第3章予言
F、何故あらゆる敵意があるのか

 人々は彼の国民が彼を不倶戴天の敵とするのは一体どうした理由か尋ねるにちがいない。金や銀やその他の現世的財産が間題なのだろうか。流血の戦いが原因だろうか。それとも彼が国艮に何かる具れと要求したのだろうか。否、その何れでもない。あらゆる敵意は彼が国艮に唯一の真の神を礼拝することを求めたからであった。彼は神以外のものの崇拝はいけないと説教し、彼等の悪い生活態度を非難した。彼は僧職者の世俗的策略の根元をあぱいた。彼は人間の中の高貴と貧賤の差別を烈しく非難し、宗族と民族の偏見を全く暗愚だと非難した。記憶がないほと遠い昔から継統されてきた社会構造のすべてを改革しようと念願した。一方、彼の国民は彼の伝道の原理、被等の先祖伝来の伝統を破壊するものだと言って彼に伝道をやめるかそれとも最悪の結果が欲しいかと彼に結め寄った。
 人々は何のために彼がそのようなあらゆる昔難を耐え忍んだのかたずねるかもしれない。彼が彼の宗教を説教することをやめ彼の予言を流布することをやめさえすれば、彼の国民は彼を王として迎え、彼の足許にぞの土地のあらゆる富を差出すことを提案した。(注)しかし彼はその誘惑の提菜を拒杏し彼の主義のために受難の道を選んだ。何故か?もしこれらの人々が信心深くなり正しくなるならぱ、彼は何か得をすることがあったのだろうか。何故彼は財貨と賛沢と王位と安逸と豊かさを少しも求めようとしなかったのだろうか。彼はそんなものなど比ぺものにならないほどのもっと高価な物貫的利益を得ようとして活動していたのだろうか。ぞの物質的利益は、彼が火の中、剣の中にも敢て入って行き心の平静を失わず現の苦悶と肉体の苦痛に何年間も耐え忍ぶことができるほど欲望をそそるものであったのだろうか。我々はこの疑間に答えるために深く沈思熟慮せねぱならない。人間の進歩向上のために最善の努力をしている人が、こともあろうに幸あれかしと願っている当の人々から石を投げられ、虐待せられ、追放せられ、亡命先にあってさえ往居が与えられなかったのにもかかわらず、彼等の幸福のために奮斗することを惜しまず、他人の幸福のために自分の幸福を犠牲にする人があるならば、その人間こそ彼の同胞に対する献身と同胞愛と親切の最も貴い模範であると思わないだろうか。
どんな不真面目な人間でも誤った主義のためにそれほど大きな辛苦をなめることができるだろうか。いかなる不正道な思索家と夢想家でも、全国中彼に対して武器を取って立上っている時想像もできないような危険と暴虐に面しても自説を堅持して、冷静、沈着で居られるほど自分の理想に対する強い確信と決意を、抱くことができるだろうか。彼が最後の勝利を得るまで彼の運動を導いたこの信仰とそれに基く忍耐と決意は、ぞれ自体彼の宗教の崇高な真理を雄弁に物語るものである。心中に少しでも疑惑と不安があづたならば、彼は二十一年間もの長ぎに亘って暴虐のかぎりをつくし続けた嵐に対し勇敢に打勝つことは決してできなかったのであろう。
これが被の内部の中に起った草命の一面である。もう一つの面はもっと素晴しく驚くぺぎことである。


 

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