとなる。
 『ムハンマッドッラスールツラー』(ムハンマドはアッラーの使者である)
 彼の予言者たることを受け容れた後は、神の本性と属性を信じ、神の天使達を信じ神の経典を信じ、死後の生命を信じ予言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の説かれた方法に則って神に礼拝を捧げるよう真心をこめて従わねばならぬ。かくしてここに成功と神の権威がある。

 

イスラムの理解へ戻る
聖クルアーンのページへ戻る
ホームページへ戻る